密やかな昼下がり
ユルスナールの大きな手が肩を這って行った。油分だろうか、香油に似た、ある種、独特な匂いが辺りに漂い始めていた。
赤く腫れあがっている部分をその周辺から丹念に薬を塗り込んで行く。強過ぎず、弱過ぎず、絶妙な力加減だ。
剣ダコのある固くて長い指は、少しかさついていた。
「どうやら、気を………使わせてしまったみたいですね」
軍医が出ていった戸口の方を一瞥して、リョウは少し苦笑気味に言った。
軍医は左足を引きずっていた。足が悪いだろうことは直ぐに見て取れた。
ここは医務室だ。人の良さそうな温和な気を身に纏った男の仕事場だった。そこを半ば、追い出すような形になってしまったことをリョウは申し訳なく思った。
「気にするな」
手を動かしながら、ユルスナールが微笑んだのが震える空気から伝わってきた。
「あの男の足は、今に始まったことではない。あれで器用に歩く。心配をすれば、却って機嫌を損ねることになる」
その言葉にリョウは同意するように小さく笑った。
確かにそうだ。怪我をしている者は、その現実を既に受け入れているのだ。敢えて、他人が指摘したり、その外見だけで案じたりするのは、却って失礼に値する。その理由を知らない部外者が口に出来ることではなかった。
空気を変えるように息を吸い込んで。
「手慣れていますね」
自分の背中で感じる無駄の無い手の動きに、リョウは前を向いたまま、感心したように口にした。
「そうか?」
「ええ」
「………まぁ、小さな傷は日常茶飯事だからな」
その言葉にリョウは北の砦で垣間見た兵士たちの鍛錬の模様を思い出していた。
一対一の剣を使った立ち会いから一対複数の立ち会い。武器を使わずに素手で相手を伸す為の対処。
若い兵士たちは来るべき実戦に備え、己が肉体を鍛えるのに余念がなかった。
「ルスランも怪我の手当てをするんですか?」
何気なくした質問に、
「どういう意味だ?」
ユルスナールの手が、止まった。
ちらりと後ろを振り返れば、意味が分からないという顔をしていた。
リョウは再び前を向くと、小さく喉を震わせた。
その余韻で剥き出しの背中が微かに震える。
「そのままの意味ですよ。隊長の訓練は厳しいと皆話していましたから」
ユルスナールが訓練で怪我を負うことは余り想像が付かなかったが、何らかの理由で負傷した兵士の面倒を見ることもあるだろう。
自分の肩を這う手慣れた手付きをそう思ったのだが。
「打ち身や打撲は怪我の内に入らない」
淡々と返された言葉に、リョウは改めて、自分が身を置くこの世界のことを思った。
兵士たちは、皆、腰に剣を帯びている。それが抜かれる時は、どんな時なのか。
そこまで考えて、リョウは緩く頭を振った。
そして、別のことを口にしていた。
「あの軍医の先生も言っていましたけど、ちょっと変わった匂いがしますね」
茶色の小さな瓶の中身は、なんとも形容しがたい香りを発していた。
お世辞にも良い匂いだとは言えない。だが、顔を背けたくなる程、嫌な匂いという訳でもなかった。
薬草とそれを馴染ませる油の少し独特な匂い。リョウにとってみれば、馴染みのある香りの類でもあった。
「これは、大分ましな方だな」
職業柄、様々な薬草や薬の匂いを知っているのか、ユルスナールは小さく笑う。
「まぁ、その方が、如何にも効きそうな気がしますが」
薬を塗り込まれた部分が、ひんやりとしてきた。
ユルスナールの掌の上で人肌に温められた薬は、塗った直後は温かかった。それが、じわじわと浸透して、そのまま熱を持つだろうかという予想に反して、冷たくなってきた。まるで冷湿布のようだ。それで火照った患部の熱を奪うのだろう。
リョウは、冷たさに思わず背中を震わせた。
「寒いか?」
「少し。薬を塗った所が冷たくなってきたので」
だが、耐えられないことではなかった。
心配ないと小さく微笑む。
「リョウ」
名前を呼ばれて、そっと肩越しに振り返れば、思いの外、近くにユルスナールの硬質な顔があった。
その距離に驚く間もなく、がっしりとした逞しい腕が身体に回される。そして、背を向けて座っていたはずの身体をくるりと反転させられた。
気が付けば、真正面から抱きこまれるような体勢になっていた。ユルスナールの外套の中にすっぽりと埋もれる形だ。
「……ルスラン?」
突然のことに、リョウは目を白黒させて、ユルスナールの顔をそっと見上げた。
「これなら幾らかましだろう?」
外套の内側で、剥き出しの背中をユルスナールの大きな手が撫で上げた。もう片方の手は、二の腕の部分に出来た痣に薬を塗り込んでいた。
リョウは、不意に襲った擽ったさに小さく身を震わせた。
「ルスラン」
何やら意味ありげに動く指に咎めるような声を上げれば、ユルスナールは小さく口角を上げて、鼻で笑った。
そのどこか尊大な態度もやけに堂に入っていて。
リョウは観念したように息を吐くとぐったりと身体を凭せ掛けた。
そして、ゆっくりと目を閉じる。
ここに至るまでに使った無駄な労力を思い返せば、これ以上の抵抗をする体力は残ってはいなかった。
しっかりと抱きこまれるようにして衣越しに身体が合わさる。しなやかで強靭な肉体を覆うシャツを通して、相手の鼓動が静かな時を刻んでいた。
薬の為か、肌を晒している為か、冷えてきた自分の身体に相手の熱が緩く不規則に伝導する。
相変わらず冷え症で熱伝導の悪い肉体。
鼻先を掠める薬の匂いには、意図せずして別の香りが混ざり始めていた。
覚えのある匂い。顔を埋めた場所から密かに立ち上って来るものだ。
それを懐かしく思ってしまったことを少し可笑しく思った。
「それにしても。なんであんなことになったんだ?」
―――――――大方、ブコバルが悪いんだろうが。
そう言ってユルスナールの指が、無残に破れたシャツの端を摘み上げていた。
取調室での出来事を蒸し返されて、リョウは、外套に包まれたまま、何と答えたものかと天井を仰ぎ見た。
途中、腕をもう少し上げろと言われて、ユルスナールが薬を塗りやすいように調節する。
「ワタシが素直にこの怪我を認めなかったのが悪かったのでしょうけれど……………」
それにしても、ブコバルのからかいは性質が悪過ぎた。
「強引に傷を確かめようとしたので、こちらも躍起になってしまって……」
簡単にあの場の経緯を説明すれば、ユルスナールは緩く息を吐き出した。
付き合いの長い朋輩の事だ。恐らく、ブコバルの行動が手に取るように分かるのだろう。
「……それで、あの騒ぎか」
ユルスナールが取調室の並ぶ廊下に辿りついた時には、廊下の向こうにまで騒がしい声が聞こえていた。
それは、この場所でありがちな男たちの低い声や怒声ではなく、幾分高めの音域で。
聞き覚えのある声もどこか上ずっていた。
嫌な予感に中を覗いて見れば、案の定、石壁に身体を抑えられているリョウとニヤニヤとどこぞの悪漢さながらに凶悪な顔をしているブコバルがいた。
そして、それを遠巻きに眺める二人の兵士たち。
ふとリョウの破れたシャツとそこから覗いた肌が目に入った。
脚に括りつけたベルトから思わず短剣を投げつけていたのは、半ば無意識のことだった。
その時のことを思い出してか、ユルスナールが小さく舌打ちをした。
「あの野郎、避けやがって」
剣呑な囁きにリョウはぎょっとして顔を上げた。
「まぁ、ブコバルも悪気があった訳ではないでしょうから。シャツの替えも戻ればありますし」
ブコバルの場合、本人はちょっとからかう積り程度だったのだろうが、如何せん、やること成すことが一々豪快というか、やや常人の考えることとは違うのだ。シャツを破られたのは業腹だが、シャツだけで済んだと考えれば、納得出来なくもなかった。
リョウはこの街では、リューバの息子である鍛冶屋のカマールのところに厄介になっていた。
荷物の中には、着替え用にシャツをもう一枚入れていた。
「シャツは弁償する」
「いいですよ。そんなに大げさにしなくても」
「いや。それでは気が済まない。アイツには後で飯でも奢らせるか」
「………そんなに食べれませんよ?」
リョウは自分でも食が細い方だと思っている。沢山食べて、会計時に相手を困らせようという計画は自分には到底、出来そうもない。
そのことを告げれば、
「ハハ。代わりに良い酒を頼めばいい」
ユルスナールは可笑しそうに笑った。
薬を塗り終えたユルスナールは、徐に立ち上がると手に付いた油分をタオルで拭ってから、壁際に並ぶ棚の方へ腕を伸ばした。それから、迷わずに引き出しの中から白い布の塊と油紙のようなものを取り出した。
そして、今度は薬を塗った部分に油紙を当てると、器用に包帯を巻き始めた。
「よし。これでいいだろう」
「ありがとうございます」
包帯の上からなんとか形を保持したシャツを着て、再び上着を重ねた。
服の下でも、薬を塗った部分がジンジンと疼いているのが分かった。
今日一日は、軍医の言葉通り大人しくしていた方が良さそうだ。
「ルスランにはご迷惑を掛けてばかりですね」
―――――どうお返しすれば良いやら。
そう口にすれば、
「気にするな」
ユルスナールの大きな手が、ほつれた髪を梳いた。
リョウは、無造作に束ねていた髪紐を解いた。
今まで、気に留める余裕がなかったが、ガラス越しに反射して見えた己が頭部は、随分とぼさぼさになっていた。乱れた髪を誤魔化すように手で梳けば、黒い髪がさらさらと揺れた。再び、手早く束ねて、口に挟んでいた紐で結い直す。
ユルスナールは壁際に寄りかかって、その様子を静かに眺めていた。
「………だが、まぁ、……そうだな」
少し考える風に手を顎に当てると、意味あり気に微笑んだ。
そして、壁から身体を離すと、リョウの傍に歩み寄った。
「ならば、褒美をもらえるか」
「褒美……ですか?」
その意味を測りかねて、リョウは暫し、目を瞬かせた。
「ああ」
伸びて来た手が頬に掛かる後れ毛を耳の脇に掛けた。
香油のお陰か、かさつきの無くなった指が頬に触れた。
しっとりとした温かな感触。そのまま、頬をなぞった指に顎を掬われると親指で下唇をなぞられた。
仄めかされた符牒。分からない振りをすることは出来なかった。
「コレが、褒美になるんですか?」
ゆっくりと近付いて来た硬質な男の面にリョウは小さく囁いた。
「ああ」
反射する日の光が瑠璃色の光彩に踊っていた。その瞳が、何やら愉快そうに細められていた。
深い青を秘めた色に、見慣れた自分の顔が映り込む。
吸い込まれそうだとリョウは思った。
「あなた位ですよ」
――――――そんなことを口にするのは。
「それは光栄だな」
苦し紛れに吐き出される筈の小さな囁きは、だが、音を紡ぐことなく、下りて来たもう一つの囁きに飲み込まれた。
暫し、秘めやかな静けさに満ちた室内で、窓から差し込む傾きかけた日差しに、床に長く伸びた二つの影が、重なって見えた。