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ついに…ついにっ!!
急に耳に飛び込んできたその声に驚き、勢いよく振り返った。
-気配はなかった。一体どこから…
同じようにシレーヌも驚いたのだろう。
予期せぬ第三者の登場に、目元を赤く染めたままキョトンとした顔を上げている。
裏通り入り口にちょうど当たる、石造りの建物の影にその場所に、そいつはいた。
見た感じ、華奢な体つきをした年端もいかない少年だった。
今にも消えてしまいそうなのに、何故か強烈に目が離せないような、そんな独特です圧倒的な存在感を持つ、不思議な少年だ。
それも、シレーヌとはまた違った作り物めいた美しい顔立ちをした…
藤色の淡い髪は下手したら他の男よりも短いベリーショート、はっきりと見える翡翠よりも柔らかいペリドットの瞳は楽しげに輝いている。
ぺらぺらの七分袖のシャツに、ふくらはぎ半ばあたりまでのダボダボのズボンという格好のせいか、余計に彼の整った容姿が目立っている。
「貴方は…誰?」
シレーヌの問いに、彼はニンマリと口元に弧を描く。
『もう一度聞くぞ?それが願いか?』
彼はシレーヌの問いには答えず、再び先ほどと同じことを繰り返した。
完璧な配置で作られた顔立ちが、美しくも優しい笑みを浮かべる。
その瞬間、自分の奥底にある本能の一端が、何かを確信したように震えた。
そうして全身を支配する完全なる畏怖。
得体の知れない何かを目の当たりにした、そのことだけが頭の片隅で理解できる。
-…………コイツ……なん、なんだ?
確かにそこにあるのは美しく微笑む少年なのに、それはただの器であり、その奥には無限に広がる深淵が広がっているような…
そんな理解できない底知れなさに身体が勝手に震えてしまう。
そんな動けない俺を置いてけぼりに、シレーヌと彼の話は進んでしまったらしい。
『それで良いのだな?いいぞ、どれ叶えてやろう。』
そう言った彼がその瞳を細める。
瞬間、
視界に映る景色が変わった。
見覚えのある…あの大道芸が行われていた広場だった。
-なんだこれ?
先程抜け出した時より、異様な喝采に満ち溢れた広場。
地面につく足の感覚、人間たちそれぞれの持つ匂い、声や物音、どれもリアルで確かなものであり、これがまやかしではなく、本物だと伝えて来る。
-これ、瞬間移動か?
今まで体験したことのない未知なる現象に、混乱する余り理解が追いつかない。
それはシレーヌも一緒なのだろう、すぐ隣で戸惑った表情をしたシレーヌが、辺りをキョロキョロと見回している。
その時、
「檻が壊れたぞっ!!」
「化け物が暴れ出したっ!!」
「キャーーーッ!やめてぇっ!!」
耳をつんざくような爆発にも近い金属音。
そのすぐあとに次々と上がる人々の悲鳴。
何が起きたか視認する間もなく、あっという間に散り散りに逃げ惑う人々の波に飲み込まれる。
「キャッ!?」
「シレーヌッ!」
男に突き飛ばされたシレーヌを咄嗟に受け止め、改めて冷静に視線を走らせれば、広場の噴水を破壊し暴れる、何故か巨大化した蛇…ラミアの姿。
「なっ……」
「ねぇ、あれ……」
どうするべきか、言葉を詰まらせ固まった俺とシレーヌ。
その様子を面白がるようなクスクスと楽しそうに笑う声が耳元に響く。
『安心するが良い。"アレ"はしばらく暴れさせたら"何もかも元通りにして"安全な地に返してやる。』
それはどこかの愚かな喜劇を歌うような軽やか声。
全く性別を感じさせないその声で、彼は何を悪びれるわけでもなく、ただ無邪気に笑う。
青く、何一つ覆うもののない、まっさらな空を背に…
明らかに常人ではあり得ない空に浮かぶ姿。
それなのにそこにいることに他には誰一人気がつかないように、彼に目を留める者はいない。
意味もなく流れ出る汗とぞくりと際立つ寒気…
そんな俺たちを嘲笑うように彼はニンマリと笑みを作る。
『"願いを叶えて"やったのだから、対価は当然じゃのぉ?』
そう言った彼はスィーッと、重力などまるで無視するように空を横切り、シレーヌの前に浮かんだままピタリと止まる。
思わず目を丸くし、固まるシレーヌに、彼は目を細め優しく笑った。
『対価はそちじゃ。』
そう言って彼は、するりとその小さな手をシレーヌの頬へと滑らせ…
そして、
その唇にふわりと口付けた。
ほんの一瞬、
俺に向かって視線を流し見てから…
同じように音もなく離れた唇が、三日月のように歪められる。
『この娘、しばらく貰うぞ。』
その言葉が響いた時、
その少年の姿は、
シレーヌと共に消えていた。
***
ガンッと、扉が軋み悲鳴を上げる音よりを一掃するほどのけたたましい音で、入り口の扉が叩きつけられる。
「っ!?なっ!…」
思わず椅子の上で飛び上がった身体を立て直し、入り口へと振り返って見れば、物凄いスピードでいつのまに近くまで歩いてきていたテヤンが、今度は俺の目の前のテーブルをその掌で叩きつけ、物凄い振動でテーブルを揺らす。
「シレーヌが消えたっ。」
「…………はぁっ!?」
数秒のラグを含み、理解できたその内容に思わず声を上げてしまう。
珍しく焦りを前面に滲ませるそのテヤンの様子に、何故か俺自身も伝染するように戸惑ってしまう。
「…誘拐されたってことか?」
1人平静を保ったゼクスが、落ち着いた声でテヤンに問いかける。
「わからない。」
「わからないってなんだよ…」
「急に目の前から消えたんだ。…なんか、藤色の短い髪の、宙に浮かぶ少年と…」
-藤色の髪?宙に浮かぶ?目の前から消えた?
心当たりのあることの数々に思わず嫌な汗が滲んでくる。
無意識にゴクリと唾を飲み込んでいた。
喉の渇くのが嫌なほど感じられる。
脳内に導き出されるある可能性を否定したくて、思わず縋るような気持ちでそれを訪ねる。
「もしかしてそいつの目の色って………黄緑か?」
「……あぁ。」
その瞬間、自分の顔色がスッと青くなったのが見えてないのにはっきりとわかった。
動揺から震える唇が、勝手に声を上擦らせる。
「…やられたな。面倒なことになった……」




