エピソード6-1
終電が出た後の駅前は人影もずいぶん減っていた。
終電を逃した人達を乗せるタクシーの列。
連なるテールランプは、赤い川のように続いている。
その赤い流れから少し離れた場所にあるベンチの前で、マサトさんは足を止めた。
ようやく肩から手が離される。
私はそのままベンチに座らされた。
「なにがいい?」
突然投げられた質問には主語がなかった。
「はい?」
意味を理解できず、間の抜けた声が出る。
するとマサトさんは怪訝そうな目を向けてきた。
……だけど……。
その質問の意味が分かったら、それはそれでおかしいと思う。
もし私達が子どもの頃から一緒の幼なじみだったり、長年連れ添った老夫婦だったり、言葉にしなくても考えていることが分かる関係だったりするなら別だけど。
私とマサトさんは昨日会ったばかりだ。
今日は二回目。
昨日だって、そんなに話したわけじゃない。
今日にいたっては会話らしい会話もしていない。
そんな私がマサトさんの言葉の意味を理解できるはずもなく……。
ただ首を傾げたまま、立っているマサトさんを見上げるしかなかった。
そんな私を呆れたように見たマサトさんは、
「飲み物だよ」
そう言って近くの自販機を顎で示した。
……『何がいい?』
……『飲み物だよ』
……自販機。
マサトさんの言葉と行動を繋げる。
どうやら私にジュースを買ってくれようとしているらしい。
そこまで理解して、私は慌ててバッグから財布を取り出した。
……お金を出さなきゃ……。
正直、喉はカラカラだった。
たぶん、今まで経験したことがないくらい緊張したせいだ。
なんでもいいから飲みたい。
そんな状態だった私にとって、マサトさんの提案は飛びつきたくなるものだった。
私は急いで小銭を出そうとした。
まだ緊張の残る指で財布の小銭入れを開く。
そこまでは良かった。
だけど、焦っていたせいか。
緊張で指が震えていたせいか。
「……あっ……」
私が短い声を上げた直後、辺りに派手な音が響いた。
それは小銭が地面へ散らばった音だった。
……また、やってしまった……。
全身から血の気が引く。
財布に入っていた小銭を全部ぶちまけてしまった。
勢いよく地面へ落ちた小銭達は、固まる私を置き去りにして四方八方へ転がっていく。
こんな時に限って財布の中には小銭がたくさん入っていた。
出勤前にコンビニで買い物をした時のお釣りには五百円玉がなく、百円玉ばかり。
本当なら百円玉でもらえるはずだったのに、一円足りなかったせいで大量の十円玉と一円玉で返ってきたり……。
そのせいで今日はいつも以上に財布がずっしり重かった。
早く拾わなきゃ。
頭ではそう思うのに、身体がまったく動かない。
足元へ転がった一円玉が、『早く拾え』と言わんばかりに鈍く光り、その存在をこれでもかと主張している。
……分かってるって……。
拾いたい気持ちは山々なんだけど……。
身体が動かないの。
心の中で一円玉と会話している時点で、私はかなり追い詰められていたんだと思う。
そんな危ない人みたいな私の耳に届いたのは、吹き出すような小さな声だった。
息遣いにも似たその音に顔を上げる。
するとその人は、厳つい顔を柔らかく崩しながら私を見下ろしていた。
「……あっ……」
なんと言えばいいのか分からず言葉は出なかった。
それでも、その笑顔につられるように強張っていた私の顔も少し緩む。
「……なにやってんだよ?」
呆れたような言葉とは裏腹に、その口調は穏やかだった。
マサトさんはゆっくりしゃがみ込むと、私の足元に散らばった大量の小銭を拾い始めた。
「……落としちゃった」
「ああ、そうだな」
一目で分かることをわざわざ説明した私に、マサトさんは苦笑しながら頷いた。
大きな手が次々と小銭を集めていく。
私はその手に見入っていた。
自分で言うのもなんだけど、私は器用じゃない。
どちらかと言えば不器用な部類だと思う。
初めてのことに慣れるまで、人の倍以上時間が掛かる。
何度もやっていることでも慎重にやらないとすぐ失敗する。




