-5- 天井裏の怪
「たしかここらにあったはずです」
昼食を終えた私たちは、書庫で誠一郎さんの心当たりとやらを探していた。やがて彼はまだ査定をはじめていない本の中から、比較的小さな一冊を取り出した。装丁を見れば書籍というよりも手帳に近く、果たして中身も手書きの文章や図形といったもので埋め尽くされている。
「ええと、由来はなんだったかな。アメリカ……ロードアイランド州」
あまり頻繁に聞くことのない地名だ。オカルト界隈では有名なのかと古戸さんに尋ねる。
「東海岸だから、歴史的には重要な場所が多いね。州都はプロヴィデンス。お隣はボストンとかアーカムのあるマサチューセッツ州。それで、中身にはなにが?」
「そうそう思い出した。これは知り合いに譲ってもらったものですが、彼曰く、数十年前に亡くなった好事家の手帳らしい。中身はなんと、ネクロノミコンとナコト写本の研究」
「ほう。それは貴重なコレクションだ」
「その当時、ロードアイランド州のフェデラル・ヒルにはいかがわしい結社があったそうなんですが、彼らがネクロノミコンとナコト写本を保有していたんです。この手帳の持ち主はなんとか結社に取り入り、魔導書の閲覧を許された。
手帳の内容を見るに持ち主が探求していたのは、遥か古代、人間以前の存在がおこなっていたという、生命を創造する秘術です」
ひとたび思い出せば、スラスラと言葉が出てくる。蒐集家がコレクションを語るときの常として、彼の瞳には熱っぽい光が宿っていた。
「……で、誠一郎さんは創ったんですか?」
私は尋ねた。
「少なくとも試みてはみました。しかしこういった文献はえてして謎めいた表現が用いられていて、かなりの予備知識を持った上で内容を補わないと、意味を理解することもできないんです」
誠一郎さんは私の視線に込められた若干の嫌悪を感じたのか、取り繕うように言葉を継ぐ。
「手に入れたのは何年も前で、当時は眺めるだけで満足してたんですが、最近はめっきり外出も減って時間を持て余してましたし、蔵書の処分も考えはじめていたころだったので、売り払ってしまう前にと、ほんのおふざけのつもりだったんです。それに、まさか成功したなんて……。
そのときは魚を使ったんですが、ドロドロの黒くて臭い汁が出てね。気分が悪くなったし、床に染みができたら大変だと思って、すぐに片付けたんです。……本当に成功してたんでしょうか?」
「どうですかねえ。ちょっとその本、読んでみても?」
「ええ、もちろん」
古戸さんは手記を受け取り、ページをぱらぱらとめくる。そのうち、ちょっと時間がかかりそうだと言い置いて、ふらふらと書庫を出て行ってしまった。
「あの、誠一郎さん」
「はい」
「私は天井裏を覗いてみたいんですけど、板とか外しちゃって大丈夫ですか」
「……そうですね。仮に普通の動物だったとしても、放っておくわけにもいかないですし、派手に壊さなければ構いませんよ。あとで業者にでも直してもらいましょう。私も若いころは大工仕事が多少できたんですが、今はねえ」
「こっちは大丈夫です。三津さんにも手伝ってもらいます」
「すみません。必要なものがあったらおっしゃってください」
家主の許可を取りつけたあと、私と三津さんは若干の準備を整え、書庫の天井裏を覗いてみることにした。重い棚を動かしてスペースを確保し、先ほどまで使っていたものより大きな脚立を持ち込む。タオルを頭に巻き、マスクと軍手を身につけた私が脚立に乗り、三津さんがそれを押さえる。
さて、なにが出てくるか?
天井の一部を押し上げると、板が外れて暗い内部が露わになった。冷たく湿った悪臭が、書庫の中にどろりと侵入してくる。私は顔をしかめつつ脚立のステップを上り、古めかしい金属の懐中電灯の光を頼りに、天井裏へと頭を突っ込んだ。
息をひそめながら、恐る恐るあたりを照らす。怪しげな生き物が潜む空間。さぞ混沌としているだろうと思いきや、一見して明らかな異常はない。古い住宅だけあって建材は多少痛んでいるが、生ごみや動物のフンに塗れているわけでもなければ、得体の知れない巣が作られていたりもしない。
しかし壁に光を当てて観察してみると、そこにはやはり大きなナメクジが這ったあとのような、乾いた粘液が見つかった。
比較的新しい痕跡はまだ水分を保ち、懐中電灯の光をテラテラと気味悪く反射している。それは床を通り、梁をよじ登り、器用にも天井を伝って私の真上――
次の瞬間、頭になにかが覆いかぶさってくる!
私は一瞬にして目を塞がれ、視界を奪われた。冷たい。重い。少し遅れて、ガソリンのような悪臭。取り落とした懐中電灯が、ゴトリと音を立てた。足下で三津さんの悲鳴が聞こえ、脚立が激しく揺れる。
ギリギリ、メキメキと頭の中で音がする。覆いかぶさってきたなにかが、箍のように締めつけてきているのだ。必死にむしりとろうとしても、それは強固なくせに触れた場所から泥のように崩れ、実体を掴むことができない。
悪臭を放つものがどろりと垂れ下がり、私の鼻から顎にかけてを分厚い膜のように覆った。
まずい。まずい。なにがなんだか分からないが、このままだと窒息する。
私はもがいているうちに平衡感覚を失い、脚立から足を踏み外した。しまったと思う間もなく、短い落下。頭から首にかけての強い衝撃。
しかし怪我の功名と言うべきか、頭を覆うなにかがそのままヘルメットの代わりとなった。
ほんの一瞬締めつけ緩んだのを感じた私は、打ちつけた身体の痛みに耐えながら、頭に巻いたタオルごと拘束を脱した。よろけて背後の棚にぶつかり、あらためて目を開けたとき、私は天井裏に潜んでいたものの正体をはっきりと目にした。
それは言うならば沸き立つ臓物だった。表面は黒く、所々玉虫色に光り、絶えず偽足や突起や裂け目を作り、自己を呑み込み、裏返り、ぶるぶると震えていた。明らかに目や口と思われる器官が生成されたかと思うと、貪欲な肉に埋もれて消えた。
リリリ、リリリリリリ、と異形が音を立てる。
どんな悪意と狂気があれば、こんな存在が生み出されるのか。本当に蒐集家の戯れが、こんなにもおぞましい結果をもたらしたのか?
異形は奇妙な声で鳴き続ける。のたうつ身体が不快な水音をたてる。それはあらゆる生命を冒涜する呪詛のようだった。できることなら目も耳も塞いでしまいたかったが、危機を前にして現実逃避するわけにはいかない。
傍らに目をやれば、壁を背にした三津さんが凍りついている。
思えばこのとき、彼女を無理やりに引っ張ってでも扉に向かえばよかったのだ。黒く粘り気のある汚泥のようなそれが、慣れない光に順応するまでの数秒を、私は愚かにも空費してしまった。
異形は見た目から想像されるよりもはるかに俊敏だった。それはぶるりと大きく震えたあと、ほとんど転がるような勢いで書庫の扉にへばりつき、その身体を広げ始めた。
はじめ、私は異形が書庫を出ていこうとしているのだと思った。しかし間もなくそれは誤りだと分かった。伸ばされた多数の偽足が絡まり合い、融合し、再び分離し、目の粗い網のような構造を作っていく。それは扉と枠との間を、まるで縫い糸かテープのように補強した。
私たちを閉じ込めるために。扉を開かせないために。
「なんで……」
三津さんの呟きには絶望の響きが混じる。閉じ込められたことに対する危機感だけでなく、異形が明らかに意図を持った行動をしているという事実が、彼女の動揺を増幅させているようだった。
「大丈夫、三津さん。落ち着いて」
大丈夫でもなければ落ち着ける要素もないのだが、こういった場合にこそ冷静さは必要だ。私は髪や額にこびりついた悪臭に耐えつつ呼吸を整え、自分たちが置かれている状況を整理しようと試みる。
この書庫に窓はなく、唯一の出入口は封鎖された木の扉。もちろん無理やりこじ開けるという選択肢もあるが、先ほど頭を締めつけられたときの圧力からして、攻撃に晒された指や腕が無事である保証はない。
金属製の脚立でぶん殴るという方法もあるにはあるが、そもそもあの軟らかい異形を殴ってみたところで、致命的なダメージを与えられる可能性は低そうだ。火や塩や洗剤はどうだろう? 効くかもしれないが、書庫を出なければ手に入らない。
蔵書を全てひっくり返せば、役に立ちそうな知識や魔術が載っているだろうか。いや、さすがにそこまでの猶予はないだろう。それに、一番有力そうな手帳は、古戸さんが持っていってしまった。
そうだ。古戸さんを呼べばいい。いなければ誠一郎さんでもいい。邸宅の壁はしっかりしていそうだが、声を張り上げればどちらかには届くだろう。
「古戸さん! いますか、古戸さん!」
隣の客間は私たちが作業スペースとして使っていた場所だ。私は拳で壁を叩きながら大声を出した。彼は運よくそこにいたようで、十秒ほどしてから反応があった。こちらの窮状を知ってか知らずか、悠長なノックが返ってくる。なにか言っているようでもあるが、聞き取れない。
腹から声を出せ、この野郎。
「そっちからドアを開けてください! 変なのが張りついてますから気を――」
リリリ、リ、リリリリリリリリ
また鳴き声がする。私は慌てて振り返り、異形の攻撃に備えて身構えたが、それは扉にがっちりと張りついたまま動いていない。ただの威嚇なのか、ほかの意味があるのか。まさかこちらへの語りかけなのか。
リリリリ、リリリリ
妙だ。はじめ不快としか感じられなかった鳴き声だが、聞いているうち理解できるような気がしてくる。理解したいような気になってくる。精神への侵入と干渉を試みる力に対して理性が抵抗し、ひどい混乱が生じる。
扉の向こうで大きな音がした。どうにも様子がおかしい。隣の部屋からなら、十秒もかからないはずなのに。なんらかの妨害を受けているのかもしれない。
このまま待っていても埒は飽かず、むしろ状況は悪くなっていくように思われた。なにか手掛かりは、役に立つものはないかと部屋を見回すと、天井に空いた穴が目に入る。先ほど私が覗き込み、異形と遭遇した空間に繋がる穴。
「三津さん」
私は小声で囁きかけた。なんとなく、異形がこちらの言葉を解しているような気がしたからだ。
「天井裏に点検口ってありますか?」
今回はイレギュラーな場所から頭を突っ込んだが、そことは別にメンテナンス用の出入口があってもおかしくない。
「……あります。随分前ですが、業者の方が押し入れから天井裏を点検していた気がします」
三津さんによれば、書庫の隣が物置、さらに隣が和室となっており、そこに天井裏へ上ることのできる点検口が存在するという。距離にすれば七、八メートル。あまり気は進まないが、ここでじっとしているよりはましだ。なんとか書庫を脱出し、古戸さんか誠一郎さんと合流しよう。
「あの、私はどうすれば」
「すぐに外から開けるので、待っててください。大人しくしてれば、アレも襲ってこないと思います」
追われるとしたら、書庫を出ようとする人間の方だろう。三津さんは安全なはずだ。……多分。
なんにせよ、このまま縮こまって助けを待つばかりというのも気概に欠ける。私は大きな音で異形を刺激しないよう脚立を直し、そのステップにゆっくりと足をかけた。




