Chapter Fifteen La Dernière Blessure
ダリウス侯爵は、追い詰められた獣のように動いた。
王太子殿下への密約の存在がロンドー侯爵家を通じて広まり、ウィズリー男爵の証言によってバーネット家の真相も社交界に知れ渡った。
侯爵が長年維持してきた「どちらの派閥にも顔が利く」という立場が、音を立てて崩れ始めていた。
そして追い詰められた人間は、最後に最も卑劣な手を使う。
噂が流れ始めたのは、その翌日のことだった。
内容はこうだ。
ミシェルローズ・ヴァレンタインが、婚約者であるローゼンベルク家の嫡男以外の男と秘密裏に会っている。
それも複数回。
レオンが血相を変えて報告に来た時、私はすでに知っていた。
マルグリットから先に聞いていたから。
「どう、なさるおつもりですか」
震えながらレオンが言うので安心させるように私は冷静に返答した
「放っておくわ」
「しかし、それでは」
「噂は否定するほど広まる。放っておけば、やがて次の噂に塗り替えられる。それがこの社交界よ」
事実ではないと分かっているから。
そして事実ではないことは、時間が証明する。
ダリウス侯爵の最後の抵抗としては、些か力不足だと思った。
これで終わりかしら。
そう思っていた。
翌朝、ベネディクトからの文が届くまでは。
✦ ✦ ✦
文の内容は短かった。
侯爵が次に動いた事と、今度はローゼンベルク家が標的になった事。
十年前、父上が関わったある外交交渉の内容を、歪めた形で流そうとしている。
私は二度、三度文を読み直した
ヴィルヘルム・ローゼンベルク公爵が関わった外交交渉。
十年前といえば、ベネディクトがまだ十二歳の頃だ。
父親の話が歪められ、それがローゼンベルク家にとってどれほどの傷になるか。
この家の人間にとって静かな威厳こそが全てだ。
それを汚されることは、剣で傷つけられることより深く刺さるかもしれない。
私は文を置いて、それからすぐに立ち上がった。
「マルグリット」
「はい」
「十年前のローゼンベルク家の外交交渉について、ヴァレンタイン家の記録に何か残っていないか調べてちょうだい。お父様に許可を取って」
マルグリットは一瞬だけ、私の顔を見た。
いつもと少し違う何かを、読み取ったのかもしれない。
「すぐに」
それだけ言って、部屋を出た。
私は返事の文を書いた。
こちらで動きます。
ローゼンベルク家の記録を調べさせます。
侯爵が何を使おうとしているか、先に把握できれば手が打てます。
任せてください。
書き終えてから、最後の一文を見た。
「任せてください…か。私らしくないかもしれない」
こんな言葉を、私はいつ誰かに向けて書いたことがあっただろう。
誰かを守ろうとして動いたことが、これまであっただろうか。
私はいつも利用する側だった。
動かす側だった。
それが今、守りたいという気持ちで筆を走らせている。
おかしい。
おかしい、と思いながら、文を封じた。
おかしくても、やめる気にはなれなかった。
✦ ✦ ✦
ヴァレンタイン家の記録は、思った以上に詳細だった。
十年前の外交交渉は隣国との通商条約の改定交渉だった。
ヴィルヘルム公爵が仲介役を務め、双方が納得する形で妥結した案件だ。
記録を見る限り、何ら問題のない交渉だった。
ただ、仲介の過程でヴィルヘルム公爵が一方の国に対して強硬な態度を取った場面があった。
それを切り取れば、「ローゼンベルク家が外交で圧力をかけた」という話に見せることができる。
なるほど、と思った。
やはりダリウス侯爵は上手い。
ただ記録の全体を読めば、その強硬な態度が最終的な妥結に必要なものだったことは明らかだ。
文脈を持たせれば、侯爵の話は崩せる。
私はその夜、ベネディクトに全ての資料を送った。
添えた文は短かった。
これで侯爵の話は封じられます。
あとはローゼンベルク家のご判断で。
返事は深夜に来た。
ありがとうシェリー。助かった。
その文を読んで、私はしばらく動かなかった。
助かった、という言葉が、思いがけず胸に刺さった。
刺さった、というのは悪い意味ではない。
ただこの人がそう書くのが珍しくて、その珍しさが温かかった。
ダリウス侯爵の最後の足掻きは、こうして二つとも封じられた。
その後、侯爵は社交界から静かに姿を消した。
誰も近づかなくなり声をかける者がいなくなった。
それがこの世界での失脚の形だ。
そして、傷跡は残った。
ミシェルローズへの噂は、しばらく消えることはなかったし、ローゼンベルク家の外交交渉の話も一部では語られ続けた。
全てを綺麗に消すことはできない。
それがこの社交界というものだ。
でも、終わった。
その夜、父に呼ばれ執務室に入ると父は珍しく椅子に座っていた。
「よくやった」
この人の口からそれが出ることが、どれほど珍しいことか私にはよく分かっていた。
「ありがとうございます」
「ローゼンベルクとうまくやれているようだな」
「はい」
「婚約を大切にしろ。家同士の契約だけではない。お前にとっても、意味のあるものになるはずだ」
「わかりました」
話が終わり廊下に出ると、母がいた。
「お母様…」
少し後ろに、いつもの侍女が控えていた。
「ミシェルローズ」
「なんですか?」
「今、とても良いお顔をしていますよ」
母は静かに微笑んだ。
自分では分からない。
でも母がそう言うなら、そうなのかもしれない。
その夜、眠る前に窓の外を眺めながら私は一つのことを考えていた。
守りたい、と思って動いた。
それが計算ではなく感情だったと、今は分かる。
あの人のために動くことが、少しも苦ではなかった。
むしろ自然だった。
それが何なのか、もう私には分かっていた。
ただ、まだ言葉にする準備ができていなかった。




