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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Episode3 錆に鳴く猫
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-終- 錆びたもの、錆びないもの

 暖かな休日の午後。住宅街は平穏そのもので、数百メートル先で誰かが暴れているとはとても思えない。しかしそれだけに、騒ぎが起これば大きく目立ってしまうことだろう。恵那ちゃんを元に戻すことは大事だが、梶村さんが警察や救急の厄介になり、失職してしまうのは非常にまずい。


「その名取っていう人は狂暴なんですか?」


 小走りで目的地へと向かいながら、私はシロカネさんに尋ねた。


「心の底までは知れませんが、見かけ上は理性的な人間でした。おそらくは得た技術が不完全だったか、手順に誤りがあったか。……少しペースを落としてください。走るのは苦手です」


 古戸さんほどではないにせよ、シロカネさんの身体能力はあまり高くないようだった。単純に運動神経が悪いだけかもしれない。私が振り返ると、古戸さんが息を切らしながら、辛うじて追ってきているのが見えた。その脇にはラスティも見える。


「とにかく、交換の過程で精神が破損したのでしょう。その結果、知性や理性が失われてしまった」


 ダウンロードに失敗して、文字化けしてしまったデータみたいなものか。あるいはテレポートに失敗して、蝿と混ざってしまった人間みたいな。


 そうこうするうち、私たちは梶村邸に到着した。外観は全く変わりないが、庭先から窺えるリビングでは、確かに梶村さんと思しき人影がせわしなく動いている。


 急を要する現状、玄関を経由するのはまだるっこしい。私は腰まである植え込みを跳び越えて、芝生の庭に着地した。


「なかなかやりますね……」


 そのまま南の窓を勢いよく開け、土足でリビングに押し入る。


 先程私たちが訪れた小奇麗なリビングが、今はなんとも無残な有様になっていた。ひっくり返された家具、散乱した小物、割れた食器やガラス製品などは、まるで局地的な竜巻が過ぎ去った跡のようにも見えた。


 その光景を作った犯人は、キッチンの奥で冷蔵庫の中身を掻き出しているところだった。理性が破損しているどころの騒ぎではない。もはや野獣かなにかと同様のレベルまで、精神が退化してしまっている。


 私は恵那ちゃん――の肉体に入った梶村さん――が襲われていることを危惧したが、どうやら彼女はまだ安全な場所に隠れられているようだ。


 梶村さんの肉体を纏ったなにかはゆっくりと振り向き、虚ろな瞳で私を捉えた。その歪んだ表情には、衝動のはけ口を見つけた喜悦が浮かんでいるようにも思える。それは一歩、二歩とこちらに距離を詰めてきた。


 身長百八十センチ、体重八十キロ弱。そして警察官ならば、訓練の過程で柔道か剣道を修めているはずだ。この状態になってもそれを使うかどうかは分からないが、もしそうだとすれば非常に厄介な対戦相手だと言えた。 


 どちらにせよ、組み合いや筋力勝負は避けるべきだ。かといって身体が梶村さんのものである以上、眼球や睾丸を潰すのはまずい。指や肋骨ぐらいならば、ギリギリセーフだろうか……?


 私は間合いを取って時間を稼ぐ。ソファやテーブルをうまく盾にしながら、シロカネさんや古戸さんの加勢を待つつもりだった。しかし狭い屋内では、それにも限界があった。相手は膝や脛がものにぶつかるのも構わず、一気に距離を詰めてきた。


 私は鋭く息を吐き、ほんの少し手加減した中段突きを放った。手加減とは言っても、普通の人間ならば悶絶する程度の威力はある。しかし結果としてそれは悪手だった。躊躇のない突進が完全に止まることはなく、私は半ば吹き飛ばされる格好で背後の壁に叩きつけられた。


 追撃を回避するためにかがんだ直後、私の頭上を重い拳が通過し、くぐもった音を立てて壁をへこませた。脳のリミッターが外れているのか力は強く、拳が傷つくことも気にしていない。しかし柔道技を使ってくることは、どうやらなさそうだ。


 相手は流血している自分の拳を一顧だにせず、再び私に狙いを定めた。


「名取! お前に逃げ場はありませんよ」


 そのとき、玄関方面からシロカネさんの声が響いた。相手は私から視線を外さなかったが、それでも一瞬注意が逸れた。


 私は相手の隙をついて、狙い澄ました一撃を放った。理性が吹っ飛び、痛みや恐怖を感じない相手であっても、人間の身体である限り、脳震盪で意識を奪える。下顎を押し込むように打ち抜く、右の上段突き。


 正拳に確かな手応えがあり、私の下半身から生じた力の流れが、相手の脳を揺さぶったのが分かった。相手の身体は強い電気に撃たれたように一瞬硬直したあと、ぐにゃりと力を失った。壁にもたれかかったあと、床に崩れ落ちる。


 少しばかり記憶の空白は生じるかもしれないが、これくらいならば後遺症は残らないだろう。私は残心したまま、大きく息を吐いた。


 しかし、事態はそれだけで終わらなかった。今しがた倒した相手の口から、なにやら茶色いものが漏れ出していた。


 それは胃液や血液や脳漿ではなさそうだった。粘度の高い煙のように見える、きわめて不気味ななにかだった。


 これはなんだ? 戻した方がいいのか。捕まえた方がいいのか。それとも逃げ出すべきなのか。私が逡巡する間に、その虚ろな半実体は名状しがたい動きで拡散し、私の眼前に迫った。


 腐臭とも金臭さともわずかに違う、鼻を突く不快な臭気。錆色のそれは明らかに、なんらかの意思を持って蠢いていた。


 私は煙の正体を直観する。それは変質し、混濁し、腐食した精神の末路であり、狂気と凶暴性をあらわにした悪意の顕現そのものだ。


 元の肉体を離れた半実体は、知性も思考も目的もないままに、今度は私の肉体を奪い、精神を侵そうと襲い掛かってくる!


「やめッ……」


 咄嗟に手で払っても、相手を退散させることはできなかった。私の抵抗は、ただ空気をかき混ぜるだけに終わった。そうするうちにも錆色の煙が、口から、鼻から、目の粘膜から侵入してくる。


 私は自分の意識が、急激に朦朧となっていくのが分かった。一瞬生じた燃えるような危機感も駆逐され、知覚は麻痺し、思考が解体されていく。無力化された私の精神は網に絡めとられたようになり、頭の外に吸い出される――


「そこまで」


 私の後頭部に柔らかい指が触れた。その部分からじんわりと熱が広がり、麻痺性の靄が晴れていく。私の意識は徐々に私のコントロール化に戻り、悪意に対する抵抗力を得ていった。コップ一杯分の息を吐くごとに脳の領域を奪還し、不埒な侵入者を排斥していく。


 いつの間にか私の背後にいたシロカネさんは、まだ私の周囲に漂う錆色の煙に手を伸ばした。彼女がくるくると腕を回すと、煙は綿あめのように巻き取られ、動く力を失ってしまった。そして末端からジリジリと音を上げ、一層嫌な臭いを発散させながら消滅していく。


 その様子を見るシロカネさんの目は、非人間的な無関心と冷たい軽蔑に満ちていて、私は彼女に助けられたにも関わらず、ぞわぞわと背筋を寒くした。やがて錆色の煙は、この世界から完全に消滅した。


「ありがとう、ございます」


 気づけば私はその場にへたり込んでいた。目の前には動かない梶村さんのボディがある。念のため呼吸を確認し、脈を図る。とりあえずは大丈夫そうだ。


「いえ、こちらこそご協力感謝します。私の身体能力では、彼を無力化できなかったでしょう」


「古戸さんは?」


「あっちで父娘おやこのことを見ていてくれるよう頼みました」


 私はシロカネさんの手を取って立ち上がり、少しよろめきながら玄関に向かった。そこでは小さな女の子が涙を流しながら、錆色の猫を抱きしめている。


「バカなお父さんでごめんな……」


 にゃああ、にゃああと猫が鳴く。


「お疲れ。殺してないだろうね?」


 濃密な親子愛の現場に居合わせて、古戸さんは若干気まずそうだった。


「無傷ではないですが……」


「よかったよかった。帰る肉体がないと、困るだろうからね」


 能天気な態度にどっと疲れを感じた私はリビングに戻る。倒れていたソファを直し、そこに座ってぐったりと手足を投げ出した。


「誰か、お水下さい」



 少しの休憩を挟んだあと、私は梶村さん、恵那ちゃん、ラスティのボディを二階の寝室に集めた。これからシロカネさんが、ボディに元の精神を戻す作業をするのだという。


「私がいいと言うまで、絶対に中を見ないように……」


 童話めいた大げさなセリフを吐いて、シロカネさんは寝室にこもった。その間、私と古戸さんはリビングで待ちながら、荒れた室内をおおざっぱに片付けることにした。


「人間の精神が交換可能っていうのは、直観では了解可能なんですけど、なんか心理学勉強してきた自分が間抜けっぽいな、って思っちゃいますね」


 割れた皿の破片を注意深く集めながら、私は自嘲気味に言った。


「科学も宗教も魔術も、それぞれ見方や解釈やアプローチが違うだけだからね。一概に無駄ではないさ。それぞれ適した使いどころってのもあるしね。今回の件を大病院でやってみなよ。自分が病院から出られないっておち(、、)になる」


「住宅街で白衣着てる人がTPOを語りますか」


「これはこれで、ちゃんと合理性があるんだよ?」


 リビングが多少なりとも秩序を取り戻したころ、恵那ちゃんが二階から降りてきた。


「お姉ちゃん……」


 申し訳なさそうな顔で私に歩み寄ってくる。その表情や口ぶりは、年相応の自然なものだった。よかったねと声をかければいいのか。大変だったねと労えばいいのか。お疲れさまと言うのも変だろうか。私はなんとも対応に詰まり、あいまいに笑ったまま恵那ちゃんの頭を撫でた。


「さすがに三つ一気にやるのは、少し骨が折れましたよ」


 恵那ちゃんに続いて、シロカネさんがリビングにやってきた。その腕にはぐにゃりと力を失った錆色の猫が抱かれていた。


「ええと、お疲れ様です」


 ラスティはどうなるのだろう。処分されてしまうのだろうか。


「彼女も戻しておきますから心配なく。痕跡はあまり残したくありません」


 私の心配を読み取ったのか、シロカネさんは言った。


「梶村さんはどうしてます?」


「KO負けした格闘家と同じ状態なわけですから、少し休んでもらっています」


 その後、私が梶村さんにひたすら謝ったのは言うまでもない。もっとも梶村さんとしても、私に責任をかぶせるつもりは毛頭ないようだったが。


「では、私はそろそろ失礼しますよ」


 状況がひと段落したころ、シロカネさんは言った。


「どーも。僕の友人がお世話になりました」


 玄関口まで彼女を見送るタイミングで、古戸さんが言った。


「でもエージェントをやるならば、もっと派手じゃない格好をした方がいいと思いますよ」


 彼が保険のエージェントという意味で言っているのか、それともなにかスパイ的なニュアンスで言っているのか、すぐには判断しかねた。シロカネさんとしても思うところはあっただろうが、彼女はわずかに微笑んだだけで、そのまま去っていった。


 ともかく、これで梶村家はおおむね元通りになった。あとから聞いたところによると、恵那ちゃんはまた学校に行きはじめ、梶村さんは元気を取り戻したそうだ。そしてどうやら、新しい家族も増えたらしい。それは珍しい錆色の体毛を持つ、若い雌猫だということだ。


次回のエピソードは『エリー』を予定しています。

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