-4- あやまち
「楠田さんは知っていると思うけれど、私はここ数十年、半ば道楽で、ポリネシアの文化、特に有史以前の宗教を研究していた。妻と行った新婚旅行がきっかけでね。そこから興味を持つようになったんだ」
彼はダイニングテーブルの上に置いてある、小さな工芸品を手に取った。南国の花をかたどった、黒っぽい木彫り細工だった。
薄暗い室内を見回してみれば、同じような品はあちこちに置かれていた。大きさやモチーフは様々。しかしそのうちいくつかは、不自然に方向が変えられ、こちらに背中を向けていた。
「日本で手に入れられる資料はそんなに多くない。だから時間とお金の許す限り、ニュージーランドとかサモアとか、同じ文化を共有する地域に足を運んだ。でも、やっぱり文献で興味を満足させることが一番多かった。英語とかフランス語とか、スペイン語で書かれた本なんかを読んだ。
古戸君以外にも、そういった本を入手する伝手があってね。最近マサチューセッツにいる好事家が亡くなって、放出された蔵書を、役立つだろうと言って送ってくれた人がいたんだ。
その中に、この本が入っていた。はじめ見たときは、冗談で作られた本なのかと思った。熱心なオカルトファンが細工を凝らしたジョークグッズみたいなものかと。でも違った。楠田さんは、この中身を読んだかな」
「読みました。……読んだというより、覗いたというレベルですが」
覗く、という言葉を聞いて、清水さんはわずかに身を震わせた。
「もちろん私もそうだ。この本は未知の言語で書かれている。しかしたとえ読めなくとも、この本は開いた者に強く働きかける力を持っているようだ。……深海の都市、そこで眠る大いなる存在と、それに仕える従者たち。この本を通じて、私はそういったものを幻視した。
それこそが古代の伝承に語られる〝ルルイエ〟だ。〝ル・リエー〟と呼ばれることもある。古戸君の推測はおそらく正しい。ポリネシアの人々は、西洋文明が到来するどころか、それが勃興するはるか昔に、海神の従者たちと交流し、それを崇めた。
この本は、そういった信仰にまつわるものだろう。あるいは、ルルイエそのものに起源を持つのかもしれない」
ならば清水さんはほとんど偶然から、自らが研究している対象の、最も深遠な資料を手に入れたことになる。もしそれが普遍的なテーマであったなら、誰でも小躍りするような種類の資料だ。
「道楽で手を出すようなものではなかった」
しかし清水さんの声と表情は知的な興奮から程遠く、強い悔恨によって掠れ、歪んでいた。かつて私も同じ顔をしたことがあったような気もする。知るべきでなかったことを知った以上、もう後戻りはできないのだ。
「もっと無害な資料を嗜んで、年に一、二度現地を訪れるくらいで満足していればよかったんだ。ルルイエ異本を読んでから、絶えずなにかに見張られているような気がするんだ。
もはやテレビで見る海の風景まで、恐ろしいものになってしまった。ふと気づくと、私の手に水かきがあるような感覚さえある」
項垂れて両手を見つめる清水さんを前にして、私とヴェラはしばし言葉を失った。彼の神経はもうかなり参っていて、協力を仰ぐどころか、あまり長く話すのも負担になりそうだった。
「もう少しだけ教えてください。太った女っていうのは誰ですか? 本を狙ってるんですか?」
「そうだ。あれはただの人間じゃない。もしかするとまったく違うものかもしれない。私が本を手に入れたときからずっとこちらを窺っている。こちらが油断する瞬間を狙っている。海神の従者たちとはまた別の領域に属する存在だ」
ここまでの話を聞くに、清水さんは相反する二つの感情を抱いているようだった。一つは本を恐れ、遠ざけようとする気持ち。もう一つは、本に執着し、邪な相手に渡してはならないという気持ち。
ルルイエ異本。ただ危険なだけの物品よりよほど性質が悪い。
私が考えを巡らせていたとき、リビングに備えつけられたスピーカーから、インターホンの音が鳴った。清水さんの身体が一気に緊張した。
「逃げなさい」
目を見開いた彼は、訪問者を確かめることもせずにそう言った。私たちが迷っている間に、もう一度インターホンが鳴った。
「裏の勝手口から、見つからないように行くんだ」
これ以上清水さんが話せることはないだろうし、訪問者が本を狙っているのなら、それを持ったまま留まっていては迷惑がかかる。私はヴェラに目配せをして立ち上がり、キッチンの脇にある勝手口を目指した。
玄関でガチャガチャと音がする。扉を開こうとしているのだ。清水さんが鍵をかけたのは賢明な判断だった。
私たちは待ち伏せを警戒しながら勝手口の扉を開け、家の裏手に出た。人目を憚りながら、まずはその場を離れる。清水さんに危害が及ばなければいいのだが。
「霧については聞き損ねてしまいましたね」
ヴェラが言った。
「聞いても知らないんじゃないかな」
「これからどうしますか。やはり爆薬を持ってくればよかったですね」
「住宅街ではやめた方がいいよ」
「やっぱり、本がキーになりますか?」
ルルイエ異本は、再びヴェラのデイパックに収まっていた。先程よりも、その存在感が強く意識された。
「うん。長く持ってるのはよくない気がする。捨てなくちゃ」
「どこに? 燃えるゴミで出すわけにはいかないでしょう」
「海に。本が元々属する場所だから」
私は確信を抱いていたが、それがどこから来るものかは分からなかった。ヴェラは不安げな顔をしたが、ほかにアイデアもないようで、まだしばらくの間は協力すると約束してくれた。
「バスもタクシーもダメだから、地下鉄で行くのが早いかな」
「もし私が待ち伏せるなら、まず駅を見張りますね」
「ああ……確かに」
ヴェラの主張は妥当だった。玄関から入ってこようとする知性があるなら、それくらいは考えつくだろう。
「じゃあ、歩いていこう。川沿いに行けば、一時間半ぐらいで海につくから」
そうして私たちは再び川沿いの道に戻り、横浜港を目指して北東方向へと歩きはじめた。霧は相変わらず川面を覆い、時折のたくる触手を作る。ヴェラにもそれが見えるのか確かめてみたが、彼女が目を凝らしても、同じようなものを認識することはできなかった。
「ルルイエ異本を海に捨てることが、本当に正解なんでしょうか? さっき、シミズさんも幻視が見えたと言ってましたが、その本が思考に影響しているということはありませんか」
「…………」
「私はシミズさんのことをよく知りません。でも彼が弱っていたのは、不安や緊張だけによるものばかりじゃない気がします。冒涜的なものかどうかに関わらず、強い力はその持ち主にも少なからず作用するものです」
そういえば、そんなファンタジーの古典を最近読んだ気がする。
「確かに、あんまりいい予感はしないけど、海に行ってなにかが起こるなら、それを手掛かりにできるかもしれない」
自分でも苦しい言い分だと思いつつ、私は食い下がった。ヴェラは少し考える素振りを見せたあと、重々しく頷いた。
「分かりました。もしものときがあれば、私が助けますから」
海へ向かい、本を捨てようとすることが正解かどうかは分からない。しかしヴェラに手伝いを頼んだのは、きっと正しい選択だったに違いない。
*
それから少し歩くと、川沿いの広い公園に辿り着いた。私にとってはジョギングでよく通る見知った場所だ。普段はカラフルなアスレチック遊具に子供が群がるのどかな光景が見られるが、今はひたすらに閑散としており、呪われた古戦場のような雰囲気を醸していた。
私の注意はずっと川に向いていたので、それに気づくのが遅れてしまった。ヴェラに促されて、遊具の上でこちらを窺っているらしい、黒く大きな影を見た。
「私の幻覚ではないみたいですね?」
「なんだろう、アレ」
目を凝らしていると、影がぞわぞわと蠢き、霞む輪郭を大きく広げた。私はすぐに、それが飛び立とうとしているのだと理解した。次の瞬間、黒い影は巨体に似合わぬ軽やかさで遊具を蹴り、一直線にこちらへと滑空してきた。
襲ってくる。
「伏せて!」
ヴェラが囁くより前に、私は頭を庇いながら歩道に這いつくばっていた。恐怖心に抗って目線を上げ、迫りくる相手の正体を確かめる。
私はその奇妙な姿を、至近距離からはっきりと見た。羽の構造は蝙蝠に似ており、広げたときの幅は三メートルを超えている。艶のない胴体は重厚で、シルエットはアリか甲虫に似ているが、頭部はむしろ爬虫類に近かった。二対の肢はいかにも力が強そうで、恐ろしげな鉤爪を備えている。
それはどんな虫にも動物にも似ていなかった。それはいくつかの種から部位を取り上げ、再び組み合わせたような姿の怪物だった。
信じがたいことに、怪物は人間を乗せていた。いや、本当に人間かどうかは定かでない。確かに手足を備えているが。腹部や臀部の肉が襞のように垂れ下がり、ぶるぶると揺れているのだ。
黒い怪物が飛びかかってきたとき、私とヴェラは姿勢を低くして攻撃を凌いだ。しかし当然、それで終わるはずもなかった。一度通り過ぎた怪物は高く舞い上がり、私たちの視界から消えたかと思うと、今度は急降下してヴェラに襲いかかったのだ。




