父のゆりかご
一度は消滅したガベリアが再生してから半年。安全が確保されたとして立ち入りが許可されたのは、リスカスの南部で初夏の香りが漂い始める5月のことだった。
ガベリア出身の人々、あるいは家族や友人をガベリアの悪夢で失った人々は、獄所台による規制が解かれるその日を複雑な思いで待ちわびていた。
ガベリアの内部は悪夢が起きた当時のまま、ということが既に国民に周知されている。故郷に戻れるとはいえ、大切な人が消えたあの日の光景を、自分は見たいのか見たくないのか……。誰もがそんな葛藤を抱えていた。
ガベリア出身の第一隊副隊長ルース・ヘルマーもその内の一人だった。故郷を本当の意味で再生させるために魔導師として力を尽くしたい――彼はそう意気込んでいたが、個人としてはまだ完全にあの日を乗り越えたとは言えない。甦ったガベリアの光景、特に自宅を見てしまったら、取り乱して泣いてしまうような気がしていた。
無論、任務中でもない限りそれが問題になることなどないだろう。ただ副隊長として部下を率いるためには、何事にも動じない心が必要だとルースは思っていた。彼は自分に厳しいのだ。
「……副隊長、少しいいですか」
夕刻、西陽が差す本部の廊下から外を眺めていたルースに、部下のエーゼル・パシモンが遠慮がちに声を掛けた。
「うん。何かあった?」
ルースは頭の中を占めていた葛藤を振り払い、頼りがいのある副隊長の顔をして答える。
「ありがとうございます。相談があって」
エーゼルはほっとした表情で話し始める。
「兄の……、獄所台にいるアーレン・デミアのことなんですが」
彼の腹違いの兄は元魔導師で、計10名という多数の殺人を犯して収監されている。その動機に同情の余地はあるが、罪は罪として裁かれ終身刑となっていた。
アーレンはエーゼルが魔導師を目指したきっかけの人物でもあり、例え罪を犯したとしても切り捨てることは出来ない大切な家族だった。どこからか漏れた情報で、弟であるエーゼルに誹謗中傷の手紙が届いたとしても。
アーレンの被害者遺族からも当然、恨まれていた。先に殺めた6名は自警団の魔導師だったこともあり、エーゼルから魔導師の資格を剥奪しろと本部に怒鳴り込む者までいた。
それでもエーゼルは逃げなかった。注目の的となっていたその場で、遺族に深く謝罪したのだ。兄の罪は一緒に背負っていく、その上で、新たな犯罪の被害者を生まないために魔導師を続けさせてほしいと。
遺族が黙り込んだ所に第二隊長のエスカが現れ、彼らを連れて行った。そこで何を話したのかは不明だが、それ以降、エーゼルに対する誹謗中傷はぴたりと止んだのだった。
「面会申請を何度しても、本人の意思で拒否されるんです。なぜそこまで拒否するのか、俺には分からなくて……。手紙を出しても返事はありませんし。どうすれば会ってもらえるでしょうか?」
エーゼルはやや困り顔でルースに尋ねた。
「お前を大切に思っているからじゃないかな。罪を犯した自分はもう、関わってはいけないと考えているのかもしれない。苦しめたくないんだよ」
ルースはあくまでアーレンの心を想像するしかないが、それが真実だという気がしていた。
「そんな優しさはいらないのに……。俺は兄のせいで苦しめられたなんて、微塵も思っていません」
エーゼルは不満顔でそう話す。
「だろうね。この間、遺族が本部に来たときのことについては報告を受けている。……その場にカイがいなくて良かったよ」
ルースが苦笑し、エーゼルもふと笑いをこぼす。
「あいつの短気はたぶん、まだ直っていませんからね」
「間違いなく遺族に食って掛かっていたと思う。支部でも相変わらず生意気にやっているそうだ」
今年度からスタミシア支部に異動したカイの話になり、二人の頬は自然と弛んだ。隊が変わっても可愛い部下であることに変わりはないらしい。
それからルースはふと真顔に戻り、こう言った。
「話を戻すが、面会は彼の気が変わらないと難しいだろう。……でも、一つ思い付いた」
「なんですか?」
エーゼルが期待を込めた視線を彼に送る。
「家族以外にも面会が許される人間がいるだろう。自警団の各隊長だ。ブライアン隊長からの面会申請なら、もしかすると会ってくれるかもしれない。少なくともお兄さんの様子を知ることは出来るんじゃないか?」
現第四隊長のブライアンは、アーレンの同期で友人だ。逃亡していたアーレンを確保したのも彼だった。
「それは名案かもしれません! 頼んでみます。副隊長、ありがとうございます!」
エーゼルは顔を輝かせ、ぴしっと敬礼をして走り去っていった。
部下の役に立てたことで、ガベリアの件で沈んでいたルースの心も少しは上向きになった。だがもう一押し欲しいところだ。
ルースは医務室へ向かった。ベッドに患者はおらず、部屋の中は静けさに包まれている。既に夜勤帯の担当と交代したのか、医務官は一人だけだ。長い赤毛を後ろで束ねた彼女は、真剣な顔で奥にある机に向かい書類を眺めている。ルースの姿には気付いていないようだった。
医務官はペンを取り、書類にサインをする。『ミネ・フロイス』と。それから何かに気付いたらしく、小さく「あっ」と声を上げる。
「ミネ・ヘルマーだろ?」
ルースが背後から声を掛けると、ミネはびくりと肩をすくめて振り向いた。
「もう……。驚かせないでよ」
そう言って少しむくれた顔になる。ルースはくすりと笑い、彼女のサインを指差した。
「そろそろ慣れてほしいんだけどな。僕の姓を名乗るの」
二人は3ヶ月前に結婚したばかりだが、これといって生活が変わったわけではない。今まで通り隊舎のそれぞれの部屋に住んでいるし、仕事の忙しさも緩むところを知らない。ルースはいずれガベリア支部の隊長を任される予定なので、なおさらだ。
ミネは微かに頬を染め、ルースから目を逸らした。
「長年の癖だよ、癖」
そう言いながら、サインの姓を二重線で消して『ヘルマー』と書き直した。
ルースはそれに何とも言えない幸せを感じた。10年近く片想いをしていた彼女が、今は家族になっている。そして自分と共にガベリア支部へ異動すると言ってくれている。これ以上を望むのは罰当たりというものだ。
ルースは側の椅子に腰掛け、じっとミネを見た。考えていたのは、ガベリアの立ち入り規制が解除される日のことだった。
「……どうしたの?」
急に黙り込んだルースに、ミネが心配そうな顔を向ける。
「1週間後のこと。ガベリアへ入ることを考えると、何だか落ち着かなくて」
ルースは素直にそう話した。
「そう……。うん、そうだよね」
ミネは同意するように、優しく頷いた。彼の家族、そして自分たちの親友が消えた地。故郷への懐かしさよりも悪夢の傷の方が深いことは、彼女にも分かっていた。
「やっぱり私も一緒に行くよ。あなたに支えて貰った恩を忘れてはいないもの。今度は私が、側にいてあなたを支えたい」
ミネは真っ直ぐにルースを見つめた。ルースは彼女を抱きしめたい衝動に駆られながら、それをぐっと堪えて微笑んだ。
「困るな。出来れば君に、情けない姿は見せたくないんだけど」
「今さら格好つけなくたって。大丈夫、涙で顔が別人みたいに腫れても、私が治してあげるから」
ミネはそう言って笑うのだった。
そしてその日は訪れた。よく晴れた空の下で、私服姿のルースとミネは、同じくガベリアへ入った大勢の市民に紛れて街の中心地を歩いている。安全のために獄所台の魔導師たちがそこかしこを巡回していて、普段決して目にすることのない黒い制服に、市民たちはやや緊張しているようだった。
街は悪夢が起きた日のまま、少しも朽ちることなく存在していた。街を縫うように伸びる石畳の小路、店の軒先に掛かるお洒落な看板、広場の大きな噴水……。営みの中から人だけが消えた空間に、今、ようやく人が戻ってきたのだ。
「ここ……」
ミネが足を止めたのは、広場の噴水を少し過ぎたところだった。彼女は思わず空を見上げる。悪夢が起きたあの瞬間、彼女はここに立っていた。空に現れた黒い点が、水に落としたインクのようにじわりと広がって――。
「ミネ」
青ざめている彼女の手を、ルースが優しく握った。
「無理をしないで。辛いなら引き返そう」
「そんな……、大丈夫だよ」
ミネは慌てて言った。ルースを支えるために着いてきたのに、これでは本末転倒だ。
「少し思い出しただけ。あの日、この場所でクラウスが守ってくれたんだって」
そう言いながら微かに目を潤ませる。クラウスは二人の親友であり、ミネの想い人だった。悪夢が起きた瞬間彼がどこにいたのかは分からないが、ミネの姿を見ていたことに間違いはない。それを思うと、彼女は胸が締め付けられるのだった。
「どこにいたのかな……」
そう呟いてゆっくりと辺りを見回す。もちろん何の手掛かりもなく、故郷に思いを馳せる人々が行き交うだけだった。
ミネの手を握るルースの手に、力がこもった。
「クラウスだったらこう言うよ。恥ずかしいから探さないでくれって」
茶化したつもりはない。ルースは本当にそう思っていたし、ミネも言われてみればそんな気がした。クラウスは昔から、自分の功績をひけらかすのを好まない人だった。自分の命と引き換えにミネを救ったということも、美談にしてほしいとは思っていないはずだ。
「ミネが幸せならそれでいい。……なんて格好つけたことも言いそうだけどな」
ルースは笑い、ミネはこう答える。
「そうだね。確かに言われたよ、夢の中で」
二人は顔を見合わせて笑った。大切な友人は今も心の中で生きている。改めてそれが分かると、あの悪夢の日から一歩、前に進めたような気がした。
ルースの実家はガベリアの東10区にある。中心地からは離れた田舎の方だ。二人は運び屋を使い、そこへ辿り着いた。
広大な畑と山に挟まれた場所に、200人ほどが暮らしていた街がある。路地は石畳で綺麗に舗装され、そこに家や店が整然と並んでいた。ルースは以前に田舎出身だと話していたが、ミネが想像した田園風景の田舎とは、少し雰囲気が違うようだ。
二人の他にここを訪れる市民はいなかったらしい。そもそもが地元を離れる人間の少ない場所で、ルースのように都会に出る者は滅多にいなかった。だから、ほとんどの住民が悪夢で消えてしまったのかもしれない。
「綺麗な街だね。小さい都市みたい……」
ミネがそう言ってルースを見ると、彼はその顔に緊張の色を浮かべていた。人気が無くどこまでも静かなこの場所に、無言で歩を進める彼は何を思っているのだろう。ミネは掛ける言葉が見付からず、ただルースの手を握った。
家の玄関口に落ちている鞄、道端に転がる畑仕事の道具、公園のベンチに横たわる人形……。あの瞬間、そこに間違いなく人がいて、生活を営んでいたことが分かる。ミネもルースも、言葉にならない思いでそれを見つめる。
ガベリアが甦って半年、そこからの時間の経過で劣化しているものもあるが、獄所台が今日のために出来るだけそのまま保存しようと努力した形跡も窺えた。
「……初等学校は隣の区にあったんだ。毎日この坂を下って、学校へ通っていた」
緩やかな登り坂に差し掛かったとき、ルースがふと口を開いた。顔にはまだ緊張があるが、先ほどよりは解れてきたらしい。
「登下校だけで2時間は掛かっていたけど、おかげで忍耐力と体力は付いたな」
そう言って、ルースは前を見たまま少し笑った。
「家は、この先に……?」
今度はミネが緊張してくる。ルースの家に行くのはもちろん初めてだ。決して穢してはならない彼の思い出の中に踏み込むようで、俄に動悸を感じる。
「うん。あの看板を右に曲がって、少し行った所だよ。……大丈夫、緊張しないで。僕だって初っ端から取り乱したりしないよ」
ルースは穏やかに微笑んでみせた。家が近づくにつれ、父との確執が生まれる前の温かい思い出も甦ってきたのだ。
「ミネにも見せてあげたいんだ。僕がどんな家で育ったのか」
「……うん。分かった」
ミネもほっとしたように微笑む。そして二人は、ルースの家の前に立った。
周囲の家々と同じく、薄茶色のレンガ積みの壁で出来た一軒家だった。他の家と違うのは、木製の玄関ドアに『ヘルマー家具工房』のプレートが掛かっていることだ。
ルースの父デオ・ヘルマーは代々続く家具職人だった、とミネは聞いていた。
「お家が工房だったんだね」
「うん。部屋の一つが作業場になっていた。……入ろうか」
ルースがやや緊張の面持ちでドアノブに手を掛ける。鍵は開いていた。悪夢の瞬間、家には誰かがいたということだ。
ドアは軽く軋んで開く。「ただいま」とルースは呟き、中へ足を踏み入れた。
少し埃っぽい空気の中に、生活感のある部屋の光景が広がっていた。玄関を入ってすぐに居間があり、食卓を兼ねたテーブルには花瓶が置いてある。すっかり枯れて水分の抜け切った花が、そこに項垂れていた。
ルースは無言で奥へと進んでいき、壁際の棚の上にあった写真立てを手に取る。彼は写真をしばらく見つめてから、懐かしげに微笑んでミネにそれを差し出した。
「これが僕の両親だよ。母のチェリーと、父のデオ」
写真には赤子を抱いて椅子に座るチェリーと、その肩に手を置いて立つデオの姿があった。ルースが生まれた際に撮った白黒の家族写真だ。
その当時写真は高級品の類で、その写真もこれ一枚しかない。ガベリアへ帰ってきて、ようやく見ることが出来た両親の姿だった。もちろん、ミネもここで初めて彼の両親の顔を知った。
「ありがとう。ルースの顔って、お母さんにそっくりなんだね。お父さんは……すごく寡黙な人?」
「職人気質っていうのかな。無愛想で口数は少なかったけど、母と同じく僕を愛してくれていた。このテーブルも椅子も、家の家具は全部父が作ったものなんだ」
ルースに言われて、ミネは改めてテーブルや椅子に触れてみる。曲線は滑らかで木肌は手に馴染み、作り手の熱意を感じるようだ。
「すごいなぁ……。素敵だね。魔術では絶対に作り出せないものだよ」
「そうだね。僕も、とても尊敬していた。きっと後を継いでほしかっただろうけど、僕は不器用だからさ。とてもじゃないけど刃物は握れない」
ルースは苦笑した。
「ナイフで枝削るの、すごく下手くそだったもんね。何回も指切ってたし」
ミネも学生時代を思い出して笑う。野営訓練の際、テントを地面に固定するための杭を作ったときのことだ。少しでも魔術を使おうとすると、学生の分際で楽をするなと教官に怒鳴り散らされていた。
「今も大して変わらないけど。……他の場所も見てみよう」
そう言って、ルースは引き寄せられるように台所へ入った。台の上にはティーポットとカップが2つ、盆に載った状態で置かれている。ルースの記憶にある、チェリーのお気に入りのティーセットだ。そして床にはヤカンが転がり、その周囲には染みが出来ていた。お湯が溢れてそのままになっていたのだろう。
これが何を意味するのか、ルースにもミネにも分かっていた。チェリーは悪夢の瞬間、ここにいたのだ。
「お母さん……」
ルースの口から言葉が漏れた。彼は震える手でティーポットに触れ、静かに涙を流す。何一つ残すことなく消えてしまった大切な人は、ここに間違いなく存在していた。その事実に、悲しみと安堵が同時に押し寄せていた。
「きっと、いつも通りの日だったんだ」
ミネに肩を抱かれながら、ルースは掠れた声を出した。
「作業場で家具を作る父に、母がお茶を持っていって、二人で休憩する。いつもそうだった。……ごめん、ミネ。やっぱり泣かないのは無理だ」
「それでいいよ。あなたの大切な思い出だもの」
ミネはそう言って、ルースが落ち着くまで背を撫でていた。こんなふうに弱い部分は、副隊長としては絶対に見せられないのだろうと思いながら。
しばらくして二人はデオの作業場に入った。主を失くして長い時間が立つ部屋だが、そこにはまだ木の良い香りが漂っている。壁際には完成した椅子や棚がいくつか並び、台の上には設計図と、削っている途中の木片があった。
「父はこの丸椅子に座って、黙々と作業していたんだと思う」
ルースはその光景を思い浮かべながら言った。幼い頃、チェリーに「邪魔しちゃ駄目よ」と言われて部屋の隅からじっと眺めていた父の大きな背中。言葉なしに全てを語るあの背中には、恐らく一生敵わないなとルースは思う。
彼はふと、部屋の奥に布が掛けられた家具があることに気付いた。そこそこ大きい箱形で、布はその辺の適当なものではなく、青地に白い花模様の入った美しいものだった。大切な注文品だろうか。
二人は側へ寄り、そっと布を外してみる。現れたのは、年季が入った木製のゆりかごだった。焦茶色の滑らかな木で、意匠の凝った支柱から側面の柵一本一本に至るまで、その丁寧な造りが窺える。
「もしかしてこれ、ルースが赤ちゃんのときの……?」
ミネがはっとして言った。それなら年季が入っていることも、大切に保管してあることにも説明が付く。
「僕は覚えていないけど、たぶん」
ルースが少し驚きながらそのゆりかごに触れると、それは静かに、母親が我が子を抱いてあやすように優しく揺れた。ふと、底板の隅に文字が刻まれているのが見えた。
ルースは顔を寄せてみる。製作者であるデオの名前かと思ったが、そこには小さな文字で、こう綴られていた。
『かけがえのない私たちの息子へ。愛を込めて』
父が刻んだものに間違いない。ルースは温かい涙がじわりと溢れるのを感じた。ここにあるのは、悲しみを超えるほどの父の愛だ。魔導師になることを反対されて反抗心から口を利かなかったときも、距離を置いて家に寄り付かなかったときも、それはきっと変わらなかったに違いない。
「……ありがとう、お父さん」
ルースは微笑みながら呟いた。その愛に背中を押され、後悔に染まった過去からようやく抜け出せたような気がした。
ガベリア支部が復活したのは、立ち入り規制が解除されて更に3ヶ月経ってからのことだった。新たに街の中心部に居を構え、自警団の魔導師たちが激務で神経を擦り減らしながら、ようやく体制が整ったのだ。
ルースは第九隊の隊長として、ミネはガベリア支部の医務官として着任した。市民が元通り住めるようにするための任務は多忙を極めたが、魔導師たちの努力の甲斐あって、季節が冬を迎える頃にはガベリアも一つの都市として機能し始めていた。
11月14日、ガベリアが復活した記念日であるその日も、ルースは任務に明け暮れていた。街はお祝いの空気で満たされ、そこかしこでパーティーが開かれたりもしているが、まだ国として祝う段階ではなかった。
その日の早朝、ルースは花束を手に元々支部があった丘の上に来ていた。今は透明で巨大なオルデンの樹が、柵に囲まれてそこに鎮座している。周囲が清廉な空気に包まれる中で、太い幹は朝陽に照らされて美しく輝き、枝葉は風に揺れてカラカラと心地良い音を立てていた。
ここは巫女であるセルマと、仲間のオーサン・メイの死地でもある。ルースは柵の扉を魔術で開錠し、そっと中へ入った。そして幹の根元に花束を置き、静かに目を閉じる。
セルマの顔もオーサンの顔も、まだ鮮明に思い出すことが出来た。この先それが薄れることはあっても、彼らの存在を忘れることは一生ないだろう。ガベリアを甦らせるための尊い犠牲であり、大切な仲間だ。
カイにも声は掛けてあったが、彼は「まだあの場所に向き合う覚悟がありません。辛いです」と正直に言った。その気持ちはルースにもよく分かったし、エーゼルも同じようにここへ来ることを拒んだ。ルースも含め、仲間を失った傷が癒えるにはまだまだ時間が掛かるだろう。
「……来年はきっと、みんなで来られるはずだから。見守っていてほしい」
ルースは樹に語り掛けるように言って、また任務に戻っていった。
それから1年が経った。同じくガベリアが甦った日に、その立役者である仲間たちは全員揃って、オルデンの樹の前に立った。ルース、カイ、エスカ、エーゼル、そして山の民族の末裔ブロルだ。セルマとオーサンは既にいないが、彼らの心は常に仲間と共にある。
その夜、闇の中で樹が眩く光ったのは、セルマからの最後の励ましだったのかもしれない。それ以降、仲間たちは比較的前向きに生きている。心のどこかで、いつかまた彼女やオーサンに会えると信じながら。
12月に入り、ルースは久々の休暇を得ていた。昼下がりの静かな部屋の中で、彼は椅子に座って目の前のゆりかごを揺らしている。ここはミネの実家で、ゆりかごの中には2ヶ月前に生まれたばかりの息子が眠っていた。
ミネと同じ赤毛で、顔はルースに良く似た子だった。名前はクラウス――二人の大切な友人の名だ。生まれる前から、男の子だったらそうしようと決めていた。
すやすやと眠る我が子を眺めていると、自然とルースの頬も弛む。自分が父親になって初めて、これほど愛おしい存在があることを知った。そして、それを失う怖さも。魔導師になることを反対したデオの気持ちが、今になってようやく理解出来たのだった。
もしクラウスに魔力があって、魔導師になりたいと言い出したら? それが原因で、自分と同じように父親と確執が生まれたら? まだ歩き始めてもいないのに、そんな悩みがルースの頭にはあった。
不意に、クラウスの目がぱちりと開いた。そのまましばらくはルースをじっと眺めていたが、不意に顔を歪めて泣き出しそうになる。
「よしよし、抱っこかな?」
ルースは優しく言って彼を抱き上げる。それが正解だったようで、クラウスはすぐに笑顔になった。
「あ、起きたんだね」
ミネが部屋に入ってきて、彼らの側へ寄った。
「今さっき、目を覚ましたところ。この子は本当に抱っこが好きみたいだ」
ルースは微笑みながらクラウスをあやした。腕にその温かさと重みを感じると、さっきまでの悩みは不思議とどうでも良くなってくる。
「うん。このゆりかご、せっかく持ってきてもらったけど、起きている間はほぼ抱っこだよ。下ろした瞬間泣くもの」
ミネもやや疲れた顔で笑った。ゆりかごは、ルースの実家から持ってきたデオ作のものだったのだ。
「親子二代で大切に使って……なんて感動的なことを考えてたけど、思い通りにはいかないね」
「毎日お疲れさま。僕ももっと頻繁に帰って来たいんだけど……」
ルースが申し訳なさそうな顔をすると、ミネは首を横に振って微笑んだ。
「あなたは立派な父親だよ。一緒にいられなくたって、その背中で語ればいい。誇りを持って魔導師をやっているんだって」
「背中で、か……」
ルースはご機嫌に指をしゃぶるクラウスを見つめながら、デオの姿を思い浮かべる。口数の少ない父だったが、その背中からはいつも仕事への情熱と家族への愛を感じていた。自分もいつかはそうなれるだろうか。
「僕も頑張るよ。リスカスの平和を守って、お前がいつも笑顔でいられるように。……とりあえず、ここに寝てみようか?」
ルースは試しにクラウスをゆりかごに寝かせようとする。が、それを感じ取ったクラウスはすぐさま泣き出した。ルースもミネも思わず笑ってしまう。平和だのなんだのと壮大なことを語る前に、この子に必要なのはどうやら抱っこのようだった。
END




