鍛冶屋の宿命
鍛冶職人であるカマールの一日は、祈りを捧げることから始まる。
竃がある神聖な仕事場。その北西の角、ちょうど天井と柱がぶつかる角には、古ぼけた小さな絵のようなものが、幾つか掛かっていた。それらは、この国の神々が宿るとされる寄り代で、其々の木の板には、祭る神の意匠が描かれていた。
竃と炎を司る神、【ズヴァローグ】
風を司る神、【ストリヴォーグ】
太陽を司る神、【ダジヴォーグ】
大地を司る神、【モーコシ】
水を司る神、【ヴァダールグ】
火、水、土、風――――――どれも鍛冶職人には欠かせない重要、且つ神聖な要素だ。
日の出と共に、小さく切りとられた天窓から差し込む自然光が、ぼんやりと神々が祀られている天井の角を照らし出す。
朝一番の清冽で荘厳な空気が立ち込める静寂の中、無骨で荒削りな男の横顔は、敬虔な愚者のそれに変わる。
―――――――今日、一日、無事に仕事ができますように。
太い関節の浮き出たひび割れのある手を組んで、早朝の一時、男は静かに目を閉じて祈りを捧げた。
この道の門を叩いてから、もう十年以上は経つ。だが、カマール自身、これまでに満足の行く代物を造ったと思ったことは一度も無かった。親方から独り立ちを認められてから、早三年。それでも、この世界ではまだまだ【ひよっこ】の範疇だ。
鍛冶職人の仕事は毎日が修行である。日々、高みを求めて精進を続けるのだ。終わりなき旅路だ。それは孤独な道程だった。
―――――――この腕が動く限り。この手が動く限り。
カマールは、閉じていた瞼を上げると己が腕へそっと指を走らせた。
洗いざらしのシャツで覆われたその下には、日々の労働で鍛え上げられた筋肉質な太い腕がある。筋と血管が浮き出た働く男の腕だ。ちょうど二の腕の内側、丸い力拳が形成される辺縁の辺りには、薄らと紫色の痣が浮かんでいた。
この痣が出来始めたのは、約一年前の事だ。年を追うごとに濃さを増してゆくであろうその痣は、鍛冶職人である【術師】特有のもので、この仕事を続ける限り消えることは無い、切っても切れない宿命のようなものだった。
特に、高い能力を保持する【術師】程、その影響は顕著に表れる。良い腕の職人程、その痣は濃さを増し、それが現れる範囲も広くなった。
鍛冶職人仲間の中には、それを勲章のように思う輩もいる。だが、誰一人として、それを他人に見せびらかすような者はいなかった。
それは恥ずべき行為として認識されていた。
その痣は鍛冶職人の【誇り】であると同時に【忌むべきもの】でもあるからだ。良いモノを作り上げる為の代償とでも言うべきものだろうか。職業病という者もあるだろう。大地と自然からもたらされる【恵み】に対する人が払うべき【対価】だ。
―――――――何故ならば。
それは、鍛冶職人の身体を蝕む【毒】の現れでもあったから。厳かな死への招待状なのだ。
人として生を受けたからには、誰しもが、やがて、その終焉を迎える。永遠の命など存在し得ない。尽きては生まれ、生まれては尽き、そして、巡り巡る。そうやって、一つ一つとして見るならば【点】にしかなりえない命は、限りない【直線】を形成する大事な一要素になるのだ。
鍛冶職人の寿命は、通常の人の一生よりも短かった。それは、刀剣を作り上げる際、元となる金属鉱石【スターリ】に、より強度を高める為、【キコウ石】を入れて生成する時に出る、人にとっては有害な物質を長く浴び続ける為である。熱く滾る炎の中、熱せられた金属の塊を一気に冷やす時、それは気化したガスの形を取って、鍛冶屋である術師の体内に入った。
紫色の痣は、その毒が体内に蓄積した証でもあった。仕事を辞めない限り、人によって程度の差はあるが、痣の色は徐々に濃さを増し、その範囲も広がりを見せる。そして、段々と手足の感覚を奪ってゆくのだ。神経細胞をやられてしまうのだろう。
この痣を直す薬は無かった。
だが、鍛冶職人たちは、漫然とただ手を拱いていた訳ではない。痣の広がりは、鍛冶屋としての職人生命に直結する。昔から、どうにかして発症を遅らせようとか、段々と失われてゆく手足の感覚をどうにかしようとする試行錯誤は続いていた。だが、これまで誰一人としてそれに対する効果的な対処方法、治癒の方法を発見できた者はいなかった。
それは、鍛冶屋を志す者ならば受け入れなければならない宿命とも言うべきものだった。
そういう意味で、鍛冶職人の一生は、太くて短い。限られた時間だからこそ、己が魂を込めて仕事をするのだ。そうして作り上げられた刀剣は、正に鍛冶職人の闘魂の一振りだった。
だからだろうか。鍛冶屋を担う術師は独り身のものが多かった。家族を持てば、自分の過酷な定めに大切な人達を巻き込むことになる。短い一生を自分で選び取った鍛冶屋の術師ならば、それは覚悟を決めての事だと言えるが、その自己満足とも自己犠牲とも言うべき選択を、これから一生を共にするであろう相手に背負わせることはしたくないということなのだ。
その代わりとして、鍛冶職人の間では、相互扶助としての寄り合いが発達していた。家族を持たぬ独り身の術師が、その体調を崩した時や日常生活がままならなくなった時、その手伝いをするのだ。助け合いの精神が生きていた。
カマール自身は、その精神に則り、独り身を通す積りでいた。妻を娶っても、追い先が長くない自分にはきっと苦労をさせるだろう。この身体がままならなくなった時、鍛冶職人として仕事が出来なくなった時のことを考えれば、相手には多大な負担を負わせることになってしまうだろうからだ。
愛する人を悲しませたくはない。それは、心優しい少年が、この道に入る時に決めた揺らぐことのない決心だった。
分野は違えども同じ【術師】として生計を立てている、謂わば先達の母親は、その事を分かっている筈だった。
――――――――それなのに。
カマールは小さく息を吐き出すと緩く頭を振った。
それから、暫くして。
「おはようございます。ただいま戻りました」
不意に辺りに響いた凛とした声に、カマールは作業の手を止めた。
作業場と住居部分を繋ぐ戸口にそっと顔を覗かせたのは、昨日の昼からここを留守にしていた少年だった。
伝令から『昨晩は別の所に厄介になる』との報せを受けてはいたが、昨日は往来で揉め事に巻き込まれて街の治安維持を司る兵士たちの詰め所【ツェントル】に連れて行かれたと耳にして大騒ぎになったのだ。
その子の身を預かると申し出たのは、自分もそれなりに知る信頼の置ける人物であった為、間違いのないだろうことは分かっていたのだが、実際にその子の顔を見るまでは心配で仕方がなかった。
「ああ。お帰り。大丈夫か?」
思ったより元気そうな顔を見て、カマールは安堵の息を吐いていた。
「はい。御心配をお掛けいたしました」
黒い頭髪が小さく揺れた。
カマールは立ち上がると、その顔を良く見ようと傍に寄った。
その子は、五日ほど前に自分の母親が暮らすスフミ村から寄こされた【伝令】だった。
通常、術師の間で使われる伝令は、大空を飛び立つ鳥だ。長距離を飛ばすならば、大鷲、鷹、隼といった猛禽類。近場であるならば、鳩や鶫といった所が一般的だった。
伝令の役目を負った【生身の人間】を受け入れたのは、カマールも初めてのことだった。
スフミからもたらされたこれまでの伝令にいい加減な生返事を返していたのが、徒になったのか。母親が突拍子もないことをするのは、今に始まったことではなかったが、その【伝令】を見た時は、内心、慄いたものだった。
母親が何を企んでいるのかは分からないが、だからと言って遥々スフミからこのプラミィーシュレまでやってきた【伝令】を邪険にすることは出来なかった。
スフミからこの場所まではかなりの距離がある。大人の男の足で、丸五日は優に掛かるだろう。馬を使えば三日というところか。
訪ねて来たのは、ほっそりとした体つきの小柄な少年だった。癖の無い黒い髪に、同じような黒い瞳を持つ。その色の組み合わせも珍しかったが、カマールの目を引いたのは、その顔付きだった。この国の人間とは明らかに違う異国風の顔立ちだ。そして、落ち着いた空気に控え目で丁寧な物腰。
その少年は、戸口で訪いの返答に現れたカマールに、穏やかな微笑みを浮かべると、その名と訪問の目的を簡潔に告げた。
その少年が名乗った【リョウ】という名は、これまで耳にしたことが無い不思議な響きを持っていた。
「どら、リョウ。顔を良く見せてみな」
明るい日差しの下、晒された白い肌には、心配していた傷の類は付いていなかった。そのことに内心ほっとする。
この少年は、母親からの大事な預かり人だった。
この辺りでは中々手に入れることの難しい薬草の入った袋と共に手渡されたのは、いつになく厚みのある封書で、中を開けてみれば、やけに長い手紙が入っていた。その懐かしい癖のある筆跡が辿る文面には、この封書を持って訪ねて来る人物に対して良くしてやってくれとのことが縷々としたためられていた。
その子は、その顔立ちから想像が付くだろうが、この国のことを良く知らないから、分からないことに直面したら、例えそれが、世間的に見て当たり前の【常識】と言えるようなことでも、莫迦にすることなく、教えてあげて欲しいと書かれていた。
自立心の高い母親からの珍しい頼みごと。それだけでも、遠く離れた場所に暮らし、親孝行らしいことは何一つやってこなかったカマールにとっては、素直に叶えてやろうと思えることであったが、そのことを抜きにしても、実際に目にし、言葉を交わした少年に対しては、何かをしてあげようという気になっていた。
一言で言えば、その少年をカマールは気に入ったのだ。
ここ数日、この家で世話をしていたが、その子は、万事控え目で、良く気の付く子だった。
掃除や買い物、食事の支度といった家の雑事には自分から仕事を買って出る。小さな白い手はそれこそ器用に動いた。仕事の合間には、休憩と称してお茶を淹れてくれる。自分から公言したことはなかったが、誰からか聞いたのか、顔に似合わず甘いモノが好きだという自分の為に、小さな焼き菓子が添えられていることもあった。
出掛ける時には、『行ってらっしゃい。気を付けて』との声が掛かる。用事を終えて家に帰れば、『おかえりなさい』とにこやかな微笑みが出迎える。誰かと暮らすことがこんなにも心温まることであることをカマールはすっかり忘れていた。
忘れていた筈の遠い記憶が重なった。
「昨晩は良く眠れたか?」
目の下には、薄らとだが隈のようなものが出来ている。
だが、頬には艶があった。
心配そうにかざされた無骨な男の手の下で、少年は擽ったそうに笑った。
「はい。大事ありません」
その少年の背後に影が差した。
「これは……旦那も御一緒でしたか」
その後ろには、昨晩、この子を預かってくれたと言う兵士の姿があった。
上背があり、よく鍛えられた鋼のような引き締まった肉体をその濃紺の外套の下に隠している折り紙つきの美丈夫だ。カマールの目から見てもその男には、人を従わせるような威厳があり、その堂々たる姿は人目を惹いた。
この国の軍部の中でもそれなりの地位にあると聞くその兵士は、先代からの常連客だった。
「ご面倒をお掛けしました。ありがとうございます」
最早、カマールの頭の中では、この少年の存在は大切な身内のような扱いだった。
この少年を送り届ける序でに、自分の用事を済ませに来たのであろう。昨日は無駄足を踏ませてしまったことに対しても申し訳がなかった。
丁重に頭を下げたカマールに対する男は実に複雑な顔をしていたのだが、頭を下げていたカマールは、幸いにして、その表情を見ることが出来なかった。
「カマール。今は…大丈夫か」
「へぇ、勿論ですとも」
徐に切り出された用件に、カマールは静かに頷いた。
外を歩く兵士崩れの横柄な輩と違って、決して他人を見下したりせず、寧ろ、相手への細やかな気遣いを見せることの出来るこの男の気概を、カマールは買っていた。
つくづく立派な男だと思う。昨日のけったいな客に見せてやりたい程だった。
「どうぞ、こちらへ」
自分の仕事場へと促したカマールにその兵士は続いた。
カマールは不意に足を止めて振り返った。
「リョウ、朝飯は食ったか?」
「はい」
唐突ともいえる問いに、声を掛けられた相手は可笑しそうに笑みを零した。
「お前も見ていくか?」
その隣の兵士からも同じような声が掛かる。
『構わないか?』という兵士の顔付きに、カマールは内心、首を傾げながらも諾と首を振った。
「別に構いませんが」
だが、それに誘われた方は首を横に振った。
「いいえ。仕事のお邪魔をする訳にはいきませんから。代わりにレントさんの所に行ってきます。様子を見に」
レントというのは、引退をしたカマールの師匠の名だった。鍛冶屋の宿命とも言うべき痣の影響から、体調を崩して半ば寝たきりの状態が続いているのだ。親方の所に出掛けるのは、ここに来てからの少年の日課のようなものになっていた。
「ああ、頼む」
「はい」
穏やかに頷いたカマールにリョウも微笑んだ。
「リョウ、後で俺も顔を出す。向こうで待ってろ。それから昼飯にしよう」
不意に割り込んできた台詞にリョウは目を丸くした後、喉の奥を鳴らした。
「……ルスラン。もうお昼の心配ですか」
その声音にはどこか呆れたような響きが乗っていた。気心の知れた相手に見せるような柔らかで軽やかな空気が、そこには流れていた。
それをカマールは不思議に思ったが、昨日、ツェントルで二人が知り合いであることを聞かされたことを思い出した。
だが、対する兵士は何食わぬ顔で、それに返すことなく、隣に並ぶ鍛冶屋の方を見た。
「カマール、お前もどうだ?」
カマールは突然の誘いにぎょっとした。
「……いや、あっしには、手前ぇの仕事がありますんで」
恐れ多いと丁重に断りを入れれば、それを見ていたリョウが代わりの提案をする。
「それじゃぁ、お昼に軽く摘めるものを見繕って置きますね」
そう言って軽やかに踵を返したほっそりとした背中を、カマールは眩しいものを見るような穏やかな表情で見送ったのだった。
「それでは、始めましょうか」
その一言で空気が引き締まった。
「ああ」
そして、再び、顔を戻したカマールの表情は、頑固で熟練した鍛冶屋である【術師】のそれになっていた。
主人公は女性ですが、カマールはリョウのことを少年だと思っているので、地の文の表記は【少年】となっています。