35話 最年少の黒翼将
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ノクトたちは、崩れた石壁の裏に隠された細い通路へ入った。
人一人が通るのがやっとの道を抜け、地下へと続く階段を降りていく。
湿った空気が肌にまとわりついた。
土と鉄。
それから、わずかな油の臭い。
足元は暗く、壁に取りつけられた小さな魔導灯だけが進む道を照らしていた。
しばらく降りると、急に視界が開けた。
そこは、先ほど訪れたレオンのアジトとは明らかに違っていた。
天井は低い。
だが地下とは思えないほど広い空間が広がっている。
壁や床は地属性魔法によって丁寧に補強され、崩れかけた場所は一つも見当たらない。
古い地下施設であることは間違いない。
それでも不思議なほどの安定感があった。
部屋の中央には、大きな石の卓が置かれている。
その上にはベルナール王都の詳細な地図が広げられていた。
赤と黒の印が無数に打ち込まれている。
魔王軍の兵が配置されている場所。
巡回する順番。
黒翼将の詰所。
食料や武器を運ぶ経路。
そのどれもが、驚くほど細かく記されていた。
壁際には、手入れの行き届いた武器と防具が並べられている。
刃の欠けた剣や、錆びた槍はほとんどない。
隅には魔導書と羊皮紙。
簡素な治療道具も置かれていた。
ここはただ人が隠れるための場所ではない。
戦うために作られた拠点だった。
中にいる者の数は、それほど多くなかった。
だが誰も酒を飲んではいない。
剣を磨く者。
地図を確認する者。
負傷者のための薬を分ける者。
全員が静かに、自分の役目を果たしていた。
無駄な声も、動きもない。
聞こえるのは剣を研ぐ音と、紙をめくる音。
そして短く交わされる合図だけだった。
そのすべての中心。
石卓の向こう側に、一人の青年が座っていた。
地図を見下ろしたまま、わずかにも動かない。
その男の周りだけ、空気が重く感じられた。
暁を率いる、もう一人の指導者。
ユリウスだった。
ユリウスはノクトたちに気づくと、静かに立ち上がった。
短く整えられた髪。
線の細い体。
戦士というより、学生か書記のような印象を受ける青年だった。
表情も穏やかで、声を荒らげるような人物には見えない。
だが、その目だけは強かった。
静かでありながら、少しも揺らいでいない。
叫ぶこともない。
怒りを表に出すこともない。
それでも胸の奥には、国を取り戻すという情熱が確かに燃えていた。
ユリウスは、静かに革命を選んだ男だった。
「来てくれてありがとう」
ユリウスが口を開く。
「話はルネから聞いている。一緒に戦ってくれるんだよね?」
「うん」
ノクトは頷いた。
「俺たちは暁と手を組んで魔王軍を倒す。そのためにベルナールへ来た」
「助かるよ」
ユリウスは静かに微笑んだ。
ノクトは目の前に立つ青年を見つめる。
見た目だけなら、それほど強い魔法使いには見えない。
だがユリウスの体から流れるマナは、今までに感じたことのないものだった。
地属性であることは分かる。
それなのに、大地の重さだけではない。
まるで足元のずっと深い場所から、何か巨大なものがこちらを見ているような感覚だった。
(この人、強い)
ノクトはすぐに感じ取った。
レオンが自信を持っていた理由も、少しだけ分かる気がした。
ユリウスは石卓に広げられた地図へ目を落とす。
「僕には、魔王軍から出頭命令が出ている」
ユリウスの指が、王城の位置に置かれた黒い駒に触れた。
「期限までに僕が出頭しなければ、ベルナールの住民を皆殺しにするそうだ」
ライナの表情が強張った。
「皆殺し……」
「そう書かれていた」
ユリウスの声は変わらない。
だが黒い駒に触れている指先だけが、強く力んでいた。
「だから僕たちは、その日に革命を起こすことにした」
ユリウスは顔を上げる。
「必ず僕が魔王軍を倒す」
「待ちなさい」
エリシアがユリウスを見つめた。
「私たちは、この国を占領した男と戦ったわ」
部屋にいた暁の者たちが、静かにエリシアへ視線を向ける。
「結論から言えば負けた」
エリシアは隠すことなく言った。
「ヴァルグランは、間違いなく世界最強の火属性魔法使いよ」
「分かっている」
ユリウスは即座に答えた。
「あの男がどれほど強いのか。その噂は何度も聞いた」
「噂で聞く強さと、実際に向かい合った時の強さは違うわ」
エリシアの声は厳しかった。
「あの男は一人で軍隊を滅ぼせる。普通の覚悟だけで勝てる相手ではない」
「それでも戦う」
ユリウスの声は静かなままだった。
「僕たち暁の人間は、最初から命を懸けている」
ユリウスは地図の上に並ぶ駒を見渡す。
「ここにいる誰もが、家族や友人を魔王軍に奪われた。何もしなければ、次に殺されるのは僕たちかもしれない。いや、それならばまだマシな方だ。僕たちが戦わなければ、自分たちの大切にしているものを全て奪われる。それが1番に嫌なんだ。だから命を賭けて戦うんだ。」
エリシアは黙った。
ユリウスの覚悟が、ただの勢いではないことは伝わってきた。
それからノクトたちは、革命当日の作戦について話を聞いた。
魔王軍の配置。
王城への侵入経路。
暁の各部隊が担当する場所。
レオンとユリウスは、別々の道から王城へ攻め込む予定らしい。
ノクトたちには、ヴァルグランとの戦闘を手伝ってほしいという話だった。
話し合いが続いていた、その時。
アジトの奥から、一人の男が駆け込んできた。
息を切らし、額から汗を流している。
「ユリウス!」
その声だけで、部屋にいた者たちが一斉に顔を上げた。
「大変だ!」
「何があった?」
「ルネ隊のアジトが襲われた!」
ユリウスの表情が変わった。
「襲ったのは魔王軍か?」
「分からない!今も戦闘中らしいが、連絡に来た者の話では、もうほとんど壊滅状態だ!」
アジトの空気が張りつめた。
暁には複数の部隊があり、それぞれに隊長と拠点がある。
ルネも、その一つを任されていたらしい。
「すぐに向かう」
ユリウスは迷わなかった。
壁に立てかけてあった杖を手に取る。
ノクトたちも立ち上がった。
「俺たちも行く」
「助かる」
ユリウスは数人の隊員を連れ、アジトを飛び出した。
ルネ隊の拠点は、それほど遠くない場所にあるらしい。
ノクトたちは細い路地を走り抜けた。
人通りの少ない道を選び、崩れた建物の間を進む。
目的地に近づくにつれて、焦げ臭さが強くなった。
やがて、遠くに黒い煙が見える。
「まさか……」
ユリウスの足が速くなる。
そしてルネ隊のアジトへ到着した瞬間。
全員が息を呑んだ。
建物がない。
そこにあったはずの拠点は、跡形もなく破壊されていた。
壁は崩れ、屋根は吹き飛び、地面には大きな亀裂が走っている。
瓦礫の間には、何人もの人間が倒れていた。
動いている者はいない。
暁の隊員たち。
そして、その中にはルネの姿もあった。
「ルネ……?」
ユリウスが足を止める。
ルネは地面に倒れたまま、動かなかった。
首元には、暁の印である赤い布が残っている。
ザルベックへ援軍を求めに来た少年。
ノクトたちへベルナールの現状を訴えた少年。
その命は、すでに失われていた。
ライナは口元を押さえた。
「そんな……」
ノエルも青ざめた顔で、倒れている者たちを見つめていた。
だが、ノクトはすぐに異変に気づいた。
瓦礫と死体が散らばる中央。
そこに一体の魔物が立っていた。
巨大な人型。
全身は黒い外殻に覆われ、肌と呼べるものが存在しない。
関節の隙間からは、赤黒い光が脈打っている。
呼吸をするたびに、喉の奥から低い唸り声が漏れた。
頭部には一本の角。
顔は歪み、口だけが不自然なほど大きく裂けている。
太い四肢。
石を削るほど鋭い爪。
一歩動くだけで、地面が震えた。
魔王軍が拠点を殲滅するために放つ魔物。
カルディオス。
一体だけで、小規模な軍隊や拠点を破壊するために作られた存在だった。
そして、その隣。
魔物を従えるように、一人の少年が立っていた。
その姿を見た瞬間、ノクトの表情が変わる。
「エリシア以外は、俺の後ろに下がるんだ!」
突然の声に、全員がノクトを見る。
ノクトは右手を前へ伸ばした。
闇が集まり、その手の中に漆黒の杖が現れる。
エリシアもすぐに状況を察した。
光と共に聖剣を召喚し、ノクトの隣に立つ。
ノクトたちの前に現れたのは、黒翼将エル=シェイドだった。
まだ十七歳。
そう聞いていた。
短く整えられた黒髪。
白い肌。
線の細い体。
穏やかな微笑み。
一見すれば、戦場に立つような人間には見えない。
だがノクトは知っている。
エル=シェイドが剣を握った瞬間、空気が変わる。
踏み込みは目に映らない。
斬撃は音よりも早く、結果だけを残す。
斬られた者は、自分に何が起きたのか理解する前に地面へ崩れ落ちる。
風属性魔法と剣術。
その二つを組み合わせ、数え切れないほどの人間を殺してきた。
最年少の黒翼将。
エル=シェイドは、血の海の中に立ちながら微笑んでいた。
怒りもない。
喜びもない。
罪悪感すら感じていないような笑顔だった。
命令されたことを、ただ正確に終えただけ。
そのように見えた。
「お久しぶりですね、ノクトさん」
エル=シェイドが静かに言った。
「まさか、このような場所でお会いするとは思っていませんでした」
「俺もだよ」
ノクトは杖を強く握る。
エル=シェイドは、ノクトの手にある漆黒の杖を見た。
「杖まで出して、まさか僕と戦うつもりですか?」
「ああ」
ノクトは答える。
エル=シェイドは口元の笑みを崩さなかった。
「ご自分の力だけでは、魔法もろくに扱えないというのに」
その視線が、ノクトからエリシアへ移る。
「なるほど。噂にはお聞きしましたが‥‥その光属性の方に支えてもらうおつもりですか」
「だったら何だ?」
「それでも僕には勝てませんよ」
エル=シェイドは腰に下げていた剣の柄へ手を置いた。
「ですが、ちょうどよかった」
笑顔のまま、淡々と続ける。
「ノクトさんの首を魔王様へ献上すれば、僕の昇格も約束されるでしょう」
剣が鞘から少しだけ抜かれる。
それだけで風が吹いた。
瓦礫の上に落ちていた紙が舞い上がる。
「死んでもらいますね」
穏やかな声だった。
だからこそ、恐ろしかった。
エル=シェイドの笑顔の奥から、何を考えているのか分からない殺気が溢れ出す。
息をすることさえ許されない。
わずかに動けば、その瞬間に首を斬られる。
誰もがそう感じていた。
ノクトは杖を構える。
その隣で、エリシアが聖剣を握った。
エル=シェイドも、ゆっくりと剣を抜く。
絶望的な緊張感の中。
最年少の黒翼将との戦いが、始まろうとしていた。
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