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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Episode10 霧にうつろうもの
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-3- 憔悴した男

「ちょっと、大丈夫ですか?」


 細身のウィンドブレーカーを着たヴェラに、がくんがくんと肩を揺さぶられる。物理的に視線を外すことでようやく、私は本の魔力から逃れた。


「返事がないから勝手に入ってきました」


「ああ……、ごめん。ちょっと、集中してて」


「ひどい顔してますよ」


 両手で顔を挟まれる。ひんやりとした感触の奥に、柔らかい生命の温もりがあった。私はようやく正気を取り戻し、本を閉じて脇にやった。


「フルドさんがいなくなったと言ってましたが、それ以外にも色々と問題がありそうですね」


 私は援助に対する礼を述べたあと、ヴェラを居間に招き、邪魔な本の山を退かしてから、テーブル越しに向かい合った。清水さんに本を渡されてから今までの経緯を詳しく話して聞かせる。


 その中には突飛と思われるような推測も含まれていたに違いないが、彼女は茶化すことも否定することもなく、非常に真剣な表情で耳を傾けていた。


「ルルイエって聞いたことある?」


 私が尋ねると、ヴェラは首を振った。


「いえ、まったく……。それが人名なのか地名なのか、特別な品の名前なのかも検討がつきません。太った女は、もしかしたらサタンの仲間かもしれませんね。その本、ちょっと読んでみても?」


 私は咄嗟に本に手を伸ばし、それをヴェラから遠ざけた。彼女が驚き、困惑するのを見て、慌てて言い訳を試みる。これはなにかよからぬ力を持った本に違いなく、迂闊に読めば害を為すかもしれないのだ、と。ヴェラは怪訝な顔をしつつも大人しく引き下がり、私に気遣わしげな目を向けた。


「一番大事なのは古戸さんを探すこと。簡単には死なないけど、無敵でもなんでもない人だから。攫われちゃったのか、自分で隠れてるのかは分からないけど、どちらにしても、なにか手伝えることがあるかもしれない」


 私は言った。


「フルドさんの失踪も、この不可思議な霧も、間違いなくサタンによるものでしょう。そしてユウコの持っている本も、一連の事件と深く関係しているのは明らかです。仮に危険なものだとしても、正体や来歴を調べる必要があると思います」


 ヴェラの言うことはもっともだった。


「私はただこの本を渡されただけで、いつ、どこから持ち込まれたものなのかは分からない。でも清水さんなら知ってると思う。住所なら分かるし、ここから歩いていける距離だから……」


 歩いて行ける距離。それは間違いない。古書堂から清水さんの自宅まではたった数百メートルで、普段なら散歩にも少し物足りないぐらいだ。しかし今の私にとって、霧のわだかまる中、正体の知れない存在を意識しながらそこまで行くのは、かなり勇気の要ることであるように思えた。


「ヴェラ、今日は武器持ってきてないの。爆薬とか、クロスボウとか」


「街中にそんなの持ってこられませんよ。捕まります」


 正論だが、どこか腑に落ちない。


「ユウコ。とにかくそのシミズさんのところに行ってみましょう。まだ無事だといいんですが」


 彼女の励ましに支えられ、私は重い腰を上げた。本はひとまずビニール袋で包み、ヴェラが担いできたデイパックへ入れておくことにする。これならばうっかりひったくられることもない。


 そうして私たちは冷たい霧の立ち込める屋外へと繰り出した。白くぼやけた太陽の下、背後から迫ってくるかもしれない存在を警戒する。


 ヴェラは神経質になっている私を心配したのか、最近訪れたアメリカの都市や、大学の愉快な友人といった無害な話題を提供してくれたが、私の注意は別のところへと向いていた。


 それは道の脇を流れる川だった。市内に源流を持つこの二級河川は、古書堂近くの商店街を横切り、数キロ先で横浜港へと注いでいる。護岸を含めた幅はおよそ三十メートル。春には川の両側に満開の桜が見事な並木を作る。


 しかし今、すっかり霧で覆われた川面は、どこか異界じみた雰囲気を漂わせている。そこで動くものを見た気がして、私は目を留めたのだった。


 それまでは均一だったはずの霧が粗密を作り、複数の束を形成し、のたくりながら、岸を這い上がり、柵の近くまで先端を伸ばしている。まるで途方もなく巨大な生物の、長い長い腕か触手のようだった。獲物を探し出し、捕捉し、粘液のしたたるおぞましい口へと運ぶ触手。


「ユウコ!」


 耳元で手を叩かれて、私は正気に戻った。


「また変なトリップ。本当に大丈夫ですか?」


「ああ……うん。多分」


「シミズさんの家はこのあたりでしょうか」


 彼には商品を直接届けたこともある。霧で多少風景は変わっていようとも、見間違えることはない。気づけば私たちは、既に家の前までやってきていた。


 小さな木造の一軒家は滴水古書堂よりも築浅だが、それでも建ててから三十年以上は経っているだろう。灰色の屋根瓦にくすんだ白い外壁の二階建てが、清水さんの住居だった。かつては結婚していたが数年前に奥さんを失くしたらしく、今は一人住まいをしているようだ。


 私は玄関の脇にある黒いインターホンを押し、名前を告げた。


『隣に誰かいるだろう?』


 少しして返ってきた声は清水さんのもので間違いなかったが、怯えと猜疑心に満たされた、拒絶をも感じさせるものだった。ヴェラの存在に気づいたのは、窓から外を窺いでもしたからだろうか。


「私の友達です。ちょっと厄介なことが起こったので、手伝ってもらってます。事情を説明しますから、入れてもらえませんか」


 逡巡するような間があったあと、玄関に足跡が近づいてきて、そこからまたドアスコープでこちらを観察しているような気配があった。結局、清水さんはさんざん迷う様子を見せたあと、なんとか扉を開けてくれた。身振りだけで私たちの訪問を受け入れ、扉に鍵とチェーンをかけた。


 改めて見てみると、彼の頬はこけ、頬には不精髭が目立つ。食事も身づくろいも、十分におこなえていないようだ。


 得体の知れない存在に狙われているという事実、あるいは認識が、彼をここまで変貌させたのだろうか。私の隣にいるヴェラが小さく鋭く息を吸う音がした。清水さんの様子にたじろいだのかもしれない。


 通されたダイニングは予想したほど荒れてはいなかったが、電気がついておらず、またつけるつもりもなさそうだった。薄暗い室内で、テーブルを挟んで向かい合う。


「楠田さん、本はどうなった?」


 開口一番、清水さんは尋ねた。


「その前に、彼女を紹介させてください」


 私は焦った様子の彼を制止して、会話の主導権を握った。


「はじめまして、シミズさん。ヴェロニカ・フランチェスカといいます。東京の大学でしゅ――社会学を専攻しています。今回はユウコの個人的な手伝いです」


 本当の専攻は宗教学だが、地雷を踏みかねない言葉だと思ったのだろう。嘘をついてから、彼女は私に目配せした。


 小手先の工作が功を奏したのかどうかは分からないが、少なくとも学生という肩書は清水さんを安心させたらしい。ヴェラに向ける懐疑が若干ながら和らいだ。しかし彼がそれ以上の興味を持つことはなく、またも本の所在を知りたがった。


「本はここにあります」


 私はヴェラのデイパックを指し示してから、本を取り出した。予想通り、シミズさんはほとんど狼狽といっていいような表情を浮かべ、椅子を引いて距離を取るような動きさえ見せた。


 彼はルルイエ異本の所持によって降りかかる脅威に怯えているのはもちろん、本自体を危険物として認識しているようだった。


「古戸さんはこれを〝ルルイエ異本〟という名前の本だと推測してたみたいです。清水さんは、これがどういうものだかご存知ですか?」


 清水さんは曖昧に首を振った。


「古戸君は今どうしてるんだ?」


「分かりません。いなくなりました。拉致されたのかもしれませんし、自分で隠れてるだけかもしれません」


 そう伝えられた清水さんの顔には、絶望に近い表情が浮かんだ。


「どっちにしろ、私はこの本が関係してるんじゃないかと思ってます。だから、まずはこの本がどういうものだか聞いて、今後のことを考えたいんです」


「古戸くんなら、うまく処分してくれると思ったんだが……」


「清水さん」


 私は語調を強めて言った。実際に怒りと苛立ちを感じてもいた。


「清水さんがこの本を渡してきて、それから古戸さんがいなくなったんです。店に誰かが入った痕跡もありました。この本を読もうとしたら、幻覚みたいなものが見えました。この本は、ルルイエ異本は明らかに普通じゃないです。


 押しつけられたことについてはもうどうこう言いません。無理やり返したりもしません。誰だって怖いと思いますし、私だって手元に置いておきたくはないです。


 でも、単に捨てたり燃やしたりしたらまずいような気がするんです。清水さんだってそう思ったからこそ、古戸さんに託そうとしたんじゃないんですか?」


 清水さんの顔には葛藤の色があった。不安と恐怖に追いやられていた良心が、思考に顔を出しはじめているようだった。


「古戸さんができなかったのなら、私がやろうとするのは無謀かもしれません。もしかすると余計なことをしているだけなのかもしれません。でもこれまでの経験上、怯えて縮こまってじっとしてるより、嫌々でも動いた方が結果的にはよかったんです。


 だから今回も、私はできることをやっておこうと思います。清水さんに責任を被せるつもりはありませんし、面倒で危険なことをやらせようってわけじゃありません。でもせめて、この本について、知ってることは教えて欲しいんです」


 私は懸命に清水さんを説得した。壮語した部分もないではないが、本当のところを言ったつもりだ。殴りつけて吐かせるわけにもいかないので、これでダメなら別の方法を考えるしかない。


 清水さんは依然として葛藤のうちにあるようだったが、やがて不精髭の生えた頬をわずかに震わせながら、訥々と語りはじめた。

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