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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Episode3 錆に鳴く猫
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-2- 少女と錆色の猫

 ストレイキャットから歩いて十分。梶村邸は緑豊かな街路樹が並ぶ道路の脇にあった。クリーム色の外壁にオレンジの屋根。量産型ではあるが、小奇麗な印象を与える二階建ての家屋だった。梶村さんの仕事は警察官だというから、きっと所得もそれなりにあるのだろう。


 家にはごく小さな庭もあり、腰までの高さがある植え込みで囲まれている。中は芝生になっているが、さすがに父子家庭で丹念な手入れまでする余裕はないらしく、生え方が若干まだらになっていた。


 梶村さんに先導されていた私は、ふとなにかの気配を感じて道路の反対側を見た。そこには珍しい体色の猫がいて、恐々(こわごわ)とこちらの様子を窺っている。見知らぬ来訪者――主に薄汚れた白衣を着た古戸さん――を警戒しているのだろう。


「どしたの、楠田さん」

「いえ、ただの猫です」


 茶色い体毛。いやそれよりも赤っぽい。錆びきったトタンか鉄釘にも似ている。わずかに色ムラはあるが縞はない。あまり見たことのない柄だった。


 猫は好きだ。しなやかな筋肉の付き方がいい。私一人なら近寄って撫でられるか試すのだが、今はやるべきことがある。


 薄いオレンジの階段を上った梶村さんは、玄関扉を開いて私たちを招いた。失礼しますと中に入り、玄関で靴を脱ぐ。父娘二人で住むにはやや広い家だ。多分、奥さんが生きていたときに購入したものなのだろう。


 私たちはフローリングの廊下を通り、ひとまずはリビングのソファに腰を落ち着けた。


「恵那ちゃん、食事とかはちゃんと取ってるんですか?」


「ああ。部屋の前に置いて……ほら、引きこもり相手にやるようなヤツだよ。食欲はあるみたいだ。好物のツナ缶で釣ろうとしたけど、失敗した。風呂もろくに入らないし、生活はかなり乱れてるよ」


「じゃあ、やっぱり外には出ないんだね」

 古戸さんが確認する。


「出ないね。僕が部屋に入るのもかなり嫌がる。大体そういうときは、ベッドの上で膝を抱えてる感じかな。今日も歓迎はされないと思うけど……失礼があっても許してほしい」


 もともと、八歳の子供に礼節は期待していない。腹を立てる方がむしろ大人げないというものだ。


「じゃあ、あんまり引き延ばしてもアレなので……」


 と、私は着いて早々、恵那ちゃんの様子を見てみることにした。


 彼女の部屋は二階にある。私たちは玄関近くの階段を上り、子供部屋の前に立った。恵那ちゃんの部屋であることを示す、手作りと思しき木製の札がかけてあるが、今は中から異様な気配がする……ようなしないような。


 警戒して気配を探るのも妙な話なので、私はドアを控えめにノックした。


「こんにちはー……」


 反応はない。私が梶村さんに目をやると、彼は半ば諦めたような表情で頷いた。それを入室の許可と取った私はノブに手をかけ、ドアを手前に引いた。


 部屋に入ると、まずむっとした空気が鼻についた。饐えたとまではいかないが、人間の生活臭を十倍濃くしたようだった。部屋は日中にもかかわらずカーテンが閉められていて、照明もついていないため薄暗かった。


「恵那ちゃん?」


 部屋には脱ぎ捨てた衣服や雑貨が散乱し、壁紙が剥がれたりへこんだりしている部分もあった。暴れたとは聞いていたが、相当激しくやったのかもしれない。


 恵那ちゃんは奥のベッドで膝を抱え、身じろぎもせずこちらを見据えていた。


「誰だお前?」


 彼女は低い声で言った。なるほど、こういう感じか。


「こんにちは、梶村さんの知り合いの楠田といいます。こっちは古戸さん」

「ども」


「まぶしいかもしれないけど、電気つけるね」


 私はドア付近の壁を探り、照明のスイッチを入れた。白い蛍光灯が内部を照らし、恵那の詳細な姿も明らかにした。


 肩まで伸びた彼女の髪は脂ぎって乱れており、服も数日は着替えていないのだろう。ややくたびれていた。こちらを見据える瞳は昏く、敵意に満ちていた。


「医者か? ソイツ」


 恵那ちゃんは古戸さんを見て言った。


「医者? ふふっ」


「ちょっと古戸さん、黙っててくださいね」


 目の前にいるのが中年男性だったら、私は嫌悪こそすれそれほど気圧されることはなかっただろう。


 しかし可憐な顔立ちの少女がこのような態度を取り、荒い口調で敵意をむき出しにしている姿は、私の心を酷くざわめかせた。流氷の妖精として一時期もてはやされたクリオネの、獰猛な食事風景を見たときと似ている。


「少しお話できるかな?」


 私は彼女を警戒させないよう、その場にしゃがんで声をかけた。


「出てけよ」


「あのね、私は――」


 私が言葉を重ねる前に、彼女は手近な目覚まし時計を掴み、私に向かって投擲した。思いのほか正確に投げられたそれを、私は顔面の前でキャッチする。


「恵那!」


 梶村さんがやや声を荒げる。


「大丈夫です。梶村さん」


 私は右手で掴んだ時計をゆっくりと床に置く。少しの働きかけでも刺激になってしまうようだ。


「今日はちょっと機嫌悪いみたいだから、また来るね」

「……」


 恵那ちゃんは黙ったままこちらを睨んでいる。私はまたなにかが飛んでこないか注意しながら電気を消し、部屋の外に退避した。ゆっくりとドアを閉め、息をつく。


「申し訳ない、楠田さん。怪我は……」

「ああ、平気です平気です。私こう見えて空手やってるんで」


 しかしまあ、どうしたものか。いつまでも部屋の前で佇んでいても仕方ないので、私たちはまたリビングへ戻ることにした。


「楠田さん的にはどうなのよ」


 梶村さんが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、私たちはやや重苦しい雰囲気の中にいた。


「前の状態を知らないからなんとも言えませんが、一般的な疾患ではないような気がしますね。万が一ありえるとしたら……」


「多重人格、とか」


 梶村さんが言った。多分、彼も前々からその可能性を考えていたのだろう。


「いわゆるそういうヤツですね。解離性同一性障害とか、DIDとか言ったりしますが、やっぱりはっきりと判断はできません。すみません」


 解離というのは自我、人格、意識の分裂スプリットだ。現実感の消失や、記憶喪失なんかも解離と呼ばれることがある。解離性同一性障害の場合、自分が自分であるという同一性アイデンティティが解離してしまう、ということになる。


 発達障害や統合失調症のような一般的な障害・疾患より、発生率は遥かに低い。それに、解離には解離するなりの理由がある。


 たとえば衝撃的な事件に巻き込まれるとか、激しい虐待なんかがそれだ。恵那ちゃんの場合、母親の死というものはあるが、今になってその影響が出てきたということだろうか?


 なんにせよ、一度会っただけで判断することはできないし、するのも危険だ。


「その……、もし楠田さんがよければ、たまにでも来て、恵那に会ってもらえないかな。ずうずうしいと思うけど……」


「いえ、ずうずうしいだなんて。いいですよ。こもりがちで誰とも会わないの、よくないと思いますし」


 地元からここまではそれなりに遠いが、どのみちさほど忙しくはない立場だ。それに一度は臨床心理学を学んだ身。カウンセラーの真似事をしてみるのも悪くはない。恵那ちゃんの状態が少し良くなって、ほかの専門職に繋がれば万々歳だ。


 それに、問題を抱える家庭を訪れて力になるというのは、なんともまともな人間っぽいではないか。


「あ、猫だ」


 不意に、古戸さんが声を上げた。釣られた私が目をやると、リビングの南側に面した大きな窓の外で、錆色の猫がカリカリと窓をかいていた。


「あの子は、最近このあたりに住み着くようになったんだ。ここにもよく来る。ラスティって名前だ。僕がつけたんだけどね」


 錆びた(ラスティ)、という名前はなかなか洒落ている。飼い猫でも完全な野良でもない、いわゆる地域猫という存在だろう。


「恵那は猫が好きでね。でも変わってしまってからは、毛嫌いするようになった。というよりも、ラスティを嫌ってるのかな……」


 梶村さんはおもむろに立ち上がり、キッチンになにかを取りに行った。ラスティはまだ若い猫のようだ。せいぜい二歳か三歳ぐらいだろう。なにかを期待するようにこちらを見ている。


 私がラスティをぼんやり眺めていると、二階から怒声が聞こえてきた。


「失せろクソ猫!」


 恵那ちゃんだ。彼女は自室の窓から、ペン立てのようなものをラスティに投げつけた。直撃こそしなかったが、文房具やハサミがバラバラと散らばり、ラスティは驚いて逃げてしまう。


「ああ……」


 手に猫缶を持った梶村さんが戻ってきた。その姿にはなんとも哀愁が漂っていて、思わず同情してしまう。


「これはなかなか、手を焼きそうだ」


 一方の古戸さんはソファの背に身を預け、寛いだ姿勢でコーヒーをすすっていた。


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