-6- 侵入
その日は分厚い雲が空を覆う、肌寒い陽気だった。
穏やかな夢を見たかどうかはともかく、私は十分な睡眠をとり、翌日十時ごろに再び六文字邸を訪れた。
古戸さんは昨日と同じ部屋にいて、ベッドでだらしなく横になっていた。しかし体調を崩したというわけではないようで、ただ二度寝をしているだけだった。
「やあ、来たね」
服も昨日と同じ。ベッド脇には薄汚れた白衣が放置されていた。髭も剃っていないし、風呂にも入っていないようだ。
「おはようございます、古戸さん。今日はどうするんです?」
その前に、と古戸さんはにやにやしながら、昨日体験したことを私に語ってみせた。やむなく私はソファに座り、話を聞く。
幽体離脱を果たした古戸さんは、鼻やまぶたがない故の、広い視界に戸惑いながら、なんとかその霊体をコントロールしようと数十分間苦闘した。
それなりの速度で移動できるようになった彼は、次に魔術的な気配を察知した。手に入れた銀のオイルライターを点けたときと同じような、黒紫色の気配である。
それはかなり遠くにあったが、到達不可能な距離ではなかった。古戸さんは暗くなる前に帰れるよう、六文字邸を出発した。暗くなっても実体のない身では、照明のスイッチを点けることも、懐中電灯を持つこともできないからだ。
風に乗ることもできなかった古戸さんは、自力でふわふわと南に向かった。そして三浦半島西側の田園地帯に、目的の場所を見つけた。
それは小さな庭付きの平屋だった。家屋自体に変わったところはなく、霊体の侵入を阻むような、魔よけが施されているわけでもなかった。ずるりと侵入した古戸さんはさして広くない屋内を見て回り、寝室らしき場所にカルナマゴスの遺言を見つけた。
「え」
そんなあっさりと見つかってしまったのなら、昨日私が調査したことはなんだったのか。いや、魔法を使ったにしては苦労した方なのだろうか?
「そのとき、家主はいなかった。しばらく待ったけど戻ってこなかったから、僕も帰ってきたんだ」
そしてぐったりと疲労を感じて目覚めた、というわけだ。
「じゃあ、場所は分かったんですね」
「うん。だから今日行こうと思って」
「え?」
それは少し急すぎないだろうか。
「え、が多いよ楠田さん。警察に任せるわけにはいかないんだから、僕らがやるしかないんだ」
よく考えてみれば、確かにそうだった。カルナマゴスの遺言がある場所を突き止めたなら、あとはそこに行くしかない。相手は死だか不死だかを手に入れたい狂人なのだから、真っ当に説得するのはむしろ非現実的な選択肢だ。
「それに、放っておいたら余計な死人が出るかもしれないんだ。これは刑法上の緊急避難だよ」
なんとなくうまく言いくるめられた気がするものの、とりたてて反論する材料もない。私は難しく考えるのをやめ、古戸さんに言われるまま目的地に向かうことにした。
三津さんに外出を告げ、六文字邸を出発した私たちは、小さなライトバンで県道を南へ走る。曇天の下、逗子や葉山を通過し、三十分ほどかけて、少し内陸の田園地帯に入った。
「どのあたりですか」
公道だか私道だかわからない道路を走りながら、目的の家を探す。
「うーん。見たのは上空からだったから」
見慣れないライトバンがうろうろしていれば怪しまれる。特定に長い時間はかけたくなかった。しかし家自体の数が少なかったので、すぐ目当てのものを見つけることができた。
「ああ、あのフェンスと犬小屋は見覚えがある」
それは木の風合いが活かされた外壁の平屋だった。周囲にはアルミ製と思しき黒いフェンスがあり、芝の生えた小さな庭がある。
「犬がいるんですか?」
「どうだったかなあ。いると面倒だなあ」
離れた場所から観察した限り、家やその周囲に動きはない。犬は寝ているのか、あるいは飼っていたのが過去のことだったのか。
古戸さんはさも当然のように、ダッシュボードからガラス破砕用の小さなハンマーを取り出した。私はもう咎める気も起きず、彼に従った。
古戸さんがまだ古書堂を開いているということは、きっとこういった無茶を、なんとかやりおおせてきたからなのだ。佇まいから妙な信頼感を漂わせ、彼は車から降りる。
どのみちもう運転手を務めてしまったのだから、共犯は免れない。なかばやけくそになりながらも、例の平屋に近づいていく。周りは見通しのいい畑なので、こっそりやろうにもやりようがない。
今は平日の昼間である。一般的な社会人ならば、外で仕事をしている時間だろう。ただ、相手は一般的な社会人ではなさそうだ。魔術師は昼の間、何をして過ごすのが一般的なのだろうか。
私たちは敷地の周りをぐるりと歩いてみた。家には四方に窓がある。しかしどれもカーテンが掛けられていて中を窺うことはできない。
「ここの窓がよさそうだ」
古戸さんは人が通れそうな窓の一つに目星をつけた。窓にはどうやらクレセント錠が掛けられているようだった。古戸さんは手の中でくるりとハンマーを回す。手慣れている。
私は露骨な犯罪行為から顔を背けるように、また住人の目がないか気になって、振り返って背後を見た。すると、こちらに走り寄ってくる背の低い影が視界に飛び込んできた。
それは人ではなかった。犬だ。
背が低いといっても、それは人の基準での話だ。走り寄ってきたのはドーベルマンに似た大型犬だった。
ただでさえ恐ろしげな見た目の犬種なうえ、その犬は皮膚病でも患っているのか、体のあちこちがただれていたり、手術痕のような縫い目があった。
犬が激しく吠える。すぐにでも飛びかかってきそうだ。
「ふ、古戸さん」
私は半身に構えつつ、犬の攻撃に備える。しかし四足の獣と組み手をした経験はない。思い切り殴れば多少は怯むだろうか?
しかし、犬は中々襲い掛かってはこなかった。どうも様子がおかしい、怯えているようにも見える。意外と気が小さいのかと思ったとき、私にもその原因が分かった。
「ちょっと邪魔しないでねえ……」
古戸さんが猫なで声で言う。ざわざわと名状しがたい気配が、私の背中をじわじわと不快に圧迫した。振り返らずとも分かる。あの日商店街で見た、不定形の何かが活性化しているのだ。
狂犬はその黒い尾を股の間に挟み、じりじりと後ずさりはじめた。十分距離を取ると、そのまま情けない鳴き声を上げながら逃げていった。
気づけば私も、背中に大量の汗をかいていた。
「あの、それ、あんまり出さないでもらえます?」
「半ば生理現象みたいな感じだから、我慢してね」
失禁でもしてもらった方がまだしも許せる。
私が息を吐いて振り返ると、古戸さんが器用に窓ガラスを割ったところだった。小さな穴から手を差し入れ、クレセント錠を解除する。カラカラと窓を開け、躊躇なく窓枠に足をかける。
「今更やめようとは言わないね?」
「……まあ、はい」
もうどうにでもなれという気持ちで、私も続けて屋内に侵入した。




