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滴水古書堂の名状しがたき事件簿  作者: 黒崎江治
Epsode2 肉塊
13/145

-終- ミューズ

 背後からハンマーで一撃されることは予見できても、いきなり金縛りに遭うことなど予見できない。いや、予見するべきだったのだ。あのおぞましい肉塊は超自然の力で作られたのだろう、と推測できていた時点で。


 首から下の自由を奪われた私は、胸筋や背筋を総動員して不可視の拘束から逃れようとしたが、それは鉄鎖のように頑強で、数センチを動かすのがやっとだった。


「安心していいですよ、楠田さん。貴女は綺麗な〝塊〟に成形してあげますから」


 冗談じゃない。殴り殺される方がはるかにマシだ。しかしこのままでは為す術がない。人力で脱出するのは到底不可能だ。


 でも、人外の力ならば。


 余裕の表情でこちら観察していた草香の顔が、わずかに歪んだ。私が期待した通り、古戸さんの右半身がミキミキと奇怪に蠕動し始めた。


「うふふふふ……」


 白衣の不審者が楽しげな声を上げる。その意気だ。頑張れ古戸さん。このときばかりは彼の異形が頼もしい。


 しかし私の淡い期待は、草香が振るったハンマーで、古戸さんの頭蓋骨と一緒に打ち砕かれた。華奢な身体から放たれた存外重い一撃は、余裕ぶっている古戸さんの側頭部に命中した。ぬぅだかぐぅだかの微妙な呻き声とともに、古戸さんは意識を失い、拘束を受けたままぐにゃりと力を失った。


 私が腹の底から古戸さんを罵倒しようとしたとき、草香が攻撃の反動と、若干の動揺とでよろめいた。咄嗟に踏み出したその足が、床に置いてあった塗料の缶を蹴とばす。


 それは部屋の隅まで転がっていき、中身の黒い塗料をぶちまけた。チッ、と草香が舌打ちする。


 そのとき、私は再び身体の変化を感じた。ほんの少し拘束が弱まっている。指先が、腕が、脚の動きが、私の制御下に戻ってくる。しかし、完全にはまだ遠い。


 隣で音を立てて古戸さんが倒れた。それにともない、草香も私の変化に気付いた。警戒の表情で、古戸さんの体組織がこびりついたハンマーをゆらりと構える。


 このままではまずい。私は一か八かで、足元にある塗料缶を、精一杯の力で転がした。緑色の塗料が床を汚す。


 すると、私の四肢はかなりの自由を取り戻した。私たちの肉体を拘束していたものは強力だったが、非常に繊細な仕組みの上に成り立っていたらしい。


「大人しくしていれば――」


 草香がハンマーを振り上げた。私は彼女がそれを振り下ろす前に、強い踏み込みで間合いの内側に入る。ハンマーの持ち手を抑え、右膝を草香の鳩尾に叩き込む。


 叩き込む。叩き込む。叩き込む。


 草香の手が力を失い、ハンマーが床に落ちたタイミングで、私も手を離して腰に戻した。脇を締め、間髪を入れずに、草香の顎を目がけて渾身の上げ突き(アッパーカット)を放つ。


 上下の歯がガチンと衝突する音がして、草香が背後に倒れた。受け身も取らずに後頭部を打ち付ける。


 残心してから、私は幾分か冷静になった。


 ――またやってしまった。


 いや、こちらは実際に被害が出ているのだから、ギリギリ過剰防衛にはならないはずだ。


 私は隣で倒れている古戸さんをちらり見遣った。ときおり痙攣しているが、重篤な状態にはなっていないだろう、となぜか確信できた。我ながら嫌な信頼感だと思う。


 警察を呼ぶべきか、このまま去るべきか。少なくとも、古戸さんの再生を待った方がいいだろう。しかし私たちはまだ、肉塊の真実をなに一つ掴んではいない。


 私が途方に暮れかけていると、ふと、背後に不穏な気配がこごった。


「……っ」

 咄嗟に振り返る。


「素晴らしい。実に、素晴らしい」


 それは一瞬男のように見えたが、実のところそれとは似ても似つかなかった。確かに実体はあったが、どちらかといえば影のような存在であるように思えた。


 しかしよくよく見れば、なにか真っ黒な、のたうつ蛇のようなものが塊を作っているのだった。頭のような場所にはいくつか裂け目があって、そこから赤い光がわずかに漏れていた。


「勇敢にして聡明なる探索者クアエシトール諸君。面白いものを見せてもらった」


 影は口ではないどこかから、虚ろな声を響かせた。あまりに異様な存在を前にして、私は言葉を発することも、身体を動かすこともできなかった。気道が狭窄して呼吸が苦しかった。


「ミュー……ズ……。ミューズ……」


 意識を失っていたはずの草香が弱々しく呟いた。


 ミューズ? 芸術の女神(ミューズ)だって?


 呼びかけられた影は草香を一顧だにせず、ただ赤い光をわずかに拍動させた。


 するとまず、草香の肉体にいくつかの切れ込みが入り、割けた。みるみるうちに、皮膚や筋肉組織、膜が切り離される。すると必然的に内部の臓器、次いで骨格が露わになった。それらは見えない力場に従って纏まり、無重力下の水滴の様に空中に滞留した。


「あ……」


 私には一体何が起こっているのか分からなかった。あるいはそれが幸いだったのかもしれない。この現象を理解できる人間は、もはや正気の外にある。


 草香の血液と体組織、神経節が混然となった球体は、皮膚によって包まれ、歪な球体を形づくった。ゆっくりと地面に降ろされたそれの表面には貌があり、乳房があり、手指と判別できる皺があった。しかしそれはもはや、人間と呼べるようなものではなかった。


 それは〝肉塊〟であった。


 私が何もできないでいる間に、美醜の観念を超越した、あまりに冒涜的な作品が生成された。


「ふむ……、やはり仕上げがなくては、今一つのようだ」


 影はそう呟くや否や、一瞬で跡形もなく消え失せた。足音一つ、痕跡一つ残さずに。しかし私の網膜には、その虚ろな影の残像が長く残った。


 それから私は、胃がひっくり返るくらいの勢いで嘔吐した。


「楠田さん、大丈夫?」


 私が胃液を吐き終えると、転がったままの古戸さんが声を掛けてきた。


「なん……で、いつも肝心なときに、気絶、してるんですか」


「意識は微妙にあったんだけど、運動野がまだ再生してなくて……」


 お前の頭頂葉など知ったことか、と私は言いたかったが、彼が動ける状態だったとして、あの事態をどうすることもできなかっただろう。


 やがて古戸さんはゆっくりと立ち上がり、手近な布で血や諸々の液体を拭った。


「いや、でもあれは実際、恐ろしい存在だと思うね。ここ数年で一番ヤバい感じがした」


 古戸さんの例年がどんなものかは分からないが、アレは以前鎌倉で出会ったものと違い、確かな知性を持っていた。それがまた恐ろしい。


「ともかく、これが真相ということだ。これ以上先には行けないよ。少なくとももう犠牲者は出なさそうだし」


 これ以上先に行けない、という点には限りなく同意できる。今はとにかくここから離れたかった。


 結局、私たちは警察も救急車も呼ばなかった。互いを支えながら草香邸をあとにし、近くの公園で缶ジュース一本分の休憩を挟んでから、電車に乗って横浜へと戻った。古戸さんと別れて家に帰った私は、母親に憔悴を悟られないようそそくさと自室に戻り、夕飯も食べないまま眠りについた。


 ◇


 後日の滴水古書堂。古戸さんが私に記事の切り抜きを見せてきた。そこには東京都小平市で起こった、三件の死体遺棄事件について書かれていた。


 そのおぞましい詳細についての記載はなかったが、三件はどれも似た手口の犯行で、死体は酷く損壊されていたらしい。佐名川さんは――当然だが――助からなかったのだろう。そして、見知らぬもう二人の犠牲者も。


 私は数日のうちに、四人目の記事が載ることを予見した。そして犯人逮捕の記事は、永遠に載らないであろうことも。


エピソード3は『錆に鳴く猫』を予定しています。

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