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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Episode10 霧にうつろうもの
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-5- 太った女

 猛禽に似た鉤爪がヴェラのデイパックに食い込んだ。彼女は衝撃によろめきつつもとっさに身体を捻り、肩や顔面に掴みかかられるのを辛うじて防いだ。


 怪物の飛び方はその姿かたちと同様に奇妙だった。羽は広げられたままほとんど動かず、微妙な方向転換だけに使われていた。もしかすると、鳥や航空機とは異なる原理で浮かんでいるのかもしれない。


 いや、怪物の飛行方法に思いを巡らせている場合ではない。私は湧き上がる恐怖を必死で押さえつけながら、ヴェラを助けるべく怪物の脚にしがみついた。


 その表面はぞっとするほど冷たく、甲殻類のような棘が無数に生えていた。掌を苛む痛みに耐えつつ、両手でこじ開けるようにして、ヴェラから鉤爪を引きはがそうと試みる。


 しかし所詮は人間の握力。私がどんなに筋肉を強張らせたところで、硬い締めつけ緩めることはできなかった。それどころか煩わしそうに伸ばされた肢の一本に顔面を狙われ、危うく眼球を抉られそうになる。私は思わず手を放し、再び地面に這いつくばった。


 そのとき、ヴェラのデイパックが裂け、中に入れていたルルイエ異本が転がり落ちた。背表紙がアスファルトの道路に当たり、妙にぶよぶよした、分厚い紙束が口を開けた。


 そのとき、奇妙なことが起こった。ページの上に凝った霧が不浄な青色に変化し、触手めいた先端を四方八方に広げたのだ。


 本を前にした怪物の反応は意外なものだった。爬虫類の口からハウリングのような音を響かせたかと思うと、ヴェラを解放して素早く飛び上がり、私たちから距離を取ったのだ。開かれたルルイエ異本と、その背後にある力を恐れているかのようだった。


 どんな理由にせよ、この隙を活かさない手はない。


「ヴェラ、逃げよう」


 怪物が離れたのを確認してから、私は急いで本を拾い上げた。青い霧に近づいたとき、つんとした海水の臭いが鼻を突く。よろめきながら立ち上がろうとしていたヴェラに手を貸し、彼女の身体を確かめた。ウィンドブレーカーは所々破れていたが、出血している様子はない。


「……そうしましょう。不本意ですが」


 目と声に撤退の屈辱をにじませながらも、ヴェラは私に従った。


 立ち込める霧は怪物の不気味さを倍加させていたが、逃げるにあたっては好都合だった。少なくとも、遥か上空から見つかってしまうことはないだろう。地面の近くまで降りてくるにしても、あの羽で住宅街を飛び回るのは不便なはずだ。


 襲撃された場所から急いで離れつつ、私はちらりと背後を振り返った。たるんだ乗り手が怪物から降り、奇怪な動きでこちらを追ってきていた。


 ポンチョに似た黄色い衣服をまとう巨体――女のように見える――は、軽く百キロ以上あるだろう。皮と脂肪に埋もれた脚を動かし、全身を波打たせながら進むその姿は、まともな骨格と筋肉を備えた人間でなく、ゆるいゼリーを彷彿とさせた。


 垂れた顔面に開いた穴のような眼は、私が胸に抱くルルイエ異本に向けられているように思えた。


 太った女の動きはぞっとするほど俊敏だったが、さすがにすぐ追いつかれるほどではない。私たちは相手を撒くために狭い橋で対岸に渡り、さらに下流を目指した。


       *


「さっきの、見た?」


 公園から一キロ以上離れた場所まで来たが、私たちはまだ歩調を緩める気にはなれなかった。


「ええ。私もはっきりと青い霧を。サタンたちはあれを恐れるのでしょうか?」


「分からない。あの怪物だけかもしれないし」


 ルルイエ異本が彼女らの脅威だとしても、それで諦めてくれるとは限らない。恐ろしいものだからこそ、自分の管理下に置くか、破壊したいと思うものかもしれない。


 今でさえこの本は私の手に余る。遅かれ早かれ扱える重さではなくなるだろう。捨ててしまえるならばまだいい。しかしページを通してこちらを見つめるポリネシアの海神は、私を手放してくれるだろうか。


「まだ続けますか?」


 ヴェラは本をちらりと見遣った。


「まだ、古戸さんも見つけてないからね」


「分かりました」


 霧は私たちの姿を覆い隠すが、それはこちらからも相手が見えないということだ。いつどこで遭遇するともしれないという恐怖は、私の神経を大いにすり減らした。


 現に、今でも背後に気配を感じる。頭上でときおり影がよぎる気がする。妄想か幻覚なのかもしれない。霧の中ではすべてが確かでない。


 河口まであとどれぐらいだろうか? じっくり現在位置を確認している余裕もない。気づけば私たちは川沿いをほんの少し逸れ、古い長屋のような建物が並ぶ、狭い通りを歩いていた。


 突然、前方でがしゃんと音がする。自転車かバイクが倒れたのだろう。次いで、強烈な汗臭さと獣臭さが風に乗って漂ってきた。


 私は驚きに肩を震わせ、ルルイエ異本を胸に抱いたまま脚を止めた。ほどなくして、黄色い衣に覆われた肥満体が姿を現した。逃げ道を塞ぐようにして、黒い怪物が背後に着地する。


「この……ッ」


 進むか退くか。ヴェラの判断は速かった。彼女は飲み屋の店先にあった古いデッキブラシを掴み、太った女に殴りかかった。


 右から左へと振り抜かれたブラシは、女の頭と首をゴムのようにたわませたが、損傷はほとんど与えられなかった。反対にブラシの腐りかけた柄が割れ、半ばから折れてくるくると舞った。


「ヴェラ、離れて!」


 警告も空しく、女は素早くヴェラの胴を掴み、軽々と持ち上げてしまった。そしてボールでも放るかのように、その身体を私に向かって投げつけてきたのだ。


 本を持っていたせいで反応が遅れる。ヴェラとぶつかるまでのコンマ五秒、私には頭を打たないよう身体を丸めるのがせいぜいだった。もっとも投擲の勢いを考えれば、十分に構えたところで、受け止めることなどできなかっただろう。


 私は衝撃で飲み屋のシャッターに叩きつけられ、地面に倒れ込んだ。危うくノックアウトされかけたが、なんとか耐える。ヴェラが傍らで呻き声を上げながら、早くも立ち上がろうとしていた。サタンに対する闘志は尋常でない。


 そのとき、私はルルイエ異本を手放してしまったことに気がついた。先程までいた場所を見ると、女が不格好に身体をかがめ、本を拾い上げようとしているところだった。


 奪われてはいけない。


 怒りと焦燥が脳裏を塗り潰す。這いつくばっていた私の手に、転がっていたデッキブラシの柄が触れた。それを掴んで立ち上がり、ようやく本を手にした女に跳びかかる。


 私はそのぶよぶよした肩目がけ、割れて鋭利になったデッキブラシの一端を振り下ろした。皮膚と肉を突き破る感覚。柄が突き刺さった場所から、ぶちぶちと白い脂肪が、ついで黒ずんだ体液が流れ出した。女の苦悶とともに、背後で黒い怪物が、私たちを脅かすように鳴き声を響かせる。


 もう一度同じ場所に柄を突き刺すと、女は本に伸ばしていた手を引っ込め、嘔吐の音にも似た声を上げた。


 私がダメ押しとばかりに女の後頭部を蹴りつけると、たるんだ巨体はバランスを崩し、道路にべちゃりと尻もちをついた。素早く本を回収したヴェラとともに、狭い路地を脱出する。私たちは興奮のままに息が上がるまで走ってから、膝に手をついて短い休息を取った。


 正気の沙汰ではない。今の状況も、それに対する私の行動も。なぜ自分はこんなに命がけで本を守っているのか。なぜ霧の流れる不気味な川から離れず、なにがあるかも分からない海を目指しているのか。私は自分が予想していたよりずっと早く、ルルイエ異本に憑りつかれてしまったのだ。


 理性が警鐘を鳴らしている。しかし衝動に抗うことは困難を極めた。


 愚かだった。自分ならなんとかできるかもしれないと驕っていた。怯える清水さんを哀れな被害者だと断じ、自分ならば同じようにはならないだろうと考えていた。


 これまで古戸さんのうしろにくっついて、いくつか怪奇を体験した程度で、状況をコントロールする力があると信じ込んだ。ルルイエ異本を通して、あんなに恐ろしい存在を見たにも関わらず。


「ユウコ」


 ヴェラが私の肩に触れた。


「すみません。この本を持ってもらえませんか。私は……、少し、気分が悪くて」


 先程から本を持っていた彼女の顔は青ざめて、頬や唇はひどく強張っていた。ヴェラが私と同様、ルルイエ異本の影響力を感じ、それに抗おうとしているのは間違いなかった。


 本来関係のない彼女を巻き込んだのは私だ。そのことを思えば、弱気に負けている場合ではない。あるいはこの弱気さえ、私を取り込もうとする本の魔力なのか。


 まだだ。まだへたばるのは早い。私は下腹に力を込め、ゆっくりと息を吐いた。恐れと渇望とが入り混じった感情を抱きながら本を受け取り、奪われないようしっかりと胸に抱えた。


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