薬の効きしろ
ツェントルの医務室を後にしてから、リョウは差し出された濃紺の外套に包まれてユルスナールが滞在しているという宿屋の一室に連れて来られていた。
リョウは大きな寝台の中にいた。破れたシャツは脱ぎ捨てて、代わりにユルスナールから手渡されたシャツに袖を通した。
洗いざらしの柔らかな生地にたっぷりとした身ごろ。袖も丈も大分余る。仄かに馴染みある匂いが鼻先を掠めた。もしかしなくとも、それはユルスナールのものだった。
そして、上着に続いて同じようにズボンも脱いで。素肌にシャツを一枚、寝間着代わりにした。
ここに連れて来られる迄の間、塗った薬の作用の所為か、リョウは急激な倦怠感に襲われていた。
肌から浸透した薬の成分が効き始めているのか、身体が火照り出す。血液がドクドクと体内を、音を立てて巡り始める。身体全体の細胞が治癒に向けて活性化されてゆくのが感じ取れた。
時折、襲ってくる眩暈に似た波をぎゅっと目を閉じることでやり過ごす。
だが、次第にくらくらとし始めて、段々と意識を保つのが難しくなってきた。
壁際に手を着いて、力を無くしたリョウをユルスナールはその腕に抱えて歩いた。
途中、【ツェントル】の廊下で運良く軍医のステパンに会い、ユルスナールはリョウの状態を診せた。
ぐったりと目を閉じて荒い呼吸を始めたリョウを見たステパンは、一先ず、安静に寝かせて様子を見るようにとユルスナールに告げた。
薬が思いの外、強く効いているようだった。
薬草の成分自体は、この国に暮らす人間ならば割と馴染みのあるものなのだが、異国風の顔立ちを持つリョウには、もしかすると免疫が無かったのかも知れないとステパンは判断した。
ただ、用いた薬草は毒性のあるものでも、人体に害を及ぼすものでもないので、薬草が一通り身体の中に入って血液を通して全体に行き渡り、有効成分がしっかりとその役目を果たすまでは我慢する他ないだろうと結論を下した。
傍目には苦し気に見えるが、それは裏を返せば、用いた薬が良い方向に効いているということでもあるので心配することは無いだろう。
そう診立てると、ステパンは不安の欠片を眦に滲ませたユルスナールの背を、穏やかな微笑みを湛えながら軽く叩いて見せたのだった。
ユルスナールは、リョウを宿屋に連れて帰ると滞在している部屋の寝台にそっと横たえた。
リョウの意識はまだあった。吐き出される息は次第に熱を帯び、時折、苦しそうに眉が下がる。
服のままという訳にはいかないので、簡単に着替えをさせてから、水差しに入った水を飲ませる。
そして、額際に滲み出る汗をタオルで拭った。
「少し、眠れ」
枕元で長く吐き出された息に、ユルスナールの大きな手が、その額に掛かる髪を後ろへ撫でつけた。
「スミマ…セン……ありが…とう………ございます」
閉じていた目を薄らと開けて、リョウはそれに応えるように小さく微笑んでから、再び眠りへと落ちていった。
その夜、リョウは珍しく夢を見た。
取りとめのない記憶の断片なのか、それとも新しく作り変えられた疑似記憶なのかは分からない。脈絡のなさもそれを見ている本人には関係がないだろう。
―――――りょう。いい加減、偶には顔を出しなさい。仕事が忙しいのは分かるけれど。お父さんも寂しがっているわ。
電話の受話器越しに懐かしい声が響いていた。
顔は見えないけれども、つれない娘に対して呆れた顔をしているだろうことは直ぐに分かった。
―――――そうだね。
―――――年末はどうするの?
―――――今のところは………こっちかな。ギリギリまで仕事があるし。今年はお休みも少ないから。
―――――もう。折角のお休みなのに。また無理してるんじゃないの? ちゃんと休みなさいよ。あんまり身体が強くないんだから。
大きな病気をしたのは専ら子供の頃のころで。
大人になってからは、普通に恙無く生活をしている。風邪をひくのも人並だ。熱を出して寝込んだりすることも滅多にない。
だが、いつまでも昔の記憶を引きずっている母親に対しては、内心、苦笑を洩らすだけに留めた。
それから、握っていた筈の受話器が滲むように消えた。
場面が変わり、リョウは電車に乗り込んでいた。
プラットホームには懐かしい顔が並んでいた。父、母、祖母。友人たち。
馴染み深い良く知る面々であるのにそれらを【懐かしい】と感じていることが不思議で仕方がなかった。
ガラス越しに声を掛けようとした。
だが、声を出そうとして、喉から出る筈の音が失われていることに気が付く。
代わりに手を振る。ここにいることを知らしめるように。
だが、音もなく静かに発車した電車は、ゆっくりとプラットホームを離れて滑りだした。
リョウはもどかしさに、ガラスに拳を押しつけていた。
―――――待って。
見知った姿形は、やがて背中を向ける。
朗らかに談笑をしながら。
車内にいる自分は、認識されていなかった。
―――――ここにいるの。ねぇ。気付いて。
自分とプラットホームを隔てるのは薄い一枚のガラスのみ。手を伸ばせば届きそうな所に彼らは居るのに、誰もこちらには気が付かない。透明な筈のガラスが、突如としてこちらとあちらを隔てる強固な境界線に変わる。
動きだした電車と共に遠ざかる景色。それは、【ここ】と【向こう】で流れる時が違うことを示しているかのようだった。
リョウは、不意に恐ろしいまでの絶望感に捕らわれた。足下が掬われそうだ。
心が軋みを立てて萎んでゆく。
「……ョウ………リョウ」
外から揺さぶられるようにして、眺めていた筈の景色がブレを生じ始める。
リョウは、ゆっくりと目を開いた。
眦に溜まっていた涙が、頬を伝った。
ぼんやりとした薄闇の中、揺らぐ視界に青白い何かが映り込む。小さな発光石の灯りを反射して纏う銀色の何かが。
「リョウ」
不意に意識に飛び込んできた声に、リョウは目を瞬かせた。
そして、やがてぼやけた視点が定まり、視界一杯に映り込んだ鋭利で硬質な線が男の顔を描き出してゆく。その変化を見て、リョウは小さく息を吐いた。
―――――ルスラン。
「大丈夫か?」
ごつごつとした親指が、そっとリョウの眦を拭った。
濡れた感触に、リョウは自分が涙を流していたことを知った。
「大分、うなされていた」
その指摘通り、額際には髪が張り付いていた。汗でびっしょりと濡れている。水気を含んだシャツがやけに冷たく感じられた。
ユルスナールは身体を起こすと、水差しからコップに水を注ぎ、リョウに差し出した。リョウは同じように身体を起こしてそれを受け取ろうとしたが、身体に力が入らなかった。薬の所為か、体力が思いの外、治癒の方に消耗されてしまったようだった。
ユルスナールはリョウの背中を支えて起き上らせると、その手にコップを握らせた。大きな手が震えそうになる指を上から支える。
水を口に含んで、コップの中身を飲み干した。やけに喉が渇いていた。
水を飲み終えると一息ついたのか、リョウは再び、ゆっくりと寝台に沈み込んだ。
大きく息を吐く。
まだ、身体が夢の余韻を引きずっている感じで、ふわふわとして覚束なかった。
「待っていろ」
ユルスナールは、小さく声を掛けると寝台を後にした。
暫くして、戻ってきたその手にはタオルと着替えの為のシャツが収まっていた。
「汗をかいただろ」
温かい濡れたタオルは、冷え始めた身体に気持ちが良かった。
思わず、ほぅと息を吐けば、ユルスナールが小さく笑ったのが、震えた空気から知れた。
ユルスナールの大きな手が、器用に動き、壊れ物を扱うかのような優しい手付きで身体の汗を拭ってゆく。温かな大きな手だ。そうして、汗に濡れたシャツを取り替えた。
リョウは、されるがままに身体を預けていた。
まだ、頭がちゃんと覚醒していなかったが、この男ならば、この身を任せてもよい―――どこかでそんなことを思っている自分がいた。半ば夢現。覚醒途中の気だるさが靄のように思考に纏わりついている。
明かりを落とされた室内もその非日常的な空気を助長していた。
「……ありがとう……ございます」
さらさらと乾いたシャツに包まれて、気持ちの良さにリョウは長い息を吐き出した。
―――――世話を焼かれている。
その自覚はあった。
恥ずかしさと居たたまれなさとむず痒さと温かさとが綯い交ぜになったような複雑な気分だった。
ユルスナールが思いの外、面倒見の良いことを初めて知った。また、こんなことをさせてしまっていることを申し訳なく思った。
ユルスナールは優しい。ただ、行き掛かり上、放って置けなかったのかもしれない。
そして、また、この男の優しさに助けられている。その気持ちは強かった。北の砦での一件も含めれば、感謝してもしきれないだろう程に。
「すみません」
―――――こんなことまでさせてしまって。
再び寝台の隣に横になったユルスナールをリョウはそっと見上げた。
枕元にある小さな明かりに照らされて、その顔の輪郭が顕わになった。
大きな手が頬を撫でる。宥めるような優しい手付きだ。意識とは別の所で、それを心地よいと感じている自分をどうすることもできない。
「気にするな」
鋭利な眼差しが緩み、小さく空気が震えた。
低い囁きは、再び、眠りの縁へと誘うようだ。
「具合はどうだ? 痛みはまだあるか?」
そう訊かれて、リョウはそっと肩の辺りへ手を伸ばした。
包帯と油紙の感触がシャツの下にある。
腫れは引いているようだった。熱もすっかり無くなっている。
恐る恐る肩を動かしてみる。まだ少し痛みはあったが、昼間程ではなかった。
「痛みは随分と良くなりました。気分は…大丈夫です」
「顔がまだ青いぞ」
顔色を指摘されて、
「夢見が悪かったので………」
リョウは苦笑気味に微笑むと、そっと天井を仰ぎ見た。
そう口にしてみたものの、どんな夢を見ていたかは、既に曖昧だった。
夢から現へと引き戻された直前、酷く哀しくて仕方がなかったのは覚えている。身を斬られるような切なさが息づくように体内に燻っていた。
差し込む月明かりに、闇が濃淡を描きながら踊っていた。大きく切りとられた窓に掛かるカーテン越しには、木々の梢が揺れている。それが、天井に束の間の影絵を作り出していた。
「風が………出て来た…ようですね」
口から洩れたのは、実に他愛のない呟きだった。
直ぐ脇で、寝台が、ぎしりと音を立てて揺れた。
それなりに広さのある部屋の真ん中に鎮座する大きな寝台。
だが、この国の人間が二人も並べば、広く見えた筈のその場所も幾分窮屈そうではある。
沈み込む寝台は、少し硬かった。
しかしながら、この場所は宿屋としては良い部類に入るのだろう。間取りも余裕があるし、部屋の内装も華美ではないが、落ち着きのあるものだ。
そんなことをぼんやりと思っていると、リョウの上に影が差した。
視線を辿れば、直ぐ目の前に、ユルスナールの剥き出しの肌が迫っていた。引き締まった身体には、古い傷跡が幾つか走っている。
それに無意識に手を伸ばそうとして。
その時になって初めて、リョウは自分が身を置く状況に思い至ったのだった。
今更ながらではある。
冷たいきらいのある造形が、ゆっくりと近づいて来た。
「…………ルスラン?」
「夢見が悪かったのだろう? 悪い夢を見ないで済むようにしてやろうか?」
ひっそりと囁かれた声音は、どこか愉快そうな響きを持っていた。
「おまじない……か、なにか…ですか?」
少しずつ移動をする他者の筋肉質な重みに、だが、リョウは静かに返していた。
「そうだな。まじない………と言えなくもない」
硬質で怜悧な見た目に反する熱さを含んだ吐息が耳元を擽った。
声音にはからかいのような色が潜んでいた。
相手が何を仄めかしているのかについては、見当が付かなくもなかった。この体勢では、ある意味、あからさまではあるだろう。
だが、まぁ、それすらも冗談の範疇で。相手が、何処まで本気なのかは読み取れない。
「そこまで………面倒を見てもらう訳にはいかないですよ」
これ以上、この男の優しさに甘える訳にはいかないだろう。
態と空気を変えるようにおどけて見せる。
「………面倒?」
言葉尻を捕らえて、ユルスナールが顔を上げた。
「ええ。ルスラン。貴方は………優しすぎる。ここまでしてもらって。これ以上は……………」
――――――申し訳が無い。
それは正直な感想だった。
この時、初めて、リョウはこの男を慕っているであろうこの国の女たちのことを思い浮かべた。
この国の婚姻関係に関する常識はまだ自分の中では部分的で、判然とはしなかったが、ユルスナール程の人物であれば、既に決まった相手が居てもおかしくは無いだろうということに不意に思い至ったのだった。
軍部でも一師団を任される程の立場だ。恐らく、その出自も良い所の出であるのだろうことは想像に難くない。そうだとすれば、許嫁の一人ぐらい居そうなものだった。
今まで、そんなことを考えた事は無かったが、不意に冷や水を浴びせられたように頭の芯が冷静になっていた。
「迷惑か?」
「とんでもない。寧ろ、その逆です」
「……ならば………いいだろう?」
行き場を無くした熱が、闇の中で熾き火のように瑠璃色の瞳に揺らいでいた。
どうして、そんな風にこちらを見ているのだろう。
場違いな程の熱を感じ、リョウは無意識に身を震わせた。
強い眼差しに潜む熱さが、こちらにも伝染してしまいそうだった。
このまま、見つめていては、きっと囚われてしまう。
ここで捕らわれる訳にはいかなかった。
「リョウ」
「ルスラン」
リョウは、その熱を遮断するように目を閉じると、戸惑うように首を横に振った。
「リョウ。分かっているのか?」
静けさの中、耳に注がれるのは落ち着いた囁きだ。
閉じたままの目元を擽るように辿る指先に、リョウはむずがる様にしてから、薄らと目を開けた。
「俺だって男だ。好みの女が直ぐ傍に居て、只で済むとは思えないだろう?」
――――――何故、そんなことを訊くのだろう。
真面目な顔つきで口にされたその言葉に、リョウは不意に可笑しそうに喉の奥を震わせ始めた。
「何がおかしい?」
笑われるとは思ってもみなかったのか、ユルスナールが不服そうに目を眇めた。
「だって………」
圧し掛かるような重みに息が詰まりそうになる。
至近距離には、未だ熱を孕んだ濃紺の煌めきが揺れていた。
「欲求不満なんですか?」
――――――自分相手にそんな気になるなんて。
思い返してみても、この男に関しては分からないことばかりだった。返ってくるのは、いつも斜め上からの答えで。調子を狂わされる。
「お前は無防備過ぎる」
小刻みに震える身体の下、どこか呆れたような溜息が下りて来た。
――――――それは相手が貴方だからだ。
喉まで出掛かった言葉は、音にはならなかった。
大体にして、ユルスナールならば、その手の相手など、よりどりみどりだろう。客観的に見ても、街を歩けば、女たちが放ってはおかないだろうことは明白だ。
この街、プラミィーシュレには、大きな色街があると聞いている。ブコバル辺りが鼻の下を伸ばしそうなものだ。ユルスナールも毎年、ブコバルと共にこの場所を訪れるのならば、馴染みの店くらいありそうなものだった。
頭の隅で、そんな莫迦らしいことを考えている自分が可笑しくなった。
「人肌が恋しくなりましたか?」
その気持ちは、自分にも心当たりはなくもなかった。そういう気分に苛まれる時は、時としてある。
「男を甘く見ると痛い目に遭うぞ?」
故意にだろうか、剣呑さを増した忠告をリョウは笑って流した。
「ワタシ相手に……ですか?」
半ば挑発的に見上げれば、
「そういうことだ」
ユルスナールの口元が弧を描く。
そして、辛うじて残っていた筈の距離がゼロになる。
落ちてきたのは、羽のように軽い口付けだった。
やがて、触れるだけだった口付けが、徐々に深さを増していった。
「……ルス…ラン」
どこか咎めるような囁きに、ユルスナールは、閉じていた目を開けた。
見下ろした先には、苦し気に歪むリョウの顔があった。
暫くしてから、ユルスナールは緩く頭を振った。
どこか自嘲気味に口元が歪む。
「だが、まぁ、病み上がりに無体を働く訳にはいかないな」
そう独りごちるように呟くと、身体を元の位置に戻して、ごろりと横になった。
「眠れ」
そうして、上掛けの位置を直される。
勝手な男の言い草にリョウは、呆れたように、それでもどこかほっとしたように苦笑を返した。
だが、それも束の間のことで。
治癒に回って消耗した体力が続かなかったのか、高波に攫われるように寄せて来た眠気に再び、引き摺り込まれていった。




