-2- 少女と錆色の猫
ストレイキャットから歩いて十分。梶村邸は緑豊かな街路樹が並ぶ道路の脇にあった。クリーム色の外壁にオレンジの屋根。量産型ではあるが、小奇麗な印象を与える二階建ての家屋だった。梶村さんの仕事は警察官だというから、きっと所得もそれなりにあるのだろう。
家にはごく小さな庭もあり、腰までの高さがある植え込みで囲まれている。中は芝生になっているが、さすがに父子家庭で丹念な手入れまでする余裕はないらしく、生え方が若干まだらになっていた。
梶村さんに先導されていた私は、ふとなにかの気配を感じて道路の反対側を見た。そこには珍しい体色の猫がいて、恐々(こわごわ)とこちらの様子を窺っている。見知らぬ来訪者――主に薄汚れた白衣を着た古戸さん――を警戒しているのだろう。
「どしたの、楠田さん」
「いえ、ただの猫です」
茶色い体毛。いやそれよりも赤っぽい。錆びきったトタンか鉄釘にも似ている。わずかに色ムラはあるが縞はない。あまり見たことのない柄だった。
猫は好きだ。しなやかな筋肉の付き方がいい。私一人なら近寄って撫でられるか試すのだが、今はやるべきことがある。
薄いオレンジの階段を上った梶村さんは、玄関扉を開いて私たちを招いた。失礼しますと中に入り、玄関で靴を脱ぐ。父娘二人で住むにはやや広い家だ。多分、奥さんが生きていたときに購入したものなのだろう。
私たちはフローリングの廊下を通り、ひとまずはリビングのソファに腰を落ち着けた。
「恵那ちゃん、食事とかはちゃんと取ってるんですか?」
「ああ。部屋の前に置いて……ほら、引きこもり相手にやるようなヤツだよ。食欲はあるみたいだ。好物のツナ缶で釣ろうとしたけど、失敗した。風呂もろくに入らないし、生活はかなり乱れてるよ」
「じゃあ、やっぱり外には出ないんだね」
古戸さんが確認する。
「出ないね。僕が部屋に入るのもかなり嫌がる。大体そういうときは、ベッドの上で膝を抱えてる感じかな。今日も歓迎はされないと思うけど……失礼があっても許してほしい」
もともと、八歳の子供に礼節は期待していない。腹を立てる方がむしろ大人げないというものだ。
「じゃあ、あんまり引き延ばしてもアレなので……」
と、私は着いて早々、恵那ちゃんの様子を見てみることにした。
彼女の部屋は二階にある。私たちは玄関近くの階段を上り、子供部屋の前に立った。恵那ちゃんの部屋であることを示す、手作りと思しき木製の札がかけてあるが、今は中から異様な気配がする……ようなしないような。
警戒して気配を探るのも妙な話なので、私はドアを控えめにノックした。
「こんにちはー……」
反応はない。私が梶村さんに目をやると、彼は半ば諦めたような表情で頷いた。それを入室の許可と取った私はノブに手をかけ、ドアを手前に引いた。
部屋に入ると、まずむっとした空気が鼻についた。饐えたとまではいかないが、人間の生活臭を十倍濃くしたようだった。部屋は日中にもかかわらずカーテンが閉められていて、照明もついていないため薄暗かった。
「恵那ちゃん?」
部屋には脱ぎ捨てた衣服や雑貨が散乱し、壁紙が剥がれたりへこんだりしている部分もあった。暴れたとは聞いていたが、相当激しくやったのかもしれない。
恵那ちゃんは奥のベッドで膝を抱え、身じろぎもせずこちらを見据えていた。
「誰だお前?」
彼女は低い声で言った。なるほど、こういう感じか。
「こんにちは、梶村さんの知り合いの楠田といいます。こっちは古戸さん」
「ども」
「まぶしいかもしれないけど、電気つけるね」
私はドア付近の壁を探り、照明のスイッチを入れた。白い蛍光灯が内部を照らし、恵那の詳細な姿も明らかにした。
肩まで伸びた彼女の髪は脂ぎって乱れており、服も数日は着替えていないのだろう。ややくたびれていた。こちらを見据える瞳は昏く、敵意に満ちていた。
「医者か? ソイツ」
恵那ちゃんは古戸さんを見て言った。
「医者? ふふっ」
「ちょっと古戸さん、黙っててくださいね」
目の前にいるのが中年男性だったら、私は嫌悪こそすれそれほど気圧されることはなかっただろう。
しかし可憐な顔立ちの少女がこのような態度を取り、荒い口調で敵意をむき出しにしている姿は、私の心を酷くざわめかせた。流氷の妖精として一時期もてはやされたクリオネの、獰猛な食事風景を見たときと似ている。
「少しお話できるかな?」
私は彼女を警戒させないよう、その場にしゃがんで声をかけた。
「出てけよ」
「あのね、私は――」
私が言葉を重ねる前に、彼女は手近な目覚まし時計を掴み、私に向かって投擲した。思いのほか正確に投げられたそれを、私は顔面の前でキャッチする。
「恵那!」
梶村さんがやや声を荒げる。
「大丈夫です。梶村さん」
私は右手で掴んだ時計をゆっくりと床に置く。少しの働きかけでも刺激になってしまうようだ。
「今日はちょっと機嫌悪いみたいだから、また来るね」
「……」
恵那ちゃんは黙ったままこちらを睨んでいる。私はまたなにかが飛んでこないか注意しながら電気を消し、部屋の外に退避した。ゆっくりとドアを閉め、息をつく。
「申し訳ない、楠田さん。怪我は……」
「ああ、平気です平気です。私こう見えて空手やってるんで」
しかしまあ、どうしたものか。いつまでも部屋の前で佇んでいても仕方ないので、私たちはまたリビングへ戻ることにした。
「楠田さん的にはどうなのよ」
梶村さんが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、私たちはやや重苦しい雰囲気の中にいた。
「前の状態を知らないからなんとも言えませんが、一般的な疾患ではないような気がしますね。万が一ありえるとしたら……」
「多重人格、とか」
梶村さんが言った。多分、彼も前々からその可能性を考えていたのだろう。
「いわゆるそういうヤツですね。解離性同一性障害とか、DIDとか言ったりしますが、やっぱりはっきりと判断はできません。すみません」
解離というのは自我、人格、意識の分裂だ。現実感の消失や、記憶喪失なんかも解離と呼ばれることがある。解離性同一性障害の場合、自分が自分であるという同一性が解離してしまう、ということになる。
発達障害や統合失調症のような一般的な障害・疾患より、発生率は遥かに低い。それに、解離には解離するなりの理由がある。
たとえば衝撃的な事件に巻き込まれるとか、激しい虐待なんかがそれだ。恵那ちゃんの場合、母親の死というものはあるが、今になってその影響が出てきたということだろうか?
なんにせよ、一度会っただけで判断することはできないし、するのも危険だ。
「その……、もし楠田さんがよければ、たまにでも来て、恵那に会ってもらえないかな。ずうずうしいと思うけど……」
「いえ、ずうずうしいだなんて。いいですよ。こもりがちで誰とも会わないの、よくないと思いますし」
地元からここまではそれなりに遠いが、どのみちさほど忙しくはない立場だ。それに一度は臨床心理学を学んだ身。カウンセラーの真似事をしてみるのも悪くはない。恵那ちゃんの状態が少し良くなって、ほかの専門職に繋がれば万々歳だ。
それに、問題を抱える家庭を訪れて力になるというのは、なんともまともな人間っぽいではないか。
「あ、猫だ」
不意に、古戸さんが声を上げた。釣られた私が目をやると、リビングの南側に面した大きな窓の外で、錆色の猫がカリカリと窓をかいていた。
「あの子は、最近このあたりに住み着くようになったんだ。ここにもよく来る。ラスティって名前だ。僕がつけたんだけどね」
錆びた、という名前はなかなか洒落ている。飼い猫でも完全な野良でもない、いわゆる地域猫という存在だろう。
「恵那は猫が好きでね。でも変わってしまってからは、毛嫌いするようになった。というよりも、ラスティを嫌ってるのかな……」
梶村さんはおもむろに立ち上がり、キッチンになにかを取りに行った。ラスティはまだ若い猫のようだ。せいぜい二歳か三歳ぐらいだろう。なにかを期待するようにこちらを見ている。
私がラスティをぼんやり眺めていると、二階から怒声が聞こえてきた。
「失せろクソ猫!」
恵那ちゃんだ。彼女は自室の窓から、ペン立てのようなものをラスティに投げつけた。直撃こそしなかったが、文房具やハサミがバラバラと散らばり、ラスティは驚いて逃げてしまう。
「ああ……」
手に猫缶を持った梶村さんが戻ってきた。その姿にはなんとも哀愁が漂っていて、思わず同情してしまう。
「これはなかなか、手を焼きそうだ」
一方の古戸さんはソファの背に身を預け、寛いだ姿勢でコーヒーをすすっていた。




