-2- 美術商の仕事
「ありえないですよ……。なんであんな」
公園で肉塊を前にして佇んでいた私たちは、近くにパトカーの姿を見つけ、慌ててその場を離れた。多分、近隣住民か誰かが既に通報していたのだろう。
その後私たちは近隣の喫茶店に避難し、気持ちを――主に私の――落ち着けることにした。店内の客はまばらだが、白衣姿の古戸さんはやけに目立つ。
私はホットのカフェオレを頼んだが、それにはしばらく口をつけることができなかった。古戸さんはあまり喫茶店に来る習慣がないからなのか、先ほどの興奮が残っているからなのか、若干そわそわしていてなおのこと不審な感じになっていた。
「実際目の前にすると、ありえたと判断するしかないけどね。作成過程がとても気になる」
もし肉塊が本当に脈打っていたのであれば、中には心臓があるということだ。心臓を動かすためには脳が必要で、脳を生かすためには様々な臓器も必要なはずだ。肉塊の大きさを考えると、あの中には人体を構成する一切が、ほとんど丸々入っていたと考えるのが妥当だろう。
あれを切り開けば、目玉や肝臓や脊椎などが、どろりと出てくるのだ。私は自分で思い出しておきながら、非常に気分が悪くなった。
人間を生きたままあんな風に成形することなど、人の手では絶対に不可能だ。天才的な外科医とか、人工心肺とか、そういうレベルではない。私が想像さえできない、超自然のなにかが関わっているのか。
「肉まんに似てたよね……」
古戸さんが極めて不謹慎かつ無神経な呟きを放った。多分私はこの先数年、コンビニのレジに並ぶのを躊躇するようになるだろう。
「それ以上言ったら殺します」
「おお、怖い怖い」
私はようやく、カップに口をつけた。カフェオレを少し飲んではじめて、喉がカラカラに渇いていたことに気がついて、そのまま一気にカップを干した。
「早く帰りましょう」
「なんで?」
「なんでって……」
今日会うべき相手があんな風になってしまったのだから、用事が果たせるはずもない。
「どうしてあれが起こったのか気にならない?」
「そりゃ、気にはなりますけど、気にしたくない思いもあるっていうか」
「ちょっとなに言ってるか分からない」
「調べる気なんですか? どうやって?」
古戸さんはアイスコーヒーの氷をストローで押し込みながら、にやりと笑った。
「現場……、はさすがに大騒ぎだろうから、被害者の足取りを追うことにしようよ」
事件の背景でもうっすら知ることができれば、夢見も多少は良くなるだろうか。私は半ば流されるような形で、古戸さんと行動を共にすることになった。
◇
古戸さんは、肉塊となった美術商の事務所へ行ってみよう、と提案した。それは吉祥寺駅から少し歩いた所にあって、行くのにそれほど時間はかからない、とのことだった。
私たちは鷹の台から国分寺駅に出て、中央線で吉祥寺へと向かった。休日午前中の電車内には、住宅地から都市部へと遊びに出る人が多い。普段は群衆を避けがちな私だが、今はこの俗っぽい光景に安心感を覚える。
やがて降り立った吉祥寺の駅前も、人々で混雑していた。古戸さんと私は迷子になりかけさんざん遠回りをしながらも、やがて佐名川さんの事務所付近へと辿り着いた。
「ああ、ここだここだ」
黄色いレンガ風外壁のビルが、私の目の前にあった。一階はコンビニになっている。佐名川さんはこの三階建てビルを丸々一棟保有していて、二階が事務所、三階が住居、という風になっているそうだ。だから事務所といってもごく小さなもので、看板が掛かっているわけでもない。
私たちは脇にある入口に足を踏み入れ、階段で二階に上がる。アルミ扉に嵌ったすりガラスからは照明の光が漏れていて、中に誰かいることが分かった。
古戸さんが扉をノックし中に声を掛けると、女性の声が応えた。
「はい。……あら、古戸さん」
「こんちは」
中から姿を現したのは、ジーンズに白いブラウスという比較的ラフな服装をした、三十歳ぐらいの女性だった。
「こちら、うちでバイトしてる楠田さん」
「どうも」
私は紹介されるままに頭を下げる。
「どうもご丁寧に。山田です。今日は佐名川、お休みなんですけど」
「ああ、その件なんですけどね」
古戸さんはずいずいと室内に入っていき、さも当然のように応接用のソファへと腰を下ろした。山田さんが勧めてくれたので、私もおずおずとソファに腰かけた。彼女はこういった対応に慣れているらしい。ここで商談がされることもあるのだろう。
改めて事務所内を見回すと、そこは確かに小規模なもので、応接セットの他には事務机が二つ、そこに乗ったパソコンが二つ、観葉植物、湯沸かし器とコーヒーメーカーと加湿器、そして書類や資料を入れる用と思しきキャビネットがあるくらいだった。
「今日、佐名川さんと約束があったんですけど、なんか連絡がつかなくて」
「そうなんですか? 実はこっちも昨日から連絡が取れなくて。家にもいないみたいなんですよ」
「まあ、約束は別にいいんですけどね。ちょっとね、彼が最近してた仕事が気になって」
古戸さんは私にちらりと目配せした。多分、かまを掛けようとしているのだ。
「こういう、なんて言うんですか? 肉まんみたいな作品知ってます?」
これくらいの、と古戸さんはジェスチャーで形を示す。
「肉まん……?」
首を傾げた山田さんだったが、少し考える素振りを見せると、何かを思い出したように立ち上がった。キャビネットを開き、分厚いファイルを取り出してコーヒーテーブルに置いた。がさがさとそれを開いて見せ、クリアポケットに入ったパンフレットや雑誌の切り抜き、印刷された画像などを漁っていく。
「ええと確か草香、草香……。これのことですかね?」
やがて山田さんがファイルから取り出したのは、一つのパンフレットだった。彼女がそれを開くと、私たちが朝に行った鷹の台近辺で開かれている、展覧会の情報が記載されていた。
私は山田さんに渡されたそれを開く。いくつか紹介されている造形作品の中に、〝塊〟と題された作品があった。
似ている。それは樹脂か何かで作られたピンク色の作品で、大きさや質感こそ異なっていたが、潰れた球体のような全体のシルエットは、私たちが先ほど見た肉塊に酷似していた。作者の名前は、草香弥生と記されている。
「古戸さん、これ……」
私は山田さんに動揺を悟られないよう、パンフレットを古戸さんに差し出した。彼は塊を見て目を細め、気味悪く口角を上げた。
「ああ、多分これだねえ」
「それに行かれる予定だったんですか」
山田さんが尋ねた。パンフレットに記載された日程を見てみると、明日が展覧会の最終日であるようだ。つまりまだ開催されていて、私たちは――幸か不幸か――それに行くことが可能だ。
「どうだったんだろう。でも、佐名川さんと会え……、うん、会えなかったから、行って見るのもいいかもしれないね」
「ご迷惑をおかけします」
「いえいえ、山田さんが謝ることじゃないですよ」
古戸さんは鷹揚な態度で言った。とはいえ、多分佐名川さんが謝るようなことでもないのだろうが。
「あの、これ、コピー貰ってもいいですか」
私がお願いすると、山田さんはパンフレットを二部コピーして、私たちに渡してくれた。親切な彼女には、できれば最後まで何も知らないでいてもらいたいものだ。
「じゃあどうも、そろそろ失礼します」
古戸さんが席を立つ。私がちらりと腕時計を確認すると、時刻は正午を回ろうというところだった。
「お昼食べました? 最近そこに、おいしいラーメン屋さんができたんですよ」
「へえ。 ……ああ、僕はいいんですけど、彼女は多分、もう少しさっぱりしたものを食べた方がよさそうだ」
「あら、そうですか」
「……そうかもしれないです」
古戸さんの意味深な気遣いを受けながら、私たちは事務所をあとにした。




