1.
六月。初夏の陽射し差し込む午後の教室では、六限目の授業が行われていた。
「……へへ、旦那様。影使いの住む山で明かりはご法度ですぜ?我慢してくだせえよ』
道案内をする弥彦という男は、不気味に笑いながらそう言った。
『影使い?……」
背の高い男子生徒が、抑揚のない低い声で教科書を読み上げる。六限目は国語だった。
「……旦那様は何も知らねえんですな。旦那様がお探しの六郎が使える異能の力の事でさ……」
「異能の力、か……」
清鳳学園高等専修専門学校一年生の秋葉クロウは、右手で鉛筆をクルクルと回しながらそう呟いた。
ふと、窓の外に目を向ける。さんさんと降り注ぐ太陽の下、グラウンドで体育の授業をしている生徒達の姿が見えた。
「じゃ、次は。そうだなぁ……。そこでよそ見をしている秋葉、お前に読んでもらおうか?」
国語教師の野田が、クロウを見ながらそう言った。突然の事にクロウは「ふぇ?」と間抜けな声を上げながら、前を向いた。
「ふぇ?じゃないだろ。ちゃんと、聴いてたのか?」
「は、はい」返事を返すと、クロウは、教科書を持って立ち上がった。「えっと……。えーと、『へへ、旦那様は何も知らねえんですな。旦那様がお……」
「適当に答えるんじゃない」
クロウの言葉を野田が遮る。同時に教室がどっ、と湧いた。
「……四六ページの六行目から」
野田は、ため息混じりにそう言った。
「あ、はい。えっと……『いやいや、アレにそんな力はありませんぜ』弥彦は、笑いながらそう言った。『それに、時を戻すなんて大それた事が出来る力、この世にありゃしません』
『何故わかる?』
『へへ、出多羅面坊様の受け売りでさぁ。あたしはよくわかりませんがね、この世の理がなんちゃらって言ってましたね』
そんな話をしながら歩いていると前方に明かりが灯る小さな小屋が見えて来た。
『ほうら、見えてきましたぜ?あれがこの山に住む大天狗である出多羅面坊様の住む小屋ですぜ?』
『そこに六郎という小天狗がいるのか?』
『へえ、そうです』
弥彦がそう言った時だった。伸びやかで透き通る様な笛の音が静かな夜の山に鳴り響いた。
『な、なんだ?』
新右衛門が辺りを見回しながらそう言うと、弥彦は上を見上げながら『おおーい、ロクッ。お前さんに客人だぞーっ、いっ』と言った。
すると、ふわり、と新右衛門の目の前に端正な顔立ちの山吹色の服を着た齢、十四五、六の少年が降り立った。手には薄墨色の古びた笛を持っていた。
『なに?オッちゃん』
『ロク。こちらの旦那様がな、お前に用事があるそうだ』弥彦は、そう言うと新右衛門に『旦那様、こちらがお探しの六郎です』と言った。
『……ふむ、小天狗と聞いて来たのだが、まるで人間の童のようだな』新右衛門は、六郎を見ながらそう言うと咳払いをした。『お初にお目に掛かる。私は……』
『ま、立ち話もなんだからさ、中に入れって、な』
六郎は、新右衛門の言葉を遮るようにそう言った。
『お、おい。まだ、話の……』
『……旦那様。ロクは、世間知らずでしてね。まあ、許してやってくだせぇ』
弥彦が、新右衛門の耳元でそう囁くと六郎が、小屋の入り口に立ちながら『オッちゃんもどう?』と言った。
『へへ、じゃあ、遠慮なく……』
弥彦は、そう言うと小屋の中に入っていった。
『新右衛門って言ったっけ?アンタも早く、入りなよ』
六郎は、そう言った。
『俺を呼び捨てとは、いい度胸だな。勅命でなければ……」
チャイムが鳴った。
「よし、じゃあ、今日はここまで。ちなみに明日の小テスト、点数が低かったら追試だからな」
野田がそう言うと教室は不満の声に包まれた。
「なら、しっかり、勉強してこい。じゃ、このまま帰りのHRやんぞ。日直ッ」
野田がそう言うと、日直が「起立ッ」と号令を掛けた。生徒達が一斉に椅子からぞろっと立ち上がる。
「礼ッ」
生徒達は、揃って軽く一礼した後「着席ッ」という号令と共に一斉にざっと椅子に座った。
「えーと、さっきも言ったが、明日の小テスト、落ちたら追試だからな。ちゃんと勉強してくるように」
教室がうねる波のようにざわめき立つ。
「文句があるなら勉強してこい」
野田は、ため息混じりにそう言った。
「ああ、それと、知ってはいると思うが、最近、何かと物騒だ。くれぐれも夜中に出歩いたりしないようにな。まー、言いたいことはそれだけだ。以上、日直ッ」
野田がそう言うと日直が号令を掛け、生徒たちがぞろっと立ち上がり、軽く頭を下げた。それが終わると野田は荷物をまとめて教室から出ていった。
野田が出て行くと、堰を切ったように教室の中が騒がしくなり始めた。
クロウは、バッグに教科書を詰め込むと終礼が終わった事を知らせるチャイムが鳴るのを待って教室を出ていった。
「あーあ、酷い目にあった」
クロウは、そう呟きながら一階に降りて行き、渡り廊下を通って所属する陸上部の部室へと向かっていった。
部室は、講堂に隣接した二階建ての白い建物の中にあった。この建物は、通称・部室棟と呼ばれていて、その名が示す通り、陸上部を始めとした運動部の部室が多く集まっていた。一階には、部室の他にシャワー室が完備されており夏場は、多くの生徒で賑わっていた。
二階にある陸上部男子更衣室と書かれたドアを開けるとムワッとした熱気とツンとした酸い匂いが鼻先を掠めた。狭い更衣室の中では数人の男達が着替えをしていた。
「おう、秋葉、」
一番手前にいた背の高い色黒の男がそう声をかけて来た。彼は、陸上部の部長を務めている二年生で、名前は板野公孝といった。
「随分と早いんですね」
クロウがそう言うと板野は、ガハハと、豪快に笑った。
「おいおい、何を言ってるんだ。もうすぐ大会だろ?」
「あっ、」
クロウがそう言うと板野は「あっ、じゃないだろ?あっ、じゃ」と言ってクロウの肩を叩いた。
「来週、メンバー選抜の為のテストをする予定だ。それまでに調整しておけよ?」
「あ、はい」
「よし、じゃ、着替えた奴から練習をはじめるようにッ!」
板野がそう言うとその場にいた全員が「はいッ」と声を上げ、着替え終えた者からぞろぞろと外に出ていった。
「じゃ、秋葉。電気と鍵、よろしくな」
板野は、そう言いながら鍵をクロウに投げ渡した。
「あ、はい」
クロウは、鍵をキャッチしながらそう言うとドアがバタン、と閉まった。
「大会、かあ……」
クロウは、そう呟きながらバッグからユニフォームを取り出した。ユニフォームは、オレンジ色のランニングシャツと短パンだった。
クロウは、ワイシャツを脱ぎながらロッカーを開けた。ロッカーの中は、何処に何があるか一目でわかる様に整理整頓されていた。ワイシャツを脱ぐとクロウは、中に吊るされたハンガーを手に取りワイシャツを掛けた。
下に着ていたグレーのシャツは、汗を吸ってほのかに湿り気を帯びていた。シャツの襟元を持つと上に引っ張るようにして脱ぎはじめた。汗を吸ったシャツは、肌に纏わり付き、脱ぐのも一苦労だった。途中、何度か、ビリっという破けそうな音が聞こえたが、なんとか破けずに脱ぐことが出来た。
「うわ、すごい汗……替えを持ってきて正解」
クロウは、そう呟くと新しいシャツが入った袋を取り出した。
シャツを取り出し、代わりに脱いだシャツを丸めて中に入れると袋の口を閉め、バッグの中に入れた。
ズボンを脱いで、ロッカーの中にあるハンガーに掛けると、クロウはパンツ一枚のまま、身体中に僅かに滲む汗をタオルで軽く拭き取った。汗を拭き終えると短パンを履いてからランニングシャツに袖を通した。
「少し、キツくなったかな?」
自身の臀部を撫でながらそう呟く。クロウは、臀部が大きいことを気にしていた。
「中々、小さくならないんだよなぁ。もっと、筋トレしないとダメなのかなあ……」
ため息混じりにそう呟くとロッカーの扉を閉め、更衣室の電気を消し、戸締りをしてからグラウンドに向かっていった。
陸上部の部員は、顧問の橘の指導の下、グラウンドの隅にある専用スペースで練習をしていた。
クロウは、入念に準備運動をして体をほぐしてから橘の元に駆け寄った。
「遅くなりました」
クロウが、軽く一礼しながらそう言うと橘は「おう」と愛想のない返事を返した。
橘に軽く一礼をした後、クロウは、隅の方で走り高跳びの練習をしているグループの方に向かっていった。
「遅くなりました」
クロウは、部員に向かって指示を出す副部長の村岡美希に向かって軽く一礼をしながらそう言った。
「来たわね」
美希は、軽く笑いながらそう言うと、練習をしている部員に向かって声を掛けた。
「今から、秋葉くんが跳ぶから」
美希の声を合図に部員が、バーの位置を変更した。先程よりも高い位置だった。
「はい、跳んで」
美希は、さらりとそう言った。
「え、でも……」
「いいから、」
美希は語気を強めながらそう言った。
「は、はい」
美希の気迫に押された形でクロウは、スタートラインに立った。
スーッと、軽く息を整えて、バーをじっと見つめる。そして、
走り出し、バーの手前で、タンっと勢いよく地面を蹴り上げた。
ふわり、と身体が宙を舞う。空中でくるりと体を回転させたクロウの目に、青々としたバヂターブルーの空と眩しく輝く夏の太陽の姿が映った。ぼすん、と身体がマットに沈み込むと拍手が聞こえてきた。
「すごい、すごい」
美希は、キャッキャと子供のようにはしゃぎながらそう言った。
「あ、ありがとうございます……」
起き上がりながらクロウがそう言うと、美希は「じゃあ、次はもっと高く跳ぼうか?」と言った。
「へ?」
「へ?じゃない。ほーら、早く跳んで?」
美希はそう言った。クロウの後ろでは、部員達が「出た。副部長の可愛がり」「美希、あーいう子が好きだもんね」「あの一年、可愛そうに」と、囁いていた。
「は、はい」
クロウは、失敗したな。と思いながら引き攣った笑みを浮かべた。




