夏の終わり 3
八雲さんは自分の鼻先を触ったり、指を組んではほどいたり、落ち着きなくしていたけど、僕が諦めないのを悟ると、存外頼りなげな顔をして微笑み、小さく息を吐いた。
「彼女の父親はね、酷い酒乱だったらしいんです」
まるで、事件そのものはそこから始まったと言わんばかりの切り口だ。
「彼女の両親はそれがもとで離婚し、一族からも倦厭されていたそうです」
「一族?」
八雲さんは頷くと
「彼女の家はあの神社の親族に当たる家なんです。まぁ、半ば絶縁状態だったと聞いていますが」
僕はふとハヤテの事を思い出した。彼は確かあの神社の子どもだったはずだ。つまりアヤメを姉と呼んだのは、従姉か何かだったからってことか。
「母親が出て行ったあとも、父親は一族いやこの村から見放され、その苛立ちにアヤメに辛くあたっていたそうです。たぶん、虐待もあったんじゃないかな。僕が引き取った時には、痣だらけでした」
僕は夢の中の彼女の腕を思い出した。
痣だらけの腕。でも、夢の中の彼女は……父親を恨んじゃいなかった。
「そんな彼女に100年に一人の空蝉の巫女という大役が回って来たのです。と、いうのもその時親戚の中で巫女になれる……子どもの君には説明しにくいけど、つまり子どもの女性は彼女しかいなかったそうでしてね。彼女の父親はそれは喜んだらしいのです。これで一族に認められるってね」
確かに、夢の中のアヤメの言っている事とそれは違わない。あれが本当に過去にあった事なのだとしたら……。
僕は顔を上げると、八雲さんの痩せた頬を見つめた。
「でも……確かに彼女は、アヤメちゃんは父親のためにって思ってたかもしれない。でも、本当は嫌がってたと思う。良くは覚えてないけど」
僕の言葉に「君、何か覚えているんですか」と意外そうに呟くと
「他に何か覚えていないですか?」
質問で返してきた。僕は眉をよせ自分の手に視線をやる。僕の腕には彼女の爪跡がまだくっきりと残っていた。
「忘れるのを凄く嫌がってた。少なくとも、僕らはその儀式を本物だと思ってたし、空蝉になれば僕の事を忘れる、そんな話をしていたように思う」
八雲さんは丁寧に頷きながら、まるでパズルの足りない部分を埋めていく時の様な顔をして「なるほど、やはり……」と呟いた。
「儀式の前に巫女は修行に入るんです。7日間の修行の後に、儀式で正式に承認される、そういった流れです。もしかしたらそこで、彼女はすでにその力を身につけ、空蝉になるという事がど言う事か知ってしまっていたのかもしれませんね」
まるで彼女の身の上を憐れむような声は、苦しげだった。
僕は彼の煮え切らない態度に少しいらつき、身を乗り出す。
「つまり、どういう事なんですか?」
強い語気に押されるように八雲さんは顔を上げると、しばらく僕を見つめ、重い唇の隙間からため息の様な声で静かに告げた。
「空蝉の巫女になるという事は、本人は「からっぽ」になる、と言う事なんです」
「?」
「全ての記憶を失う。そう言う事ですよ」
僕はどこかで予想していたその言葉に胸を重くした。
そうだ、もうあの時、僕らは知っていた。空蝉になれば僕を……全てを忘れてしまうって事を。だから逃げようって言ったんだ。でも、彼女は父親のために……。
八雲さんは立ち上がり、窓際までゆっくりと歩いた。カーテンにそのボールペンのような指をかけ、影と闇の世界を目に宿す。
「伝承にはこうあるんです。『巫女は空蝉。空の身に死者の魂を宿し蘇らせる』ってね」
たぶん、難しい言葉を僕用に無理やりに簡略化しているんだろう。その説明は、それでもなんとなく理解できる気がした。
八雲さんは反転すると窓に背を預け、また手帳を繰り出す。
「魂……つまりそれは記憶なんじゃないかと私は考えています。巫女は人の記憶を何らかの方法で奪う。そして、その記憶を何かに写して依頼者に見せる。それを死者の再生とみなした……と」
そうだ。
魂が記憶。
「もっと、現代的に考えれば、相手の記憶を蘇らせ幻覚を見せるような催眠をかける事が出来たのかもしれない。私の解釈はこうでした」
八雲さんは自説を説明すると、まるで言い訳するように声のトーンを一つ上げた。
「けど、繰り返しますが、あの時までは私を含め、だれもそんな伝承を信じていませんでした」
「でも、アヤメちゃんは本当に空蝉になったんですよね」
「ええ。アヤメは儀式で本当に自分を失うことになりました。そして……」
八雲さんは目を固く閉じた。まるでその瞼の裏にはまだその光景が生々しくん残っていると言わんばかりに、そのままの姿勢で、かすれた声を漏らした。
「アヤメは暴れて、父親を殺し……失踪したんです。そして戻って来た時にはそれまでの記憶全てを失っていました」




