-1- 悩める父親
季節は五月のはじめごろ。この一週間は暑い日と寒い日が不規則に訪れ、繊細な人々の自律神経を乱していた。私は日々の摂生と運動習慣により、季節の変わり目でも大きく調子を崩すことはない。今もとりあえずは健康に、滴水古書堂でアルバイトとして働いていた。
昨晩にかなり強い雨が降り、古書堂には酷い雨漏りが生じていた。私が出勤したときも、店内が若干湿っぽかったぐらいだ。私たちは開店を少しだけ遅らせて、在庫に被害がないか確かめていた。
「楠田さんって、大学でなに専攻してたの?」
開店の準備が整ったころ、古戸さんが唐突に尋ねてきた。
「言いませんでしたっけ。心理学です」
「それは知ってる。心理学も色々あるでしょ」
「ゼミは臨床心理学でした」
臨床というのはすなわち実践だ。学部生のカリキュラムに実習は含まれていなかったので、私が修めたのは知識だけの臨床心理学という、なんとも半端な代物だった。ただ修士以上の学位を取るのでなければ、大抵の大学教育というのはそんなもので、特に引け目があるというわけでもない。
「子供は好き?」
「なんのアンケートですか?」
質問の意図が分からず、私は聞き返した。
「いや、知り合いが子育てに悩んでてさ。相当参ってるんだよ。なにができるとも思えないけど、一応手助けするポーズだけでも取っとこうと思って」
「なんで古戸さんなんかに相談したんでしょうね」
「お、辛辣ゥ」
これまでに巻き込まれた出来事が思い起こされ、古戸さんの誘いにはつい身構えてしまうが、一応、まだまっとうな人助けであるように聞こえる。私の知識が役立つかどうかはひとまず置いておいて、少し話を聞いてみることにした。
古戸さんの知り合い――具体的な出会いや関係を、彼はぼやかした――は、市内で警察官をしているらしい。一人娘がいて、妻とは四年前に死別している。近隣に住む両親の助けを借りながら、父娘二人は住宅街の一軒家で生活してきた。
「恵那ちゃんっていうんだけどね。八歳、いや九歳だったかな。父親が徹也で、苗字は梶村」
「お父さんとの関係が悪いんですか」
「どうもそうらしいんだけど、経緯がちょっと不穏だった」
「はあ」
古戸さんによると、父娘の仲は長らく良好。母親の死は衝撃的だったが、それで家族関係がぐちゃぐちゃになることはなかった。古戸さんが顔を合わせれば、彼は常に利発で可愛らしい娘を自慢した。
「しかし約三週間前、恵那ちゃんは人が変わったようになる」
「どんな風に」
「よく分からない。別人のようになってしまった、とだけ聞いてる」
それだけでは流石にコメントしようがない。別人といっても、性格のことなのか、容姿のことなのか、態度についてなのか。
「とにかく梶村は困り果てて、僕なんかに相談してきたわけだ。彼の話をふんふんと聞いてるだけでも気休めにはなるだろうけどね、どうせなら楠田さんにも手伝ってもらいたいんだよ」
「まあ、そういうことなら……」
また妙なことに巻き込まれるのではないか。嫌な予感はしないでもないが、今のところ断る事由は見当たらない。私は助力を了承し、古書堂を午前中で休業として、その悩める父親に会うため出かけることにした。
◇
市営地下鉄に乗って三十分弱。私と古戸さんは比較的新興の住宅街付近の駅前にいた。相手と連絡を取り合って待ち合わせ場所にしたのは、『ストレイキャット』という名前のレストランだった。
アメリカのドラマか映画に出てきそうなプレハブの店――ダイナー、とでも呼ぶのだろうか――に入ると、赤と黄色の派手なユニフォームに身を包んだ女性店員が、必要以上に元気よく私たちを接客した。足元をちらりと見る。ローラースケートは履いていなかった。
古戸さんが背伸びをして店内を眺める。どうやら目当ての人物は、私たちより先に到着していたようだ。古戸さんは待ち合わせであることを店員に告げ、店の奥に進んだ。
休日昼過ぎのストレイキャットは、部活帰りと思しき中高生で混雑している。そんな中、梶村さんはややうなだれるような姿勢で四人掛けテーブルに座り、山盛りのポテトをつまむでもなく眺めていた。
「おいッス」
古戸さんが気安く声をかけると、梶村さんは顔を上げてこちらを認めた。
「ああ、古戸か」
「陰気だなあ。こっちがこないだ話した楠田さん」
「どうも」
私は軽く頭を下げて挨拶する。
警察官というからにはもっと溌剌とした、あるいは強面な人間をイメージしていたが、梶村さんはどちらかというと線の細い容貌をしていて、もともとなのか心労のせいなのか、目の下には濃いクマがあった。
古戸さんよりも年上に見えるが、二人の話し方からすると、高校か大学の同級生なのかもしれない。
「楠田さんね。梶村です、どうも」
「彼女は心理学を専攻していたんだ」
梶村さんに促されて席に座る。おもむろにメニュー表を広げると、カロリーの高そうな品々が並んでいた。それらはボリュームに比べると安価で、学生に好まれそうなラインナップであるように思えた。育ち盛りでない私たちは軽めの食事と飲み物を頼み、挨拶もそこそこにして本題に入る。
「さわりは聞いてもらったのかな」
梶村さんは私たちの方にポテトの皿を押しやりながら言った。
「娘さんの様子が変わってしまったとかで」
「そうなんだ」
「どんな風に?」
私が尋ねると、梶村さんは言いづらそうに少し黙ったあと、おずおずと話し始めた。
「妻が死んでから、僕は恵那がなるべく寂しい思いをしないように、色々気を付けてきた。職場の方で仕事も調整してもらってね。仲は良かったんだ。自慢の娘だったし、家でも学校でも、問題を起こすようなことはなかった。
でも、三週間ぐらい前かな。すっかり別人みたいになってね。目つきも、態度も、言葉遣いも。なんていうかな……僕にも敵意むき出しで。あまりに急で、それまでは普通だったから、恐怖を感じるぐらいだった。学校にも行かなくなったし」
「受診はしてみたんですか?」
「病院には絶対に行きたがらない。連れて行こうとすると暴れるんだ。僕自身は医師にもスクールカウンセラーにも相談したけど、それだけじゃね……」
本人が病気だとして、その自覚がない場合、受診に至るまでのハードルは高い。精神疾患ではしばしばあるケースだ。無理やり受診・入院させる制度がないではないが、かなり大事になる。外に出て非行でもすれば、まだ医療や福祉に繋がる余地はあるのだが。
「だから古戸に相談した。まあ、色々知識はあるからね。子供は苦手だからって、ちょっと詳しそうな知り合いを連れてくると聞いたんだ」
「そうですか……」
予想以上に私への期待は大きそうで、それに応えられるかどうか不安になる。
「なにか最近、変わったこととか、ストレスとか、事故とかあったんでしょうか……」
私の質問に対して、梶村さんはかぶりを振った。
「多分、ないと思う。担任とも話してみたけど、学校での人間関係はむしろいいぐらいだ。例えば事件に巻き込まれたとしても、普段と変わった様子はまったくなかった。でも……」
「でも?」
「片親っていうのが、悪いのかもしれない」
梶村さんは陰気な表情をなお一層暗くした。アメリカンな雰囲気の店内にあって、このテーブルだけが異様にシリアスだ。
「まー、別に親だけが愛情のリソースじゃないしねえ」
古戸さんが他人事のような口調で言った。先程からポテトをもりもりと食べている。
「とりあえず、会ってみればいいんじゃない? 話してみないことには分からないでしょ」
無責任な態度に反感を覚えないではないが、梶村さんから聞き取りをするだけだと不十分なのは確かだ。そのあと出された食事を平らげた私たちは、早速梶村邸へと向かうことにした。




