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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Epsode1 愚者が求めし
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-5- 魂を待ちながら

 六文字さんの瀟洒な館に帰ってきた私は、再び三津さんに迎えられ、怪しげな二人のいる居室へと戻った。


「おかえりなさい」


 魔法の講義は終わったのか、古戸さんは机に積まれていたと思われる本のページを、パラパラと物珍しげにめくっていた。


「犯人、この辺りに住んでるみたいです。古戸さんの方はできそうなんですか、幽体離脱」


「さまよう魂、ね」


「まあ、正式な名前はどっちでもいいんですが」


「一応、やりかたは教えてもらった。それで、におい(、、、)のもとは?」


 においのもと? 何をわけのわからないことを言っているのだ、と一瞬思ったが、すぐにライターを指しているのだと気付いた。私はそれをポケットから出し、古戸さんに手渡した。


「じゃあ六文字さん。部屋をお借りしてもいいですか? 万が一のとき、対処できる人がいると安心なんで」


「ああ、構わないが」


 二人が共にいたのはたった一時間程度。しかし六文字さんもまた、古戸さんが相当の変わり者であることに気づいたのだろう。古戸さんを見る彼の目が、若干変わっているように思えた。とはいえ黄色く濁った目と、ひび割れ強張った顔面から、考えを読み取ることはできなかった。


「どれくらいかかるんです? 時間」

「数時間ってとこじゃない?」


「いったん帰っていいですかね」

「ダメだよ。途中で僕の呼吸が止まるかもしれない」


 確かに、常時六文字さんや三津さんに見ていてもらうわけにもいかないか。本音としては、ならばそんなものに手を出すな、と言いたいところではあるが。


「ちゃんと時給は出すからさ」


 結局、私は残業を承諾した。万が一の事故がないよう見張るだけでいいならば、さほど面倒な仕事ではない。


 二階にある一室を借りて、古戸さんは魔術の準備を始めた。ベッドの上に胡坐(あぐら)をかき、甘ったるいにおいのする香を焚いて、紙に書き写した呪文らしきものを詠唱する。私は部屋の片隅で革張りのソファに座りながら、邪魔をしないよう息をひそめていた。


 古戸さんははじめ音節の切れ目や発音のリズムを試行錯誤していたが、数分の練習を経て感覚を掴んだらしく、やがてスムーズに、そして陰鬱に詠唱を繰り返し始めた。それを聞いていると、なんだか私まで異界に誘われそうな、妙な気分になってくる。


 十分ばかり詠唱を続けていた古戸さんは、そのうち居眠りをするように頭を前後させはじめた。声はしばらく続いていたが、やがてそれもぷつりと途切れ、古戸さんは仰向けになってベッドに倒れた。


 魔術は成功したのだろうか? 私はソファから立ち上がり、古戸さんの顔を覗き込んだ。上手くいっていれば、顔を覗き込んでいる私を、上から見ていたりするのかもしれない。


 とりあえず呼吸は止まっていないようなので、私はソファに戻り、三津さんから借り受けた、比較的穏当な小説を読み始めた。


◇


 太っちょの少年がファンタジー世界から現実に戻り、多少なりとも勇ましく、決意を得て未来を歩みはじめたあとにも、古戸さんは目を覚まさなかった。


 私は脇のコーヒーテーブルに本を置き、読後の余韻に浸りながら、ひんやりした革張りのソファに身を横たえた。時刻はそろそろ午後六時を回ろうとしている。


 部屋の扉がノックされ、三津さんが顔を出した。


「お食事はいかがされますか」

「あ、よければ頂いていいですか」

「かしこまりました」


 しばらくすると、トマトとチーズとチキンが入ったホットサンドと、かぼちゃのポタージュが運ばれてきた。私は三津さんに感謝を述べてから、それを食べ始めた。


 ベッドの古戸さんを確認する。胸がかすかに上下しているので、呼吸は止まっていないようだ。私は手元に目線を戻し、物思いに耽る。


 読むと死ぬ本。不死の老人。幽体離脱の魔法。昨日まで平和に過ごしていたのに、なぜこうなってしまったのか。


 いや。平和だと思い込んでいただけなのだろう。私はあのとき商店街で人を殺しかけたこと、右半身を奇妙に蠢かせる古戸さんに声をかけられたこと、そして現在巻き込まれている奇妙な出来事が、一つの道筋として繋がっているような気がした。


 だとするならば、この後もそうなのだろうか。あまり気持ちの良くない見通しに、私は背筋をわずかに震わせた。


 しかし、古戸さんが異常な人間だということは、出会ったときから分かっていたはずだ。動揺していたとはいえ、それにのこのこ付いていったのだから、自分もそれを望んでいたのだ。彼の異常さのもとでなら、自分は比較的まともなのかもしれない、と思えるからだろうか。


 結局のところ、よく分からない。心理学を多少齧ったところで、自分自身の心はままならないものだ。


 腹が八分目まで満ちたので、少し眠くなってきた。古戸さんがいつ起きるか分からないし、見たところ突発的な事態も起きそうにないので、いっそ寝てしまおうか。古戸さんのことだ。私がそうしたところで、咎めたりはしないだろう。


 そんなことを考えていると、古戸さんに変化があった。今までぴくりとも動かなかったのに、突然ひゅっと息を吸って身じろぎしたのである。


「んん……」


 大儀そうに呻いて、身を起こそうとする。今まで寝ていたというのに、まだ寝足りないとでもいうように。


「どうでした?」


「すごく疲れた……」


 どうやら相当に魔力、というか精神力を消耗したらしい。私は二日連続で徹夜して卒業論文を書き上げた、無計画な同期のことを思い出した。


「犯人は分かったんですか?」


「分かった。分かったんだけど、今日はこのまま寝かせてくれ」


 そう言うや否や、古戸さんは再びベッドに倒れ伏し、すぐさま寝息を立て始めた。


 今まで見張っていたのは何のためだったのか。私は徒労を感じたが、再び古戸さんを起こしたところでどうにもなるまい。それはそうと、トイレとかは大丈夫なんだろうか?


 私は空になった食器を持って一階に降り、六文字さんに古戸さんが眠ってしまったことを報告した。


「まあ、そうなるだろうな。正常な状態だから、安心するといい。とはいえ、乱用するのは当然好ましくない。あらゆる魔術は、多少なりとも正気を犠牲にするのだ」


 私にとってその忠告は言うまでもないことだし、古戸さんには言っても無駄だろう。ともあれ私はもてなしに対する礼を改めて述べ、古戸さんの非礼を詫びて、六文字邸を後にした。


 外に出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。家々には明かりが灯り、ああ、とりあえずは正常に回っている世界もあるのだな、と私に思い出させてくれた。


 ここから徒歩と電車で帰るのは非常に面倒なので、私は古戸さんの車で地元まで戻ることにした。明日の朝、また迎えに来ればいいだろう。


 私は車を駆り、夜の鎌倉街道をのんびりと北に向かった。今日寝るときは、せいぜい平和な夢を見たいものだ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公が呼んでいた小説は、(果てしない物語)ですか…?
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