-7- 種の仇敵
突然、どこかから陰鬱なキャロルが響いた。なにかと思えば古戸さんのスマホだ。
「はい古戸です。……はあ、どうも。ええ、そうですが。……えー。いや、ちょっと分からないですね。すみません。はい。……はい。連絡ついたら知らせるようにするんで」
誰かとやりとりしながら、古戸さんがこちらに目配せする。古書堂の仕事ではなさそうだ。胸騒ぎがする。
「ヴェラ。ちょっと待ってくれ」
「なんです?」
一度始動させたエンジンを止め、ヴェラが戻ってくる。
「乾が病院からいなくなったそうだ」
古戸さんがスマホの画面を爪で叩きながら、かかってきた電話の用件を告げる。
「え、敷地の外にビール買いに行った、とかじゃなく?」
私は尋ねた。乾さんはアル中一歩手前まで行ったことがあるそうだから、入院中の断酒が辛かったのかもしれない。
「いや、考えにくいな。自分一人で遺跡に向かったって方がまだあり得る」
「サタンに攫われたのかも」
ヴェラが突拍子もないことを言う。
「それも考えておいた方がいい」
「いやいやいや。古代人が変装して病院に侵入したって言うんですか?」
私がイメージしたのは、蛇の顔をした人間が白衣を着て院内を闊歩する姿だ。いくらなんでも荒唐無稽過ぎる。
「あり得ない話ではないよ。金属板の文章を思い出すといい。『恨み燃えし怜悧なる子等は地上に残る』。彼らはきっと山奥や洞窟に潜んでたわけじゃない。人間社会に潜伏してたんだ。もしかするとコブラじゃなくて、カメレオンと祖先を同じくしてるのかもしれないな」
問いかけるような視線。私とヴェラは答える代わりに、強く顔をしかめて不快感を示した。
「古戸さん。乾さんのこと忘れてませんか」
「おっとそうだった」
冗談なのか、本気で忘れていたのか。古戸さんはポケットにしまいかけたスマホで、乾さんへの連絡を取ろうとした。電話とSNSで一度ずつ試みたあと、彼は肩をすくめて不通を告げた。
「心当たりは?」
ヴェラが尋ねる。
「そんなのは決まってるだろう。本人の意思で向かったにせよ、攫われたにせよ、最も可能性が高いのは例の遺跡だ。もし違ったら、そのときに考えればいい。君の荷物が早速役に立つかもね」
C4爆薬。映画かゲームでしか名前を聞いたことのない物騒な小道具。遺跡の破壊には役立つかもしれないが、果たして乾さんの安全を確保する助けになるだろうか。蛇人間は一度、乾さんに重傷を負わせている。相手取ることになれば、かなり荒っぽいことになるだろう。
「……オーケー。再びヤツらを地に這わせ、塵を食わせてやりましょう」
「そういうわけだ。楠田さんも、得意の空手で頼むよ」
「古代人に空手が効きますかね……?」
「たとえ兵器の存在を考慮しても、彼らは縄文人に負けたんだ。単純な闘争においては、人類に分があるはずだよ」
乾さんの安全を確保するだけでは不十分だ。玄室の奥にあった石扉が開放されれば、人間社会にどんな災厄が振り撒かれるか分かったものではない。
「分かりました。行きましょう」
なるべく流血が少ないといいなと思いつつ、私は腹を括った。
◇
日没から一時間以上。わずかな夕日の残光も濃紺に駆逐され、それもやがて宵闇に変わった。文明の灯りを離れて山奥に車を走らせると、かつての人類も見ていた原初の闇と同じものが、街灯やヘッドライトの周りにまとわりつく。
私たちが登山道の入口に到着したのは、午後九時を回ってからだった。
「古戸さん、車が……」
ライトバンを停めようとした私は、空いたスペースの片隅にある黒い高級車を発見した。以前こちらを高圧的に誰何した、黒ずんだ顔の男が乗っていたものだ。
「夜の縄文遺跡を視察というわけでもないだろう。サタンの手先どころか、彼が黒幕なのかもしれないね」
さすがに私もそう思わざるをえなかった。彼は人間なのか。蛇人間なのか。言葉は通じるだろうが、交渉の余地はあるのか。
「とりあえず動いたらパンクするようにしておきます」
ヴェラは完全に敵と断じたらしく、タイヤの下に棒のようなものを立てかけている。今のところ、ただの嫌がらせにしか見えないが。
「それは?」
私は尋ねた。
「クロスボウの矢です。日本は銃刀法が厄介なので」
飛び道具があるのは正直心強い。既に爆薬の存在を知ってしまったので、クロスボウぐらい大したものではないように思えてしまう。
私たちはヘッドライト――車のではなく、登山用の頭に巻くもの――を装着し、注意深く斜面を登りはじめた。足元の危険とは別に、周囲の森で息を殺しているかもしれない、狡猾で邪悪な蛇人間の存在を意識する。
彼らが蛇と同様の感覚器官を持っているならば、わずかな熱源を察知する能力があったりするのだろうか。
ライトを下に向け、そろりそろりと進んでいく。
先頭はクロスボウを構えたヴェロニカ。遺跡を巡るハリウッド映画で、こんな主人公を見たような気がする。
その後ろには古戸さん。彼が持っているのは小さなカバンに似た物体――梱包された爆薬だ。このサイズでもうまく使えば、分厚いコンクリートに穴を開けることができるという。ならば当然、人間サイズの生物など木端微塵だ。
なお起爆スイッチも古戸さんに託されている。危ない人選のようでいて、どんな状況でも冷静さを失わないという意味では適任と言える。
最後尾に私。慣れない武器の殺傷力より素手の身軽さを優先した。ただし多少固いものを殴っても怪我をしないよう、両手にバンテージを巻いている。
やがて私は前方からの風を感じた。発掘現場についたのだ。
虫の声がいつのまにか止んでいる。静寂に紛れようと、全員で息をひそめる。互いに視線を交わして合図しつつ、ライトを消した。姿勢を低くしながら、そっと広場の様子を窺う。
……いる。
広場の中央、玄室への入口に立つ人影があった。足元にはランタンのものだろうか、小さな光源。それに照らされ浮かび上がる姿を見て、私は強い違和感を抱いた。
下半身は、進学校の女子生徒が着るような長いスカート。上半身は半袖のワイシャツらしきもの。そこから見える腕は異様に短く、せいぜい常人の七割ほど。ニット帽を被った頭の下にある皮膚は、不健康そうに黒ずんでいる。
あれは人なのか?
傍らでヴェラが構えた。止める間もあればこそ、彼女は三十メートル離れた人影に向かって矢を放つ。
シュッ、と弦が風を切る音。闇夜を飛翔する矢は、恐るべき正確さで目標に命中した。胸の中心を貫かれた人影が、声もなくその場に崩れ落ちる。
ちゃんと確認しなくてよかったのか。私はヴェラに問おうとしたが、わずかに振り返った彼女の瞳を見て、言葉を飲み込んだ。それは興奮に見開かれ、なにかが憑依したように、ギラギラと濡れた輝きを宿していた。
「ナイスショット」
古戸さんがスポーツのそれと同じ気楽さで呟く。
私たちはしばらく待ったが、現場に動きはない。そろそろと茂みを出て、今しがた射殺した人影に近づいた。不意の蘇生を警戒しながら、仰向けの死体を覗き込む。
それは果たして人ではなかった。黒ずんだ肌の表面には、薄く鱗のような模様が浮かんでいる。顎のない顔に備えられているのは、細い鼻孔、丸過ぎる目、盛り上がった眉間。口からだらりとはみ出た舌は、先が小さく割れていた。
私は強く本能を揺さぶられた。毒虫や危険な獣に対するものとはまた違った感情が湧き起こった。目の前に倒れているそれは確かに蛇の特徴を残していたが、想像していたものの何倍も人間に近かった。
そして人間に近いがゆえに、強い嫌悪を催させる存在だった。人間に匹敵するがゆえに、速やかに滅ぼさなければならないと感じさせる存在だった。
蛇人間がただ佇んでいただけでないのは明らかだ。玄室で進行しているなにかに邪魔が入らないよう、注意深く見張っていたのだろう。
止めなくては。あの石扉を開かせてはならない。
気づけば古戸さんが玄室の天井に見当をつけ、C4を設置していた。
「まだ爆破しちゃだめですよ。乾さんが下にいるかもしれないんですから」
「さすがにそこまで薄情じゃないさ」
しかし万が一で非情な決断が必要なケースは、当然想定しておかなければならない。
それでも乾さんの無事を祈りつつ、私たちは下り階段に足をかけた。




