Chapter Sixteen Le Premier Nom
眠れないまま、私は昔のことを考えていた。
あの人が初めて私の事を『シェリー』と呼んだのは、社交界デビューから間もない頃のことだった。
✦ ✦ ✦
当時の私は十六歳で、ベネディクトは十九歳だった。
政略婚約の相手として名前は知っていた。
ローゼンベルク家の嫡男。
穏やかで理知的と評判の青年。
特別親しい関係ではなかったし、親しくなろうとも思っていなかった。
婚約は家の決めたことであり、私にとってはそれ以上でも以下でもなかった。
社交界デビューの夜会で、私たちは同じ場に出た。
初めて正式に顔を合わせた場でもあった。
私はいつも通り、微笑んで、人を読んで、場を掌握しようとしていた。
十六歳にしては随分と落ち着いていると、周囲の大人たちが囁いていた。
それを聞いて、私は内心で少しだけ満足していた。
ベネディクトは広間の端にいた。
数人の貴族と話していて、こちらに気づいた様子はなかった。
私も特に近づこうとはしなかった。
夜会の終わり際、偶然に廊下で鉢合わせた。
「ミシェルローズ嬢」
礼儀正しい、距離のある声だった。
「今夜はよろしくお見知りおきを」
「こちらこそ。どうぞよろしくお願いします、ベネディクト様」
それだけで終わるはずだった。
ところが彼は少し間を置いてから、また口を開いた。
「シェリー、と呼んでいいですか」
私は一瞬、止まった。
シェリー。
ミシェルローズを縮めた呼び方だ。
家族でも、親しい友人でもない人間から初対面に近い場でそう呼ばれたことは、それまで一度もなかった。
「……なぜそのように」
「ミシェルローズというのは長い名前ですから。それにシェリーの方が似合う気がして」
「似合う…?」
その言葉が、妙に引っかかった。
似合うという評価を、この人はどこから持ってきたのか。
初対面に近い相手に対して、なぜそんなことを言えるのか。
私は訂正しようとした。
名前を勝手に変えられる理由はない。
婚約者とはいえ、まだほとんど話したこともない相手だ。
きちんとミシェルローズと呼ぶよう言うべきだった…でも。
「……お好きなように」
気づいたら、そう言っていた。
ベネディクトは穏やかで、柔らかな笑みだった。
「ありがとう、シェリー」
その瞬間、何かがおかしかった。
名前を呼ばれただけなのに何かが少しだけ動いた気がした。
動いた、というのが何なのか十六歳の私には分からなかった。
ただ訂正しなかったことを後悔していなかった。
それだけは、はっきりと分かった。
✦ ✦ ✦
記憶が現在へ戻ってきた。
窓の外の月は、変わらずそこにある。
あの夜から三年が経った。
彼は今も「シェリー」と呼び、私は「ベネディクト」と呼ぶようになった。
私は今も訂正しない。
それだけのことが、三年間続いている。
あの夜の私は、これほど長く続くとは思っていなかった。
訂正しなかったのは気まぐれだと思っていた。
でも今思えば、気まぐれではなかったのかもしれない。
似合う気がして。
あの人は初対面で、そう言った。
今でもそう思っているのだろうか。
それとも、もうそんなことは忘れているのだろうか。
聞いてみたいと思った。
聞いてみたい、と自然に思えた自分に気づいて私は少しだけ笑った。
暗い部屋の中で誰も見ていないところで、ひとりで。
それが何なのか、もう分かっていた。
今夜は、もう少しで言葉にできそうな気がした。




