21.取り残された王太子
「……今日も、リージェの足取りはつかめなかったのか」
王都に一人残されたクロードは自ら探しに行きたい欲求と戦いながら、寄せられる報告を受けていた。
布告はした、彼女が見つかった王国の南を中心に、人も遣わした。
なのに何故、名乗り出てくれない。
まさかすでに誰かに囚われ、動くことのできない傷を負っているのか。それとも一連の事件で妃になることに嫌気でもさしたのか。嫌な予測ばかりがふくれあがる。
眼が自然と窓へと向いていた。最後に彼女が目撃された南へ続く空がそこにあった。彼女はこの空の下のどこにいるのだろう。少しはこちらのことを思い出してくれているだろうか。
会いたい。
いや、会うのが怖い。会って、もし彼女が前とは違う眼差しを投げかけてきたら。ちらちらと胸でうごめく不安の芽。あれからずっと悩まされている。
この眼で、この腕で彼女の無事を確かめたい。彼女の心がまだ自分に向けられていると彼女の口から聞きたい。彼女が変わってしまったのではと考えてしまう今の自分が怖い。
考えるたびに胸の奥底から湧き上がるどす黒い想い。普段、彼女の愛する、穏かで優しい王子の顔裏に隠している男としての情動が暴れ始める。
なりふり構わず彼女を探し、捕らえ、二度と自分から逃げられないように己のものにしてしまい。他の男など見ることのできないようにその眼を覆い隠してしまいたい。そんな獣めいた熱が鎌首をもたげる。
(そんなこと、できるわけないだろう……!)
クロードがリージェを初めて目にしたのはリリューシュ侯爵邸でのことだった。彼女が初めて社交界に出るのでその打ち合わせをするために訪れたのだ。
初めて目にした少女は、野に咲く花のようだった。
それまでの自分は聖域にいる婚約者のことを聖域で育ったお堅い修道女と認識していた。だが実物は全然違った。
か細く震える肩、その瞳は頼りなげにゆれていて。
恋に落ちるとは、こういうことかと思った。
何がどうと理屈では言えない。ただ、目が離せなくなった。皆がこの社交に不慣れな少女を、王妃にふさわしくないと考えているのを肌で感じた。あまりに純粋すぎると。彼女を見る前までならクロードもそう思っただろう。だが今はそんなことは考えられなかった。
このか弱い存在を守りたくて。
周囲の心無い大人たちを怒鳴りつけたくなった。
だがそんなことをすれば彼女はますます怯えてしまう。どうすれば彼女に怖がられずにすむか。それだけを必死に考えた。
定められた儀礼通りに接しては駄目だ。彼女が委縮してしまうだけだ。
自分なりに考えて、迷い子にするように、そっと話しかけて。
すると彼女が顔をあげた。その紫の瞳に自分の顔が映って、喉がごくりと鳴るのを感じた。涙を称えた瞳があまりに魅惑的だったのだ。
彼女はほっとしたように、すがるようにこちらを見て「ありがとうございます」と言った。あの時の自分の状態を彼女に気づかれずにすんでよかったと思う。体中が熱くなって、挙動も怪しくて、正直、見られたものではなかった。
それからのクロードは、ゆっくりと彼女と距離を縮めていった。
彼女は宮廷の恋の駆け引きも男女の手練手管も知らなかった。思わせぶりな態度をとることもなくただ真っすぐで純粋で。その分、世辞や高価な贈り物は通用しなかった。
侍従に命じて買わせた流行の品より、自分が目に止め、手折った一輪の花を喜ぶ少女。
共にいるだけで自分までが無垢な子どもの頃に還る思いがした。
だが逆に言うと欲のない彼女を王太子妃の位を餌につなぎとめることはできない。色恋沙汰に慣れない彼女はこちらが強引に出すぎるとおびえて引いてしまう。
なかなか距離を縮めることができず、もどかしさに何度拳を握り締めたか分からない。
だが我慢のかいあって、彼女はゆっくりと硬い蕾がほころぶように心を開いてくれた。
自分にだけ見せてくれる笑顔。まだ宮廷に慣れない彼女がクロードの前だと気を抜いてうっかり犯す可憐な失態。すべてが可愛くて口元がほころんでしまうのを隠すのに苦労した。
もちろん不満もあった。その頃から聞こえるようになった侯爵家でのこと。リージェとの間に立つ使いや護衛騎士から報告されるあれこれ。彼女は打ち明け助力を請うてはくれなかった。
それでもあの頃のクロードは自分なりに説明づけて我慢していた。彼女はこちらのために王妃となるべく頑張ってくれている。だから自分が彼女に弱みを見せたくないと思っているのと同じに、彼女も気づいて欲しくないと思っているのかもしれない、と。それに彼女は家族を愛している。だから他の者に不仲なことを知られたくないのではないかと。
彼女の家族が、彼女が想うような変化を見せるとは思えなかった。が、それを口にして、彼女の心を傷つけたくなかった。
だからひたすら口出しするのを我慢した。ただ静かに彼女に寄り添っていた。いつか打ち明けてくれると信じて。その時の自分は二人が引き割かれる未来があるなど思ってもみなかったから。時間は無限にあると、根拠もなく信じていたのだ。あの夜もそうだった。
「また、明日。迎えに来るから」
「はい、殿下」
いつものように侯爵邸まで送っていった時、微笑んだ彼女が可愛すぎてこらえきれず、そっと彼女の額にキスをした。
驚いたように目を見開いて、それから、恥ずかしそうにあわてて顔を伏せる彼女に、本当は唇にしたかった、とは言えなくなった。
早く一緒に暮らしたい。夜になるとそれぞれの家に帰るのではなく手を取り合って同じ部屋へ戻りたい。同じ寝台で眠りにつき、朝目覚めた時に彼女がいる、そんな未来が来ればいい。
門が閉じた後も星空を眺めてしばらく頬のほてりを冷ました。そうしないとその場を立ち去ることもできなかった。これが彼女の朗らかな笑顔を見る最後になるとは思わなかったから。
その翌日のことだった。王家にマリアージュも光の加護を得たという知らせが入ったのは。 クロードはリージェの他にもう一人、婚約者を持つことになったのだ。
そこでクロードは回想から覚めた。ため息をつく。
初めて会った時の、儀礼の指先の口づけだけでも怯えていた彼女。あの時、自分は誓った。この王妃などという重い肩書の似合わない少女を生涯守り抜くと。だから。
「……彼女を信じている。愛していますと言ってくれた彼女を。なら、今すべきことは、彼女が戻ってもいいと思ってくれた時に、完璧な居場所を用意しておくことだ」
もう彼女を不安がらせたりしない。逃げ出す羽目になど落とさない。
叔父との面談で、リージェを守るには自分が力をつけるしかないと改めて思った。
だから父王への遠慮から一歩引いた立ち位置を心掛けていたのをやめた。
今は積極的に前へ出るようにしている。各界の長老格である貴族や聖職者たちに会い、上に頭を抑えられて腐っている若者たちにも顔を見せ、自分なりの派閥を造りつつある。
だがそれだけでは足りない。同時並行で実績を見せつけねばならない。
「とにかく、力がいる。皆にまだ十七の若造と言われないだけの発言力と重みが」
自分に執務能力があることを見せつける。そのためには止まっている暇はない。
クロードは今日も焦る胸の内を底に押し込め、平然とした顔で公務をこなす。
あげられる案件を順に処理して中に一つ、気になるものがあった。
「隣国で、とうとう動きがあったと?」
「はい、どうやら決着がついたようです」
隣国カサンドラは王の代替わりで、ここしばらく揺れていた。
幸い、かの国との間には魔の山がある。いきなり攻め込まれることはないが慎重に対処しなくてはならない。国としてどの派閥にも与せず中立の立場をとっているが、国境を接しているからには新たな王となるのは誰か、その際に血が流れるか否かが重要になる。
「第三王子が継ぐことになったようです。いずれ正式な使者が派遣されくるでしょうから、こちらからも祝賀の使いを出さねばなりませんね」
「穏健派のあの王子か。特に我が国とかかわりはないがまずまずの結果だ。それで? 敗れた者たちへの処遇はどうなった」
抵抗の芽が絶えていなければ助勢を求められることも、こちらに亡命してくることもある。
国境で追い返せればいいが万一、踏み込まれれば扱いに困る。捕縛して送り返すにしろ、丁重に扱い母国との仲介に立つにしろ、今まで以上に繊細な気配りが必要になる。何より、気になるのは。
「魔の山は、カディアにあったな」
よりにもよってリージェが最後に目撃された地に近い。
なんだろう、胸騒ぎがする。
ふと、カディアの乱の際の聖女のことを思った。彼女は聖王妃の神託を受けながら、当時の王太子の手を拒んだ。そして王太子を殺した。己を攫った男への操を守るために。
もし今のリージェの前に別の男が現れたら。彼女を攫ってしまったら。
彼女は、自分にも刃をむけるのだろうか。
クロードの胸に、言い知れぬ不安の芽が萌えだした。




