Chapter Nine La Princesse et la Jalousie
アリアーヌ王女が社交界に現れたのは、その週の夜会のことだった。
王族が夜会に出席するのは珍しいことではないが、今夜の彼女には少し様子が違った。
いつもなら取り巻きに囲まれて広間の中心に座っている王女が、今夜は人の流れの中をゆっくりと動いていた。
誰かを探しているような、あるいは誰かに見つけてほしいような、そういう歩き方だった。
私はグラスを傾けながら、その動きを追った。
アリアーヌ王女。十六歳。
かつてベネディクトとの縁談が一時浮上した、という話は聞いていた。
立ち消えになった経緯は知らない。
ただ彼女がそれを忘れていないことは、今夜の様子を見れば分かった。
王女の視線が、広間の奥で止まった。
視線の先にはベネディクトがいて、数人の貴族と話している。
いつもと変わらない、穏やかな顔をして。
その場の全員が彼の言葉に耳を傾けながら、誰も彼の本心には触れられていない、あの空気の中で。
王女はしばらくその場を眺めていた。
それから、ゆっくりとベネディクトの方へ歩き始めた。
「…お目当てはベネディクトかしら」
私はそのまま観察を続けた。
王女がベネディクトに近づくと、ベネディクトが気づいて礼をする。
王女が嬉しそうな笑みを浮かべ、ベネディクトもそれに応えるように微笑んでいた。
誰に向けても同じ温度の底の見えない笑み
王女はそれに気づいていないようだった。
あの笑みに、何か特別なものを読み取っているのかもしれない。
それは少し、気の毒だと思った。
気の毒。そう、気の毒だ。
それ以上でも以下でもない。
「随分と熱心に見ていらっしゃいますわね」
声がして、隣を見るとクロエ・フォンテーヌが、いつの間にか並んでいた。
没落貴族の娘で、私の側にいることを自ら選んだ娘だ。
利用されていると知りながら離れない点ではレオンと似ているが、彼女の場合は少し質が違う。
もっと純粋に、ただ私の側にいたいだけなのだと思う。
「観察しているだけよ」
「王女殿下を? それともベネディクト様を?」
彼女は澄ました顔をして時々、こういうことを言う。
踏み込みすぎていると思いながら、なぜか咎める気にならない。
「どちらも。この場の全員を見ているわ。それが私の習慣だもの」
「そうですわね」
✦ ✦ ✦
夜会の終わり際、人垣が少し薄くなった頃、ベネディクトが私のそばに来た。
「シェリー。今夜は随分と壁際にいたね」
「広間が混んでいましたから」
「そう。アリアーヌ王女をよく見ていたね」
「王女は、あなたの方を見ていらしたのよ。私ではなく」
ベネディクトは何も言わなかった。
それが肯定なのか、否定なのか、分からなかった。
この人はこういう時、いつも黙り全てを曖昧にしておく。
「縁談の話は、なぜ立ち消えになったの」
気づいたら、口にしていた。
ベネディクトがこちらを見て目が合う。
今夜初めて、真正面から私を見た気がした。
「君がいるから」
その言葉に返す言葉が見つからなかった。
あまりにも簡単に、あまりにも静かに言うから。
怒る気にも、笑う気にもなれなかった。
ただその言葉が、体のどこかに落ちて、静かに沈んでいく感覚だけがあった。
「……そう。それだけ?」
「それだけだよ」
またその言葉だ、と思った。
それだけのことだよ、といつも言う。
全部を簡単な言葉に収めてしまう。
その言葉の軽さの奥に、どれほどのものが隠れているのか。
私にはまだ、読めなかった。
読めないのに、今夜だけは読もうとしている自分がいた。




