-6- 容器
苦労して建物の近くまでやってくると、それは装飾のないほぼ真四角の平屋で、ダム付近にあるような電力会社の施設にも似た、どこか用途をはかりかねるような外観をしていた。
周囲に人影はなく、車も停まっていなかったが、敷地全体を眺めれば、舗装されていない道路が西――集落方向――に続いている。うっすら轍が残っているところからすると、定期的に人の出入りがあるのかもしれない。あるいは、人以外の出入りが。
『なんの役割を持つ施設かな』
「古民家カフェでないことは確かだ。入ってみよう」
窓にはどれも板が打ちつけられていて、それを剥がすのはあまり現実的でない。唯一の入口は公共の建物でよく見るような、半透明のガラス扉だった。古戸さんが手の中でくるりとハンマーを回す。
「待ってください。これ、開いてるんじゃないですか」
両開きの扉には古めかしいボタン式の錠前がついていたが、おそらく電池切れのまま放置してあるのだろう。不特定多数の出入りを想定して、あえて開放しているのかもしれない。
『私が開けよう。ユウコとトキヒサは周りに注意してくれ』
ウラシマの指示に従い、私は扉の傍に立って不意の遭遇に備えた。四本の腕が不器用に取っ手を引くと、内部からはぞっとするほど冷たい空気が漏れ出した。
病院を思い出させる消毒薬の臭い。それでも隠し切れない生臭さ。廃墟のそれとは違う、生きた悪意が私の背筋を這い上がってくる気がした。
「さて、行こうか。静かに……」
古戸さんが大仰な仕草で唇に指を当て、ウラシマがよく分からないままそれを真似する。私は扉が大きな音を立てないよう、冷えたガラスを押さえながら、ゆっくりとそれを閉めた。
入ってすぐの場所は、十五メートルほどの廊下になっていた。窓に打ちつけられた板の隙間から光が入り、白いリノリウムに細い線を描いている。突き当りには陶器製の流しがあり、その縁からは青いホースが先端を覗かせていた。
音は聞こえない。左側には扉が二つ。どちらを先に調べるべきか? 人がいたときの言い訳も考えておこう。
土足のままひたひたと進み、まずは手前の扉を確かめる。部屋の用途を示すようなものは見当たらない。先程と同じようにウラシマが開け、私が警戒する。
つんとした消毒液の臭いが一層濃くなり、流れ出た冷気がふくらはぎを撫でた。暗い部屋の中を見て私は一瞬無人だと思い込んだが、それは間違いだった。風を感じ、咄嗟に腕で顔を庇うと、鋭いハサミのようななにかが衣服と肌を切り裂いた。
「っ……」
宇宙虫だ! 甲殻類めいた――以前見た個体とは違う、薄ピンク色の――胴、枯れ枝のように細い五対の腕、頭と思しき渦巻き状の組織を持った生物が、暗闇から飛び出してきた。
奇襲を受けたことに加え、ただでさえ生理的な嫌悪感を催させるその姿を至近で目撃し、私は大きく怯んでしまった。
そして同時に後悔がよぎる。ヤツらの出入りが想定されるなら、暗いからといって油断するべきではなかった。
私はスプレーを噴射したが、やたらめったら振り回された相手の腕で、武器を叩き落とされてしまった。
「下がって!」
古戸さんとウラシマに警告する。室内に広がった唐辛子の成分で目や鼻が痛んだ。それを嫌うようにして出てきた宇宙虫は全長一五〇センチ近く。コウモリに似た小さな羽を動かして空中に浮かんでいる。
先程私を傷つけたのは武器ではなかった。宇宙虫自身の手が、鋭いハサミのようになっているのだ。
背後にいる二人の存在感が、私を動揺から立ち直らせた。スプレーは相手から力を奪うに至らなかった。ならば自らの筋力と技を恃むのみ。何万回と鍛錬した、踏み込みからの中段突き。宇宙虫の胴体を正面から捉える。
キュッ、と奇妙な音がした。殴った場所からなのか、呻き声として出てきたのかは分からない。手応えもまた奇妙だった。宇宙虫の身体は見た目よりはるかに軽く、スナックの袋を叩いたときのような感触がした。
宇宙虫の甲殻はわずかにひび割れていた。与えたダメージはどれほどだろう? 十本もある腕が反撃してくる前に、私は胴体を押しのけるように前蹴りを放った。
「楠田さん、できたらちょっと手加減してくれ」
「言ってる場合ですか」
「捕虜にしたいんだよ。のちのち役に立つから」
漂うスプレー――やはり室内で使うべきではない――の成分にむせながら部屋の奥へ逃げようとする宇宙虫を追い、手近にあったパイプ椅子で背後からぶん殴る。これはさすがに痛打となったようで、羽が力を失って地面に落ちる。
古戸さんが部屋の電気をつけると、宇宙虫の頭が苦痛を訴えるように、ちかちかと色を変えるさまが見えた。しかしそれもすぐに大人しくなり、抵抗の気力を失ったのが分かった。
『恐ろしい……』
ウラシマは目の前で繰り広げられた肉体的な闘争に怯えていた。平和を旨とする種族にとっては刺激が強かったようだ。
「荒事ばっか任せて悪いねえ。傷、大丈夫?」
「血を止めれば平気です。その辺に包帯とか布とかないですかね」
改めて、明るくなった室内を観察する。見るからに危険なもの、おぞましいものはなかったが、あたりにはそれを予感させるうすら寒い品々があった。
ここは処置室、いやおそらくは手術室だ。棚には薬局では売っていないような医薬品や銀色のトレー、それから明らかに人間用ではないねじくれた形をした器具、どうやって動くのか分からない、手製と思しきマニピュレーターなどがある。
幸いガーゼや清潔な包帯も見つかった。傷は浅く、しばらく圧迫していれば血もすぐに止まりそうだった。自分の処置を済ませてから、手術用と思しきテープで宇宙虫を雑に拘束する。とりあえず手足と羽を束ねておけば大丈夫だろう。強度は若干心もとないが、しばらくなら問題ないはずだ。
「ウラシマ君、宇宙虫はここでなにをしていたと思う?」
古戸さんは棚にしまわれていた器具を取り出し、興味深そうにいじっている。片方の端にあるクランクを回すと、もう片方にある刃物が奇怪な動きをした。
ウラシマは黙ったままでいる。
「ウラシマ君?」
『脳だ……。脳を取り出していたんだ……』
電子音声であるにも関わらず、ウラシマのまさかという気持ちが伝わってくる。噂としてだけ聞いていたものを、現実に目撃してしまった動揺だろう。
北側の壁には、先程行かなかったもう一方の部屋に通じる扉がある。手術室らしき場所、異様な冷気。奥になにが置かれているのか、想像力を駆使するまでもなく推測できる。
正直なところ行きたくない。しかし情報を得るためには行かなければならない。
「なるほどね。……さて宇宙虫君。君はこれから、自分たちが解剖していた生物に実験されることになるが、今はどんな気分かな?」
古戸さんはイカれたセリフを宇宙虫に投げかけながら、荷物から持参したビニールパックを取り出している。どのような毒物が効くのか試すつもりなのだ。一方の私は痛む腕をさすりつつ拷問の現場に背を向け、意を決して隣の部屋に向かった。
扉を確かめてみる。こちらにも鍵がかかっていない。今にして思えば、宇宙虫を煩わせないための措置なのだろう。うっすらと開いたドアの隙間から内部を覗く。
電気はついていないが、その代わり小さなランプやボタンの灯りが見えた。先程あったことのせいで私は極度に警戒していたが、ひとまず脅威はなさそうだ。
ドアを開け放ち、壁際のスイッチを探す。明るくなった室内に人影を見て、私はぎょっとした。
その人物はおそらく男性で、部屋の奥に置かれた車椅子に座っていた。スラックスとワイシャツに身を包み、灰色の帽子をかぶり、サングラスをかけている。
しかし私はすぐ、それが動かぬマネキン、もとい人形であることに気がついた。とはいえそれはとても精巧にできていて、薄暗がりの中で見れば、本物とほとんど見分けがつかない。
人騒がせなオブジェに内心舌打ちしつつ、改めて周囲に目を遣る。ここは隣の部屋よりも一回り小さい。黒いスチールラックには、金属やガラス、アクリルの円筒がざっと数十は並んでいた。
詳しく見てみるまでもなく、それらはすべてが生体組織の標本だった。脳、脊髄、これは――精密に摘出された神経網だろうか? そして内臓、内臓、内臓。別々に分かれているものもあれば、大きな容器に一セットが入っているようなものもあった。
合法的に手に入れたものとは思えない。それは生命を冒涜した科学的好奇心の産物だった。隣の部屋で拷問に遭っている宇宙虫の存在を考えずとも、研究者の正体は明白だった。まさか採取の対象は、これまでの行方不明者なのか。
私が部屋の様子をカメラに収めたとき、背後でざらついた低い声がした。
『珍しいお客さんだ……』
弾かれたように振り返る。なにもいない。いや、人形がいる。
『ふ、ふ。そうそう、ここだよ』
胸に手を当てて深呼吸。改めて仔細に観察してみても、人形は間違いなく人形だ。普通に考えれば喋るはずはない。この部屋に監視カメラが隠してあって、誰かが遠隔で話しかけてきているのだろうか。しかし警備員にしては喋り方が変だし、タイミングも不自然だ。
ならば、話しているのはこの人形にほかならない。
背後でがちゃりと扉が閉じた。拭い難い直感に導かれ、私はゆっくりと車椅子に歩み寄る。まさか立ち上がるようなことはないだろう。あまり確信は持てないが。
「おっ、防カビ剤が効果抜群だな!」
すぐ隣の部屋ではしゃいでいる古戸さんの声が、どこか遠くに聞こえる。冷静に考えれば二人を呼ぶべきだったが、私はどうしても人形から注意が外せなかった。
『怖がらなくていい。さあ、もっと近くに』
自分でもなぜそうしたのかは分からないが、私は会話をはじめる前に、ギリギリの場所から手を伸ばし、人形が被っていた帽子を外した。
『ふ、ふ、ふ、ふ、ふ』
果たしてそこにあったのは、私が薄々予見していたものだった。
人間の脳。それはねばつく溶液の満ちたガラス質の円筒に収まっていた。無機質な嗤い声に合わせて、基部の金属とスピーカーがわずかに振動し、紫色の小さなランプが神経質に点灯し、不快な気泡がぷつぷつと弾けた。
容器に封入されているのは、人間の生きた脳だ。しかも、それは意識を保ってこちらに語りかけてきている!




