-終- ミューズ
背後からハンマーで一撃されることは予見できても、いきなり金縛りに遭うことなど予見できない。いや、予見するべきだったのだ。あのおぞましい肉塊は超自然の力で作られたのだろう、と推測できていた時点で。
首から下の自由を奪われた私は、胸筋や背筋を総動員して不可視の拘束から逃れようとしたが、それは鉄鎖のように頑強で、数センチを動かすのがやっとだった。
「安心していいですよ、楠田さん。貴女は綺麗な〝塊〟に成形してあげますから」
冗談じゃない。殴り殺される方がはるかにマシだ。しかしこのままでは為す術がない。人力で脱出するのは到底不可能だ。
でも、人外の力ならば。
余裕の表情でこちら観察していた草香の顔が、わずかに歪んだ。私が期待した通り、古戸さんの右半身がミキミキと奇怪に蠕動し始めた。
「うふふふふ……」
白衣の不審者が楽しげな声を上げる。その意気だ。頑張れ古戸さん。このときばかりは彼の異形が頼もしい。
しかし私の淡い期待は、草香が振るったハンマーで、古戸さんの頭蓋骨と一緒に打ち砕かれた。華奢な身体から放たれた存外重い一撃は、余裕ぶっている古戸さんの側頭部に命中した。ぬぅだかぐぅだかの微妙な呻き声とともに、古戸さんは意識を失い、拘束を受けたままぐにゃりと力を失った。
私が腹の底から古戸さんを罵倒しようとしたとき、草香が攻撃の反動と、若干の動揺とでよろめいた。咄嗟に踏み出したその足が、床に置いてあった塗料の缶を蹴とばす。
それは部屋の隅まで転がっていき、中身の黒い塗料をぶちまけた。チッ、と草香が舌打ちする。
そのとき、私は再び身体の変化を感じた。ほんの少し拘束が弱まっている。指先が、腕が、脚の動きが、私の制御下に戻ってくる。しかし、完全にはまだ遠い。
隣で音を立てて古戸さんが倒れた。それにともない、草香も私の変化に気付いた。警戒の表情で、古戸さんの体組織がこびりついたハンマーをゆらりと構える。
このままではまずい。私は一か八かで、足元にある塗料缶を、精一杯の力で転がした。緑色の塗料が床を汚す。
すると、私の四肢はかなりの自由を取り戻した。私たちの肉体を拘束していたものは強力だったが、非常に繊細な仕組みの上に成り立っていたらしい。
「大人しくしていれば――」
草香がハンマーを振り上げた。私は彼女がそれを振り下ろす前に、強い踏み込みで間合いの内側に入る。ハンマーの持ち手を抑え、右膝を草香の鳩尾に叩き込む。
叩き込む。叩き込む。叩き込む。
草香の手が力を失い、ハンマーが床に落ちたタイミングで、私も手を離して腰に戻した。脇を締め、間髪を入れずに、草香の顎を目がけて渾身の上げ突きを放つ。
上下の歯がガチンと衝突する音がして、草香が背後に倒れた。受け身も取らずに後頭部を打ち付ける。
残心してから、私は幾分か冷静になった。
――またやってしまった。
いや、こちらは実際に被害が出ているのだから、ギリギリ過剰防衛にはならないはずだ。
私は隣で倒れている古戸さんをちらり見遣った。ときおり痙攣しているが、重篤な状態にはなっていないだろう、となぜか確信できた。我ながら嫌な信頼感だと思う。
警察を呼ぶべきか、このまま去るべきか。少なくとも、古戸さんの再生を待った方がいいだろう。しかし私たちはまだ、肉塊の真実をなに一つ掴んではいない。
私が途方に暮れかけていると、ふと、背後に不穏な気配が凝った。
「……っ」
咄嗟に振り返る。
「素晴らしい。実に、素晴らしい」
それは一瞬男のように見えたが、実のところそれとは似ても似つかなかった。確かに実体はあったが、どちらかといえば影のような存在であるように思えた。
しかしよくよく見れば、なにか真っ黒な、のたうつ蛇のようなものが塊を作っているのだった。頭のような場所にはいくつか裂け目があって、そこから赤い光がわずかに漏れていた。
「勇敢にして聡明なる探索者諸君。面白いものを見せてもらった」
影は口ではないどこかから、虚ろな声を響かせた。あまりに異様な存在を前にして、私は言葉を発することも、身体を動かすこともできなかった。気道が狭窄して呼吸が苦しかった。
「ミュー……ズ……。ミューズ……」
意識を失っていたはずの草香が弱々しく呟いた。
ミューズ? 芸術の女神だって?
呼びかけられた影は草香を一顧だにせず、ただ赤い光をわずかに拍動させた。
するとまず、草香の肉体にいくつかの切れ込みが入り、割けた。みるみるうちに、皮膚や筋肉組織、膜が切り離される。すると必然的に内部の臓器、次いで骨格が露わになった。それらは見えない力場に従って纏まり、無重力下の水滴の様に空中に滞留した。
「あ……」
私には一体何が起こっているのか分からなかった。あるいはそれが幸いだったのかもしれない。この現象を理解できる人間は、もはや正気の外にある。
草香の血液と体組織、神経節が混然となった球体は、皮膚によって包まれ、歪な球体を形づくった。ゆっくりと地面に降ろされたそれの表面には貌があり、乳房があり、手指と判別できる皺があった。しかしそれはもはや、人間と呼べるようなものではなかった。
それは〝肉塊〟であった。
私が何もできないでいる間に、美醜の観念を超越した、あまりに冒涜的な作品が生成された。
「ふむ……、やはり仕上げがなくては、今一つのようだ」
影はそう呟くや否や、一瞬で跡形もなく消え失せた。足音一つ、痕跡一つ残さずに。しかし私の網膜には、その虚ろな影の残像が長く残った。
それから私は、胃がひっくり返るくらいの勢いで嘔吐した。
「楠田さん、大丈夫?」
私が胃液を吐き終えると、転がったままの古戸さんが声を掛けてきた。
「なん……で、いつも肝心なときに、気絶、してるんですか」
「意識は微妙にあったんだけど、運動野がまだ再生してなくて……」
お前の頭頂葉など知ったことか、と私は言いたかったが、彼が動ける状態だったとして、あの事態をどうすることもできなかっただろう。
やがて古戸さんはゆっくりと立ち上がり、手近な布で血や諸々の液体を拭った。
「いや、でもあれは実際、恐ろしい存在だと思うね。ここ数年で一番ヤバい感じがした」
古戸さんの例年がどんなものかは分からないが、アレは以前鎌倉で出会ったものと違い、確かな知性を持っていた。それがまた恐ろしい。
「ともかく、これが真相ということだ。これ以上先には行けないよ。少なくとももう犠牲者は出なさそうだし」
これ以上先に行けない、という点には限りなく同意できる。今はとにかくここから離れたかった。
結局、私たちは警察も救急車も呼ばなかった。互いを支えながら草香邸をあとにし、近くの公園で缶ジュース一本分の休憩を挟んでから、電車に乗って横浜へと戻った。古戸さんと別れて家に帰った私は、母親に憔悴を悟られないようそそくさと自室に戻り、夕飯も食べないまま眠りについた。
◇
後日の滴水古書堂。古戸さんが私に記事の切り抜きを見せてきた。そこには東京都小平市で起こった、三件の死体遺棄事件について書かれていた。
そのおぞましい詳細についての記載はなかったが、三件はどれも似た手口の犯行で、死体は酷く損壊されていたらしい。佐名川さんは――当然だが――助からなかったのだろう。そして、見知らぬもう二人の犠牲者も。
私は数日のうちに、四人目の記事が載ることを予見した。そして犯人逮捕の記事は、永遠に載らないであろうことも。
エピソード3は『錆に鳴く猫』を予定しています。




