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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Episode5 鎖に縛られて
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-21- 解放

「瑠璃さま……私は……」


 硬く動かなくなった瑠璃を恐々と押しのけ、神奈子ちゃんが立ち上がった。彼女はこれまで畏れていた存在をしいしたことに酷く動揺していたが、大きな怪我はなさそうだった。


「大丈夫。神奈子ちゃん、大丈夫だから」


 私は神奈子ちゃんを不器用に宥め、蹴りつけられたままうずくまっていたあとり君を助け起こした。


「いってぇ~……。どうなった?」


 彼は頬をさすりながら立ち上がる。唇が少し切れているようだが、こちらもまずまず無事の範疇だ。私はなにも言わず。変わり果てた瑠璃の肉体を指し示した。


「ざまぁみろだな」


「あとり。なんであんなに危ないことしたの。ほかの人まで巻き込んで」


「知らん」


「もう……」


 神奈子ちゃんはこちらに向き直ってなにか言おうとしたが、私はそれを制止した。まず樋口さんたちの無事を確かめるのが優先だ。それに、プレハブの女性――神奈子ちゃんの母親のことについても考えなければならない。一体どこから説明したものだろう?


 普段から身体を鍛えているおかげか、私は徐々にダメージから立ち直りつつあった。戸の外れた本殿に近づき、中を覗き込む。蝋燭は四本のうち二本が消えていて、残り二本の火も消えかけていた。傍らでヘッドライトの光が動く。


「楠田さん? 大丈夫ですか?」


 高坂さんだった。彼女は衝撃で朦朧状態の樋口さんを抱えるようにして、部屋の隅にいた。その様子を見るに、瑠璃が放った不可視の力は、対象を直接傷つけるものではなかったらしい。もちろん打ち所が悪ければ、頭蓋骨の一つや二つ、砕けていてもおかしくはなかったが。


「こっちは大丈夫。それに瑠璃も……もういない」


「そ、そうですか」

 彼女は色々と察したのだろう。瑠璃がどうなったのかは聞かなかった。


「古戸さん、動けますか?」

 私が呼びかけると、部屋の角でもぞりと動く影があった。


「肩を脱臼した」


「嵌めてあげましょうか」


「自分で治せる」


 私は部屋の奥に目を向けた。座り込んだままの女性が、闇の中肩を抱いて震えていた。怪我はしていないようだ。しかし明らかに様子がおかしい。


「……り……るり……」


 女性の声はか細かったが、そこにはなにか底知れない、不気味な響きが含まれていた。一瞬、女性の身体が輪郭を変えたような気がした。


「るり……るぅりぃ……」


 いや、気のせいではない。養豚場の主が死んだときと同じだ。内部でなにかが蠢き、皮を突き破ろうとしている。私は思わず距離を取った。あとり君と神奈子ちゃんを外に出し、樋口さんと高坂さんを助け起して逃げる準備をはじめる。その間にも、部屋の空気が危険な緊張を帯びていく。


「るぅぅぅううううりぃぃぃいいいい!」


 激しい慟哭が辺りの全てを震わせた。叫んでいるのは、現れ出ようとしているのは、四百年前に死んだはずの神奈子だ。肉体から肉体へと、器を破壊しながら存在してきた外法の魂が、瑠璃の死をきっかけに暴走しつつあるのだ。


 背中の肉を突き破り、黒い血飛沫とともに巨大な腕が生えた。脇腹を裂いて、ねじれた脚が飛び出てきた。頭が割れて、ピンク色の触手が何本もうねりながら乱れ咲いた。それらは物理法則を無視して膨張し、躍動し、吐き気を催す悪臭を放ちながら、急速に部屋の空間を占めはじめた。


「いやっ、いやあぁぁぁあああ!」


 高坂さんが絶叫した。眼前に展開しているのは、極めて名状しがたい光景だった。人間がその形を崩壊させながら、巨大な怪物へと姿を変えつつあった。しかしそれは所々、腕や脚、目といった器官の原型を残しているのだ。


「楠田さん、ぼうっとしてないで早く逃げなよ」


「ふ、古戸さんはどうするんですか」


「僕? 僕の目的はあくまで御門きょ――」


 突然、新たに生成された触手が素早く伸びてきて、古戸さんに巻き付いた。それは彼の身体を軽々と引っ張り、無造作に放り投げる。古戸さんは御門鏡が置いてある台に激しく衝突し、私の視界から消えた。


 異形の表面に貼りついた二つの顔面が、七つの虚ろな瞳でこちらを見据えた。


 全身の毛が逆立つ。逃げなければ。


「早く!」


 私は悲鳴を上げ続けている高坂さんを押し出し、まだふらふらしている樋口さんに肩を貸して本殿の外に出た。背後からは、床や壁を叩き壊しながらこちらを追って来る異形の気配がする。


「楠田さん、一体なにが……」


 外にいた神奈子ちゃんが問いを発しかけ、闇から伸びる触手を見て絶句した。状況の説明はもはや不要だし、不可能だった。


「いいから逃げて!」

 私は叫んだ。


「るゅるるゅぃうぃいり、りりり、るりゅうううゅゅゅ」


 異形の歩みは決して速くなかったが、私たちの逃げ足もまた腹立たしいほどに緩慢だった。私は樋口さんに肩を貸し、神奈子ちゃんとあとり君は高坂さんに手を貸していた。いつ背後から触手が伸び、絡めとられるかと思うと生きた心地がしなかった。


 私たちが境内を横切り、小さな階段を使って逃げる間も、異形は土を巻き上げ木々をなぎ倒しながら追ってきた。もしかすると、神奈子ちゃんの身体に流れる瑠璃の痕跡を辿っているのかもしれない。しかし理由はこの際どうでもよかった。


 小さな石の階段を、何度もバランスを崩し、転びそうになりながらも下っていく。数十メートル先に、里宮のかがり火が見えた。


「おい、誰かいんぞ!」


 先頭のあとり君が叫んだ。炎の灯りを背後にした、大柄な男性のシルエットがある。私は一瞬、下男が生き返ったのかと思ったが、違った。それは右手に猟銃を、左手に酒瓶を携えた村井さんだった。


「村井さん、早く逃げてください!」


 私は息を切らせながら呼びかけたが、村井さんの反応は鈍かった。彼は勢いよく酒を呷ると、瓶を投げ捨てて銃を構えた。


「もっと……早くやるべきだったんだ」


 暗く、沈んだ呟きだった。私は彼が覚悟を持ってこの場にいるのだと悟った。


「村井さん……」


 神奈子ちゃんが脇を通り抜け、その名を呼んだ一瞬だけ、彼は視線をわずかに動かした。


「あとりぃ、神奈子を頼むぞ」

「……おう」


 次の瞬間、激しい銃声とともに、私の頭上を散弾が通り抜けていった。異形が人間の声で吠える。


 装填。再度の発砲。


 二度の銃撃を受け、追跡の勢いはわずかに衰えた。しかし完全に止まったわけではない。それでも村井さんは退かなかった。私はその悲壮な決意を無駄にすまいと、振り返ることなく逃げた。目を瞑って黙祷する余裕も、涙を流す余裕もなかった。


 銃声は三発目を最後に聞こえなくなった。


 里宮の南側には鳥居があり、そこから幅広の下り階段が中央広場まで続いている。祭の会場ではなにやら騒ぎが起こっていた。かがり火ではない奇妙な光も見える。


 逃走経路を選択する余地もなく、私たちは階段を降りはじめた。広場の村人たちを巻き込んでしまうことになるが、そんな配慮をするほどの思考力は残っていなかった。


 奇妙な光は要石から発せられていた。今や石は真っ二つに割れ、うねる金糸のような光を流出させていた。それはある種の滅びを感じさせる光景だった。瑠璃の死。約束された豊穣の終焉。


 広場まで行けば、桐島さんがいるだろう。車に乗れば異形から逃れ、村からも脱出できるはずだ。しかしそこまでの数十メートルがあまりに遠い。先行する三人との差が徐々に開きはじめた。樋口さんは脳震盪でも起こしたのか、しばらく経っても歩みがかなり覚束ない。


 私たちにとって幸か不幸か、広場もまた混沌とした状況にあった。要石に起こった異変が、村人たちを酷く困惑させていた。


 中にはなんらかの影響を受けているのか、頭を押さえて苦しむ者もいる。しかしそれも、異形の怪物が乱入してきたインパクトには及ばなかった。要石の光やかがり火に照らされたその姿が露わになると、悲鳴や恐怖に満ちた囁き声があちこちで響き、多くの村人が逃げ出した。


「おい、こっちだ!」


 そんな中、広場の端で私たちを呼ぶ人間がいた。軽トラックの窓から身体を乗り出している桐島さんだった。


「樋口さん、もう少しですから頑張って」


 しかし彼はもうほとんど限界を超えていた。その膝が力なく折れ、私の肩から腕がずり落ちる。顔は疲労と苦痛に歪んでいた。足首かどこかを捻ったのかもしれない。巨大な影が数メートルの距離に迫る。


「楠田さん!」


 一度は広場の中央まで進んでいた神奈子ちゃんたちが戻ってきた。全員で樋口さんを抱え、車まで運ぶ。


「る……り……」


 伸びた触手の一本が、神奈子ちゃんの肩に触れた。しかしそれにはもはや、彼女を捕らえるだけの力が残っていなかった。異形はようやくその命を燃やし尽くし、膨れ上がった肉体を自壊させつつあった。


「私は器じゃない」


 神奈子ちゃんは言った。その声には決意と、異形に対する一抹の憐憫とが込められていた。彼女は触手を振り払うと、樋口さんを運ぶ私たちに加わった。桐島さんの助けも得て、全員がトラックの荷台に乗り込んだ。


「君の師匠はどうした」

「はぐれました。でも多分……大丈夫です」


 諸々の説明を省き、強引に出発してもらう。軽トラックは喧騒と混乱を背にして舗装路を下り、村の入口へと向かった。私たちは疲労と安堵とで死体のようになりながら、揺れる荷台で身を寄せ合っていた。


 入口では見張りに咎められたが、重傷者がいるんだぞと桐島さんが怒鳴りつけて事なきを得た。見張りたちもまた異変に気付いて浮足立っており、しつこく食い下がることはしなかった。


 こうして私たちは村を脱出した。暗い県道を走る車。等間隔の街灯が、私に文明社会への帰還を実感させた。


 道中、神奈子ちゃんは言葉少なだった。あとり君でさえそうだった。私にしたところで、なんと声を掛けていいのか分からなかった。彼女は実の両親を失い、役割を捨てた。それは正気で生き残るために必要なことだったが、困難のない選択肢というわけではなかった。


 しかしきっと、自らを縛るものとの決別とは、大なり小なり困惑と苦しみを伴うものなのだ。もちろん、隣人の助けを得てはいけないということにはならないし、そもそも私の年齢と立場でそう考えること自体、身の程を弁えない行為なのだろうが。


 それでもこの姉弟は、支え合い助け合いながら、なんとかやっていくだろう。私は徐々に近づいてくる町の灯りを、二人が歩んでいくであろう前途と重ね合わせた。

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