-1- 肉塊
「週末、出張できる?」
強い春風で商店街近くの桜が散り、川の水面が花びらで埋め尽くされたのが、つい昨日のことだった。私が滴水古書堂でお決まりの事務仕事をしていると、古戸さんが思い出したようにそう言った。
「また鎌倉ですか」
私と古戸さんは先日鎌倉に出張し、古戸さんの師匠格である藤さんから、奇妙な魔術書に関する依頼を受けた。そのときの体験があまりに衝撃的だったので、私は自分で鎌倉という言葉を出しておきながら、浮上してきた不穏な記憶にほんの少し身を震わせた。
「いや、今度は国分寺……いや小平だったかな」
「国分寺? 中央線の?」
「そうそう。あ、さすがに今度は電車で行くからね」
国分寺駅ならば、新宿から中央線に乗って二十分ぐらいだったか。少し時間はかかるが、電車に乗って行くならばそれほどの面倒はない。
「出張、って言っても、半分レジャーみたいなもんだからいつも通りでいいよ。一応、顔合わせしておきたいヤツがいてね」
「変人ですか?」
「なぜそう決めつける? 君の基準で言う普通かどうかは分からないけど、僕と同じぐらいの実業家だよ。美術的な価値のある古書を取引することがあるんだ」
古戸さんは店の一角にある小さなソファに腰かけ、古書に目を落としながら言った。
実際に会ってみないと信用はできないが、今のところ、私にその申し出を断る特段の理由や予定はなかった。出張を了承した私は、次の週末、古戸さんと一緒に、その美術商と会うことになった。
◇
地元の駅から電車を乗り継いで一時間半。私たちは国分寺駅からほど近い、鷹の台という駅にやってきた。この日の天気は薄曇り。気温はここ数日に比べてかなり低く、レジャー日和には程遠い。とはいえ、私も楽しい外出を期待してきたわけではない。
なんとなく言われるままについて回り、はじめましての挨拶をこなせばいいだろう、と考えていた。
だから特に服装も意識していないし、メイクも大学に行っていたときと何ら変わりない。
かといって、私自身がオシャレとは少し距離を置いている人間なので、これ以上を求められても少し困ってしまう。それでも、薄汚れた白衣を着てきた古戸さんよりはだいぶマシだ。
まあ、繁華街でもなければ、ギリギリ大学を飛び出して来た研究者に見えなくもないか。
私が顔合わせをするべき人は、佐名川という名前の男性であるらしい。古戸さんの人物評はあまりあてにならない気はしたが、聞くところによるとあか抜けた、やり手の人物であるそうだ。
「顔合わせって、どっかレストランとかでやるんです?」
「いや、知らない。なんか公園の池? 水場? のあたりで待ち合わせって言われたような……」
極めてあやふやな情報をもとに、私たちは駅の裏手にある中央公園を訪れた。案内を見て、水遊びができるような人工池に向かう。
今日は気温が低いため、休日であるにも関わらず、水遊びをしようという子供の姿はなかった。
じゃぶじゃぶ池と名付けられたその水場は閑散としていて、冷たい風が水面に波紋を立てているだけだった。池の周囲は小さな林。佐名川らしき男性の姿もない。
「まだ来ていないみたいですね」
「割と時間には早めに来るヤツなんだけど」
あるいは別の場所にいるのか、と古戸さんが連絡してみても、繋がらなかった。
長い間連絡がつかないようなら、どこかのカフェにでも避難しようか、と話し合っていると、古戸さんが区画の端にある何かに気付いた。
「何です?」
促されて、私もそちらを見る。木の根元に、一抱えほどもある謎のオブジェが見えた。あれがどうしたというのか。
古戸さんはてくてくとオブジェに近づいていく。私もこの時点では、特に意識せずそれに従った。大きめの公園にはえてして謎のオブジェがあるもので、私は詳細にそれを観察するまで、変わった形の腰かけか何かだと思っていた。
しかし四、五メートルまで近づいた時点で、私はそのオブジェが異常な――少なくともかなり悪趣味な――ものであることに気がついた。
それは直径六十センチほどの、潰れた球形をしていた。表面は柔らかい、ややくすんだ肌色の素材でできている。よく見れば所々に繊細な縫い目があり、これが注意深く成形された人工物なのだということが分かった。詳細に表面を見てみれば、そこには産毛が生えており、肌理があった。
私は身をすくめた。これは人間の皮膚だ。質感が明らかに豚や羊のものではない。それもなめしたり乾燥させたりしていない、生皮なのだ。
観察するうち、オブジェがわずかに動いたような気がして、私は思わず後ずさった。どうか気のせいであってくれ。
一方の古戸さんはまったく臆する様子もなく、その奇怪なオブジェに触れた。そして今の私が最も言って欲しくないことを、普段通りの調子で言った。
「お、あったかい。生きてるよこれ」
「そういう精巧な仕掛けでしょう。いたずらですよ」
私は反射的に言った。それは推測というよりも願いに近かった。
「いやいや、ちょうど人肌ぐらいなんだって。それにほら、触ってみ? どくんどくん言ってるから」
古戸さんがこちらに歩み寄って腕を掴もうとしたので、私は全力で彼の手をはたき落とした。痛めた手をぶらぶらと振り、古戸さんはオブジェのところに戻った。
彼はあろうことかそれを押してみたり、撫ででみたり、嗅いでみたりしている。これを狂人の所業と言わずしてなんと言うのか。
「指とか乳首とかもあるね。これは唇かな? 全身の皮を切り開いて、また縫い合わせたのかあ……。テラトーマだっけ? それとはまた違うか」
ぶつぶつと呟きながらオブジェを調べた古戸さんは、やがてある一点に目を留めた。私が遠目から見た限り、それは青い蝶のような刺青であるように思えた。
「マジか……」
古戸さんは呟いた。
「どうしたんです?」
「楠田さん。どうやらこれ以上待っても無駄みたいだよ」
「え?」
「刺青に見覚えがある。この肉塊は佐名川だ。そしてただの材料というわけでなく……これ自体が丸々、佐名川本人なんだよ」




