-4- 洞より響くは
宇良木集落で迎える朝。ぴんくまの202号室で目覚めた私は、まだ隣のベッドで眠りこけている真奈加を置いて、ラウンジへと降りていった。床に溜まった夜の空気が、脚を這い上がって背中を冷やす。
一階では既に酒居さんが朝食の準備をはじめていた。時刻は午前六時半。窓から見える雪景色はまだ濃紺の余韻を残し、蝋梅の花も俯きながら曙光を待っている。
「おはようございます。部屋になにか不都合はありませんでしたか」
「ああ、いえ、大丈夫です」
居室のクオリティは高くもなく低くもなく、もてなしと料理を含めれば当たりの部類だと言えた。私は両腕をさすりながらソファに腰かけ、テレビをつける。天気予報は会津地方が終日快晴であることを告げていた。
「今日はなにかご予定あります? よければ、また色々と案内しますけど」
酒居さんが言った。おそらくは善意からの申し出なのだろうが、ヤサカさんとの一件があるため、私たちを集落から離しておくためのものかと邪推してしまう。
「ちょっとゆっくりしようかなと思います。散歩とかして」
昨日は真奈加に付き合ったが、言われるままに遠出してばかりでは、ここにきた意味がない。今日は私も集落を回るつもりでいた。
「なにもない集落ですけどねえ」
集落にはなにがありますか、と聞こうとして釘を刺されてしまった。
もっとも隅々まで探索ができなかったとして、よそ者がヤサカを探しているという噂が立つだけで意味はある。噂が本人の耳に入れば、向こうの方から働きかけてくるかもしれない。
それに狭い地域だ。歩いていてばったり鉢合わせないとも限らない。彼の方で会いたくない事情があるのなら、また話は違ってくるが。
そうこうするうちに、片倉君と真奈加、遅れて古戸さんが降りてきた。朝食はふわっとしたスクランブルエッグや地元産らしいソーセージが乗った洋風のプレート。
「集落ってどんな感じなんですか」
私は固めの丸パンをちぎりながら尋ねたが、寝起きの古戸さんはまだぼーっとしている。代わりに片倉君が答えた。
「ちょっと行ったところに池があります。でもそんなに大きくはないですね。縁を回るだけなら、ゆっくり歩いて三十分もかからないと思います。所々古い家はあるんですけど、ほとんど廃屋でした。昔は池の周りに、もっと人が住んでたのかも」
「なにか変わったものはあった?」
「お寺がありましたよ」
「へえ」
「外から見ただけで、まだ詳しく調べ――ええと、近くに行ってないんです」
酒居さんの存在を意識して、片倉君は声を低くした。
「多分、そこも無人なんじゃないかって。廃寺って言うんでしょうか」
「ふぅん……」
せいぜい二十人ぐらいの集落では、寺を維持するのも難しいのだろう。
「古戸さんはほかにも気になることがあったみたいですけど……」
「それはあとで、ってことね」
私と片倉君は頷きあってから他愛無い会話に戻り、食事を続ける。真奈加が大きくあくびをしてから、まだ眠たげな声で呟いた。
「寒いからしっかり着込まないとね~」
*
私たちがペンションを出たのは午前九時のことだった。日差しはあるが、気温は寒風が肌に痛い氷点下。脂肪が少なく服装も適当な古戸さんは、しきりに白い息を吐きながら、両腕を抱いて震えていた。見かねた片倉君が携帯カイロを渡す。
白一色の地面を踏みしめながら、まずは近くの池へと向かう。道中にぽつぽつと見える家屋はひっそりしていて、人が住んでいるのかいないのか判然としない。
二百メートルほど歩いていくと、池の縁に辿り着いた。
わずかに結氷した水面は暗く静かで、周囲の雪や植生と相まって非常に寂しげな景観を形作っている。蝋梅の花もここからは見えず、なにもない、という酒居さんの言葉が強く思い起こされた。
「なんかしんみりだね」
真奈加が言った。魚も獲れそうにないしねえ、と古戸さんが応じる。発した声も雪へと吸い込まれ、すぐに耳を突くような静寂が戻ってくる。
池の周囲には申し訳程度の道があり、ぐるりと一周できるようになっているようだ。しかし集落の領域自体がそれほど広くはないため、踏破したところでなにか見つかりそうかというと微妙なところだ。
「そういえば古戸さん、気になることがあったって聞きましたけど」
朝食時に片倉君が言っていたのを思い出し、私は尋ねた。
「うん? なんだっけ……。ああ、そうそう。どうもここには墓地がないんじゃないかと思ってね」
「墓地ですか」
「そう。都市部だと墓地は郊外にあることが多いけど、地方の集落は結構な割合で共同体の中に墓地が作られてる。寺まであるならなおさらね。集落が消滅に向かってて、移設を進めるにしても、ちょっとタイミングが早すぎるような気もする。
墓地があればヤサカの名前を探してみようと思ってたから、そういうことが気になったんだよ。もっとも集落の隅々まで探したわけじゃないから、どっかにはあるのかもしれないけど」
地域により墓の形態は様々だろうし、私はいわゆる都市部の人間なので、古戸さんがなにに引っかかっているのか、今一つピンとこなかった。あるいは、彼だけが持つ知識と関連づけられているのかもしれない。
ともかくもう一度墓を探してみようという話になり、私たちはまだ十分に調査していないという廃寺付近を目指すことにした。
池を左に見ながら反時計周りに進む。道は雪に埋もれているのか、最初からないのか、少なくともしっかりとメンテナンスされ、それなりに人の往来があったのは、ずっと昔のことなのだろう。
静かな景色の中、私が物思いに耽りながら歩いていたとき、少し離れた場所から、枯れ枝の折れるような音が聞こえた。反射的に目を向けると、視界の端を黒い影が掠める。咄嗟に正体を見極めようとしたが、木の陰に隠れてしまったようで、もう姿は見えなくなっていた。
「どうしたの楠田さん」
「いえ……」
一瞬見えただけなので確かなことは言えないが、鳥や熊ではないような気がする。集落の住民だろうか? こちらを監視しているような感じもした。
「ヤサカさんですか?」
片倉君が早合点する。
「多分、違う……。そもそもヤサカさんって、どんな感じの人だっけ?」
地元に帰ってまでホームレス然とした格好をしているとは限らないし、身体的特徴や雰囲気などはまだ聞いていなかった。
「マスクとか帽子をしてることが多かったので、僕もしっかり観察したことはないんです。結構毛深いタイプかな。背は古戸さんと同じぐらいだと思いますけど、背中が結構曲がってるので、もう少し高いかもしれません」
「背中? お年寄りみたいな感じで?」
「猫背がひどい、みたいなイメージです」
ヤサカさんの年齢は五十代ぐらいだとというから、老人性のものとは考えづらい。生まれつきなのか後天性なのかは片倉君も知らなかったが、相対すれば一目で分かる自信はあるとのこと。
「楠田さん、さっきなにかが見えたのはどっちですか?」
「あっちの方」
「行ってみましょう」
決めるが早いが、片倉君はずんずんと先へ進んでいく。目指していた廃寺とはまた違う方向だ。彼のうしろ姿からは強い焦燥が感じられた。
「片倉君、なんか心配だね」
追いついてきた真奈加が、私の隣で言った。
「どういう風に?」
「真面目すぎる感じがする」
「そうかもね……。でもそれだけ大きい存在だったんだよ、多分」
「ヤサカさんが女の子だったら、すごくロマンチックだったのにね」
「ドラマの見過ぎ」
私と真奈加は古戸さんがついてきているのを確認してから、片倉君の足跡に続く。道のない場所では雪のせいで歩みは遅くなり、体力の消耗も大きい。
人里に近いからといって油断すると、うっかり迷子になった挙句、低体温症で死ぬなんてこともあり得そうだ。私は集落と池の方角を確かめながら、木々の間を慎重に進んでいった。
一時は数十メートルほど離れてしまった片倉君だが、やがて私たちはその背中に追いついた。彼は半ば雪に埋もれかけた穴の縁にしゃがみこみ、地面に落ちているなにかを手に取っているところだった。
穴はどうやら坑道や防空壕などでなく、自然にできたもののようだった。土が木の根で固定され、かなりしっかりした形を保っている。
「なにか見つけた? 片倉君」
彼は無言のまま手にしたなにかを凝視していたが、真奈加と古戸さんが追いついてきてからようやく、それを私たちに見せてくれた。
小石程度の白い物体。見間違えようがない。これは歯だ。銀の詰め物で治療された、人間の完全な奥歯。
「どうしてここに歯が……」
真奈加の呟きは、この場の全員が抱いた疑問だろう。
「病気や事故によって偶然抜けた。わざと引っこ抜いて落とした。あるいは誰かが殺されるなり傷つけられるなりして、回収されない遺留品として歯が残った。色々な可能性はあるけど、なぜここで、ということはまた別に説明する必要があるね」
古戸さんが言った。殺されたという言葉は少々配慮に欠けているが、状況から考えると、そう突飛な想定でもないのだ。
「もっと色んな骨が残ってたら、野犬とか熊とかを疑ったところだけど、歯だけ落ちてるってのが妙だ。それはそれとして、この穴に冬眠してる熊がいないとは限らないけど」
「……足跡とかありましたっけ」
私は恐る恐る穴を覗き込んだ。かなり奥まで続いているようだが、さすがに入ってみる度胸はない。
「どうかな。僕はマタギじゃないから注意して見てなかった。なんにせよ、歯は持っておくといいよ。あとで証拠になるかもしれないし」
「はい……」
片倉君の声はわずかに震えていた。不吉な想像を逞しくしてしまったのだろう。
私が洞窟に背を向けようとしたとき、穴の奥から風の流れによるものとも、獣の鳴き声ともつかない音が聞こえてきた。その響きはどこか腐臭に似た生々しさを孕み、雪に吸われることもなく、宇良木集落に沁み渡っていくようだった。




