11話
「あ、の。挙式と披露宴のお申込みで、よろしいんですね?」
「はい。よろしくお願いします」
怪訝、そして不安げな視線で私をちらりと見る担当さんに、何度目かの愛想笑いを返した。
膝に置いた両手をぎゅっと握りしめ、私は何も悪いことはしていないと心の中で唱える。
ここに来てから何度もそれを繰り返しているせいか、爪が手のひらにくいこみ痛くてたまらない。
ここまで必死に手を握らなくてもいいのに、と思いながらも緊張した時の私はいつも手の平に血がじんわりと滲むほどぐっと握りしめてしまう。
うー。
本当なら、ひとりでこんな重大任務を果たすなんてこと、絶対にしないのに。
日をずらしてでも、自分の責任で物事が運ばないよう段取りを調えるのに……。
だけど、今日式場の予約をしなければ、来年の六月希望の結婚式は半年以上遅れてしまう。
『大安の日曜日』
千尋と私にとってそれは、結婚式の日取りを決めるにあたっての、最優先事項なのだ。
というよりも、私と千尋の親戚にとっては、というのが正確なんだけれど。
私も千尋も縁起にはあまりこだわらないけれど、お互いの両親及び親族一同は皆、口をそろえて「佳い日にお式は挙げなきゃ」と言うものだから。
来年六月の大安吉日に向けて、少しずつ結婚式の準備を始めているのだ。
私と千尋が社会人となって初めてのクリスマスを過ごした思い出のアマザンホテル。
そこで結婚式を挙げたくて、下見やイベントにも参加して、そして今日、その佳き日に式を挙げるための申込書と予約金を持参し、ひとりでこの場にいるというのに。
これまで何度か打ち合わせをしたにも関わらず新郎に会ったことがない担当の柏木さんは、ひとりで結婚式の申し込みをする私を怪しんでいる。
結婚する気のない恋人の気持ちを無視して私ひとりが結婚に向けて先走っているのではないかと疑っているのだ。
……わからなくもないけれど。
ホテル側から見れば、予約を受けたあと結局結婚式はナシってことにでもなれば大変だろうし、柏木さんだって責任を問われるかもしれないけれど。
だけど、私と千尋はちゃんと婚約しているし、結婚式だって親戚みんなが何一つ文句を言わないように豪華に派手に挙げるって決めているのに。
やっぱり、私がひとりで予約に来るなんておかしいのかな。
カップルたちで甘い活気に溢れているブライダルサロンを見渡せば一目瞭然、みんな恋人と寄り添っている。
そんな中、女性一人で予約に来るって不思議な存在なのかもしれない。
予約だけでなく、模擬挙式なるものを見学に来た時も、私ひとりだったし。
『ちょっと聞いてもいいですか?』
なんて事を言いつつ費用のことや料理のことを聞いたのも、私ひとり。
それどころか、千尋がこのホテルに来たのは一度きりで、それも去年のクリスマスイブという特別な日だったりするわけで。
その時は結婚式をここで挙げるための準備ではなく、単純に、世の中の恋人たち同様素敵なイブを過ごすためだった。
それ以来、千尋がここに来たことは一度もない。
もちろん、私たちの担当さんである柏木さんと顔を合わせたこともない。
結婚式に向けて動き出した恋人たちには珍しすぎる状態、かもしれないけれど。
仕方ない、千尋、忙しいもん。
今朝だって『ごめんな、全部を凜々子に任せてごめんな』って電話で言ってくれた。
柏木さんから疑いの目を向けられても、近くのテーブルで打ち合わせをしている他のカップルたちが幸せそうに顔を見合わせていても。
「……いい、けど」
今日何度目かもわからないため息を吐き、俯いていると。
「それでは、申込書と予約金十万円をお預かりいたします。
あの……最後に確認させていただきますが、新郎様は、納得されているのですよね?」
私の顔色を窺いながらも、それでも私への疑念を隠し切れない表情の柏木さん。
私と千尋の結婚式の担当さんである彼女は、まだこのお仕事を始めて二年目の若々しい女性で、経験も少ないと明らかにわかるほど感情が顔に出ている。
「申込書には、あの、ご新郎様のサインも記入されてあるのですが、一度も打ち合わせにお越しいただいていないのに、申込みというのは、あの……」
「あ、大丈夫です。千尋……いえ、新郎もちゃんと納得していますし、この十万円も彼が用意してくれました。仕事が忙しくてこちらに来ることはできませんが、私が細かく報告していますので……大丈夫です」
「そ、そうですか。それならいいのですが、いえ、新婦さんだけでこちらの見学をされて予約にこられるというのは、珍しいもので……」
柏木さんは、焦ったように呟き何度も私に頭を下げる。
まだ若いせいかあまりにも感情が顔に出ているけど、そんな様子を部屋の向こう側から厳しい目で見ている人が一人。
ホテルの制服を着ている長身の男性はきっと、柏木さんの上司に違いない。
きっと、私と柏木さんのやり取りが気に入らないのだろう。
客観的に見ても、私への柏木さんの対応には注意したくなる点が多い。
たとえ結婚式の予約を私一人で済ませようとしていることをおかしいと感じても、それを顔に出してはいけないのだ。
ひとそれぞれ抱える事情は違うのだから、相手の気持ちを和らげることはあっても緊張させたり不安を感じさせてはいけない。
……ってことを、彼女の上司も心得ていて、部屋の片隅から彼女を睨んでいるのだろうけれど。
そんなことに全く気付かず、柏木さんは相変わらずおろおろ、そして私への微妙な不信感を浮かべている。
なんだか、私が悪いことをしたみたいで居心地が悪いけど、そんなのこれが初めてじゃない。
千尋との結婚を決めて、具体的に動き出してから何度も経験している。
婚約指輪と結婚指輪の受け取り。
結納を行う料亭との打ち合わせ。
仕事で時間が取れない千尋に『大丈夫だよ、私ひとりでも』と言って笑顔を作ったけれど、その度に味わう寂しさ。
というよりも私ひとりが張り切っていて、新郎には結婚を進める気持ちはあるのかと、探るような瞳を向けられる悔しさと言った方が正確かも。
慣れたつもりはないけれど、周囲からの温かくない視線や言葉を軽く流す術も身に付けつつある。
だから、年だって経験だって柏木さんより重ねている私が大人にならなきゃ。
「おっしゃることはわかりますから気になさらないでください。まあ、新郎が一度もこちらに来ないなんて、滅多にないですよね」
目の前の彼女を慰めるように声をかけた。
「あ、はい。そうなんですけど……」
「大丈夫です。衣装合わせには何が何でも来ると言っていましたから」
「で、ですよね。お仕事でお忙しいのですから、仕方がないですよね。はい、あ、あの、予約の手続きをしてまいりますのでしばらくお待ちください」
柏木さんは、手元の『十万円』と、私が持参した結婚式の申込書を持つと、軽く一礼して事務室へ行った。
その後ろ姿からは、私への複雑な心境が見えるようで、ちょっと切ない。
仕方がないとあきらめているとはいっても、私だって。
新郎新婦二人で式場の見学をして、模擬挙式に感激して、披露宴の料理の試食会で『おいしい』って顔を見合わせて『ここにしよう』『うん、私もここがいいって思った』なんていちゃこらしたかったけど。
不規則な仕事で忙しい千尋にそれを求めるなんて、できないんだもん。
こうして私一人で準備していくしかないのに、それをどうして怪しまれなきゃならないのよ。
千尋が今ここにいないのは、仕方がないのに……と心の中で愚痴ってみる。
……千尋の仕事はカメラマン。
それもかなりお忙しい、超売れっ子。
というのは本人の自意識過剰なのではと思っていたけれど、人生最大の宴といってもいい結婚式の準備になかなか参加できないという事態に遭遇して知ったことは。
カメラマンとしての千尋の評価はかなり高いものだということだ。
今日ここに来ることができないのも、ある有名女優さんの写真集の撮影があるため。
五日前からかかりきりで、どこだか知らない森の中での撮影に精を出しているらしい。
それだけではない、ここ一年千尋の仕事が途切れることはなく、私達がゆっくり会える時間は限られている。
今人気急上昇中の男性アイドルの来年のカレンダーだって手がけている。
そのアイドルは、売れる前から私が贔屓にしていた男の子で、千尋はいつも「こんなひ弱そうな男が好きなのか?」と苦笑していた。
けれど、私の為にその男性アイドルの仕事を受けてくれ、「今回だけだぞ」と言って撮影現場にも連れて行ってくれた。
「凜々子さんへ」と書かれたサイン色紙を抱きしめてベッドに入った私をそのまま背後から抱きしめると。
『あいつ、見た目はひ弱なのに、撮影中どんな要求にも笑って応えるいい男だった。
凜々子には見る目があったんだな。だけど、妬ける』
私の首筋に唇をぐっと押し付けて悔しげな吐息を落とした千尋。
絶対に離さないとでもいうように私を背中から抱きしめる子供っぽさにときめいた私。
私の気持ちは更に千尋に取り込まれて離れられなくなった。
『見る目があるから、私は千尋と一緒にいるんだよ』
そう言った私をさらにぎゅっと強く抱きしめた千尋の温かさは今も変わらない。
なかなか会えなくて寂しい思いをすることも多いけど、千尋が私を愛していることは疑いようがない。
有難いことに次々とお仕事をいただき、その多くは千尋の実力とセンスを信頼されてのことで、おまけに下積み時代からずっとお世話になった方々からの依頼となれば千尋の答えは聞かずともわかる。
『俺がこうして写真を撮っていられるのもこれまで俺を育ててくれた人たちのおかげだから。……凜々子を後回しにするわけじゃないけど、仕事を優先してもいいか?』
そんな事を言われて拗ねている場合ではない。
カメラマンとしての千尋を求めて下さる方の為に、ドーンと仕事に集中して欲しいと、まだまだ大人の女へと成長途中の私は一人前の言葉で千尋の背中を押した。
まあ、結婚式の準備をここまで一人でこなさなきゃならないとわかっていれば、背中を押す力を弱めたかも……なんて、思わなくもないけれど。
カメラマンとしての知名度を上げ、大きな仕事に積極的に取り組む千尋を見ていれば、何度も恋に落ちて、ドキュンとふらふらに。
もう、たまらなく千尋に惚れてしまうのだ。
何度も何度も。
大好き、愛してる。
そう言葉にしてほほ笑み合って、結婚へと舵を切ったはいいけれど。
土日がお休みの会社員である私とは違って不規則な生活を送っている千尋が私に予定を合わせるのは大変で、結局は私一人が一生懸命結婚式の準備をしている。
けれど、ふたりの新居は千尋が決めた分譲マンションだ。
千尋が働くオフィスと私のお気に入りのベーカリーが近くにある素敵なマンションは、千尋が一目ぼれをして決めた。
売れっ子になりつつあるとは言っても、マンションを買うなんて一大事。
去年の年収は製薬会社の会社員の私の三倍以上あったけど、それがいつまでも続くとは限らないのに。
『凜々子が気に入ると思ったんだ。凜々子の為に仕事をしているのに、凜々子の為に金を使わないでどうするんだ?』
大人の色香溢れさせる一方、少年が見せる恥ずかしさと照れを隠し切れない瞳と声で。
目の前に千尋の顔が現れたりすると、『ど、どうもしない……。嬉しい』と。
答えずにはいられなかった私の反応は至極普通だったと思う。
普段、素敵な容姿を見せびらかすことを生業とするモデルさんたちの写真を撮っている千尋本人がモデルさんのようなのに。
その顔が目の前にきちゃったら、もう。
それも、大切で大好きで愛する人だとすれば、その甘い言葉を拒むなんてことできない。
私をふわふわと優しい気持ちにしてくれる、千尋の言うこと全てに『うん、いいよ』としか言えない自分って。
本当、どうしようもなく溺れているのだ、千尋という素敵な恋人、ううん、もうすぐ夫となる人に。
「夫だって……ひゃー、照れる……」
目の前にいるわけではないのに、千尋の事を考えながらぼーっとしていると、突然目の前に何かがよぎった。
「お客様?」
「え、あ、すみません、えっと……」
あちらこちらに散らばっていた意識を取り戻すように姿勢を正し、慌てて視線を前に向けると。
今、目の前をよぎったものがなんであるかに気付いた。
「さきほどは担当の柏木が失礼な態度をいたしました。申し訳ございませんでした」
深く頭を下げる男性。
姿勢を元に戻すのを待ち顔を見れば、さっき柏木さんを厳しい目で見ていた男性だった。
三十歳くらい?
ホテルマンらしくきっちり着こなしたスーツには皺もなく表情だって緩みひとつない。
どちらかと言えば男らしいというよりも綺麗と言った方が正しいような顔は小さくて、その切れ長の目に見つめられると緊張してしまう。
「あ、あの……」
この状況を理解できず、無意識に身を引きながら言葉を待っていると。
目の前の男性は私の視線に苦笑し、安心させるように小さく頷いた。
「さきほど、柏木がお客様の事情を察することもなく個人的な意見を口にしまして、申し訳ありません。新郎様がこちらに来られなくても、大丈夫です。お二人の佳き日を思い出深いものにできるよう、お力添えさせていただきますのでご安心ください」
「あ……どうも、それは、頼もしい……」
「はい、新郎新婦様のご要望には可能な限りお答えできるように力を尽くしますので、なんなりとおっしゃって下さい」
胸元の名札を見れば『井上』と書かれている。
「あ、井上さん、そんなにお気遣いいただかなくても大丈夫ですよ。私、誰に何を言われても平気なんです。柏木さんの様子も理解できますし怒ってません」
「そう言っていただけるとありがたいですが、やはり柏木の対応には問題がありますので、注意しておきます」
「あ……そうですか。でも、お手柔らかにお願いしますね。柏木さん、とてもいい人だし」
「ははっ、いい人すぎて鈍いという難点は抱えていますが、精一杯働かせますので鍛えてやってください」
ん?
ほんの少し笑いをかみ殺したような声音を感じてその目を見ると、言葉とは正反対の優しくて甘い色が揺れている。
私を見ているけれど、私を素通りしているその視線の先には多分、さっきから井上さんが怒っている柏木さんがいるような気がしてならない。
というよりも、きっと私の勘は当たっているはずだ。
「柏木さん、可愛いですもんね。もう、気になって気になってたまらないんですよね」
ふふっとわざとらしく声をあげて笑うと、一瞬目じりが下がったように見えたけれど井上さんの表情が崩れることはない。
さすがホテルマン。
絶賛継続中のぴしりと綺麗なその立ち姿に『おー』と感心。
経験もあるのだろうけれど、柏木さんと違って感情のコントロールが完璧で、それはこういう場にはふさわしいものかもしれない。
もしも井上さんが私と千尋の結婚式の担当さんだったら、今日こうして私ひとりで申込みに来てもさらりと処理してくれたはずだ。
千尋が顔を見せないことを怪訝に思っても決して顔には出さず、私が心細い思いをしないように、きっと気遣ってくれたと思う。
……ほんの少し話しただけでそこまでこの人を信用してしまう自分に驚くけれど、さっき、井上さんの瞳に浮かんだ優しいゆらめき。
あれを見てしまったらもう、『井上さん=いい人』という承認印を心の中で何度も押しちゃう勢いだ。
そのゆらめきは、千尋が私に向ける愛情いっぱいのあったかーいものと同じだから。
そう、井上さんは、柏木さんを好きなんだ、愛しているんだ、惚れているんだ。
千尋が私を好きなように、愛しているように、惚れているように。
口では柏木さんに厳しいことを言いながらも、それは愛情の裏返しで、かわいくてかわいくてたまらないってすぐわかる。
「井上さんの目……千尋、いえ、新郎なんですけど、彼と同じ目をしてますよ、ふふっ。私を見る彼の目と、柏木さんのことを話す井上さん、同じ表情だし……めろめろですね」
思わず口にした私の軽口に、井上さんは一瞬眉を寄せるも何も反論しない。
それどころかほんの少し上がった口元を見れば、とても幸せそうで。
「柏木さん、かわいいですもんね」
肩をすくめた私を見ながら、ほんの少し視線を下げた。
冷静なオトコをからかうのも楽しいな、と思いながら肩を震わせていると、井上さんの向こうから、柏木さんが戻ってきた。
相変わらず焦っている様子の彼女は、私の目の前にいる井上さんにようやく気付くと、はっと足を止めた。
ぎくり、という音がその場に響いたのかと思えるほどあからさまに驚き立ち止まる狼狽ぶりに、「あらら」と声を出しそうになる。
ちらりと井上さんを見れば相変わらずの落ち着いた表情と視線。
その視線の向こう側には、予想外のことに驚き怯え、恐々と席に着く柏木さんがいて。
「お、お待たせしました」
小さな声で私の向かいに腰掛ける様子から目を離さない。
「柏木、今後のスケジュールについても、しっかりお伝えしておくように。
それと、新郎様のご都合を優先して、打ち合わせを進めるように」
低く艶のある声がその場に響き、柏木さんだけでなく、私も何故か姿勢を正す。
「は、はい」
そして、柏木さんと私は声を揃えてそう答えた……。
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その後、柏木さんとこれからのことを幾つか決めて、私はホテルをあとにした。
ちょうど隣のテーブルで打ち合わせをしていたカップルが
「披露宴ではゴンドラから降りてきたい」
と幸せそうに話していたり、反対隣りのテーブルでは
「お色直しは五回だね」
なんて甘いほほ笑みとともに話していたけれど、私は柏木さんと二人で事務的に必要なことを決め、その日の予定を終了した。
挙式、披露宴の申込金十万円の領収書をかばんにしまい、次の打ち合わせも一人ぼっちかな、とちょっとブルーになる。
仕事で忙しい千尋が打ち合わせに来れないのも、ここ一週間会えないのも、電話をくれても長く話せないのも、仕事が忙しいからだとちゃんとわかっているけれど。
それでも一人で結婚式の準備を進めるのは寂しいし切ないし、泣きたくなる。
おまけに、ホテルを出て夕暮れの深い赤に彩られた街を一人で歩いていると、人ごみの中にいるのに孤独で切なくなる。
土曜日の夕方、カップルだけでなく、家族連れの人たちとすれ違うだけで俯いて、足元を見ながらひたすら歩く。
去年のクリスマスに千尋からプレゼントされた赤いブーツ。
こつこつと微かに聞こえる三センチヒールの音も哀しげで、どこまで私は落ち込んでいるんだと、逆におかしくもあり。
「そういえば」
私にこのブーツをプレゼントしてくれた時に『結婚しよう』って言ってくれた。
おじいさんが有名なカメラマンだったという千尋は、その才能を受け継いだのか中学生の頃から写真に興味を持ち勉強を続けてきた。
進学校として有名な難関校に進学したのは、多くの人生経験を積まなければ弟子にはしないという、これまた写真の世界では有名な「葉山理市」というカメラマンに弟子入りを断られたことがきっかっけらしい。
高校に進学をせず中学を卒業してすぐに写真の世界に飛び込もうとするなんて、かなり勇気が必要だったと思うけれど、その当時を振り返った千尋は
『世の中をなめてた』
と苦笑していた。
葉山さんは若い頃、千尋のおじいさんのアシスタントとして勉強していたらしく、その縁で千尋は彼に弟子入りを申し込んだけれど断られ、それならいっそ、誰もが驚くような難関校に合格してやると意地になって。
そして見事合格し、私は彼と知り合うことができた。
勉強だけが取り柄で、スポーツや美術的な才能には全く縁がなかった私は、その唯一の武器である勉強を一所懸命がんばり、というよりそれしかすることがなかったせいで。
親孝行も兼ねて、誰もが『へー、すごい』と感嘆の声をあげる高校に進学したのだけれど。
特に将来への目標を持たず入学した私には、中学時代と変わらない日々が待っていた。
クラスでも仲の良い友達ができ、部活は放送部に入った。
人間関係の広がりはあったものの、進学校ゆえのハードな勉強に追われ、その日その日を乗り越えるだけの単調な毎日。
家族に勧められたわけでもなく、深く何かを学びたいという熱意もなく、単に勉強が得意だからというだけで入学しただけの学校に愛着がもてるわけもない。
とはいえ、そんな日々でもそれなりに過ごしていれば慣れという快適さも生まれ、勉強だけに時間を注ぐ日々にも抵抗はなかった。
そして、入学して二か月が経った六月の上旬、出産した姉を見舞いに病院に行くと。
姉の病室には千尋の叔母である紫さんも入院していて、彼も生まれたばかりの自分の従妹を見に来ていた。
そんなこと知らずに病室に入った私に気付いた千尋は、その瞬間大きな笑顔を向けた。
「お? りりー?」
「……りりーじゃないし。凜々子だし」
「いいだろ? りりーの方が耳障り綺麗だしさ、雰囲気に合ってるし」
「……わけわかんない」
クラスで見せる明るい表情そのままに、優しい瞳が私を見つめた。
大して親しい関係ではない、単なる同じクラスの同級生というだけの私達が、一気に距離を詰めたその瞬間。
それは、私の高校生活の速度と彩りが瞬く間に変わった忘れられない時間となった。
その日以来、学校でも言葉を交わす事が増え、お互いの赤ちゃん自慢という名の会話は学校だけにはとどまらず。
深夜の電話、週末のファミレスに広がりを見せ、会話の内容も徐々に赤ちゃんのことだけではなくなっていった。
クラスメイトという関係から少しずつ離れ、深夜の電話は毎日続き。
週末だけではなく、部活の後のファミレスはほぼ毎日となり。
『好き』
高校生だった私達が照れながら伝え合った思いは今もずっとそのままだ。
もちろん、今ではお付き合いを始めた時の、しゅわしゅわ、どきどき、あちち、なんて刺激のある感情を頻繁に感じることはないけれど、ふたりの中にある確固たる思いは変わらない。
『お互いがお互いの存在意義』
そんな甘い言葉をさらりと口にしては私を虜にしている千尋が、私の要、なのだ。
たとえ側にいなくても、結婚式の準備をひとりですすめないといけなくても、私の生きる指針、要である千尋が見守っている自信があるから、うん、大丈夫。
大丈夫なんだ、たとえこうしてひとりで夕暮れの道を歩いていても。
たとえ、手をつないでにこやかに歩くカップルとすれ違っても。
たとえ、ショーウィンドウに綺麗なウェディングドレスが飾ってあって、千尋と一緒に見ることができなくても……。
平気。
「でも、でも」
やっぱりひとりは寂しい。
そっと足を止め、目についたブライダルショップに近づいた。
ショーウインドウに飾られているウェディングドレスから目が離せない。
ウエストでラインの切り替えがあるプリンセスラインのドレスは、スカートの部分の大きなふくらみがかわいくて、昔から憧れている。
どちらかといえばおとなしい私の見た目を華やかで可愛らしい印象に変えてくれるようで。
「いいな……かわいい」
白い花のコサージュやフリルがたっぷりとあしらわれたドレスをじっと見ながら、思わず呟くと。
「凜々子に、似合いそうだな」
耳元に届いた温かな吐息と愛しい声。
「え……?」
「腰のリボン、もう少し大きくてもいいな。どうせなら華やかでキラキラな凜々子をみんなに見せびらかそうぜ」
「ち、千尋っ。どうして、ここにいるのよ」
驚いて振り返ろうとすると、いつの間にか隣に立っていた千尋が私の肩を抱き寄せた。
「ティアラも大ぶりの物がいいけど……凜々子は顔が小さいし、いっそ花で頭を飾るか?」
「ティ、ティアラっ。憧れのティアラでお願いします。っていうか、千尋?」
「ん? どうせ来るならもっと早く来いって言うなよ? これでも必死で撮影を終わらせて来たんだからな」
千尋はくすくす笑いながら、更に私を抱き寄せる。
頭に、千尋のキスが何度も落とされて、「ひとりで結婚式の準備……頑張らせてごめんな」と呟く切ない気持ちが聞こえてくる。
普段と変わらない近すぎて窒息しそうな心地よさが、ほんの少し前まで感じていた寂しさを吹き飛ばしてくれる……なんてことはなく。
寂しい気持ちはそのまま寂しいし、突然千尋が現れた驚きと戸惑いで、寂しさ以上の混乱が私の中に溢れる。
千尋の足元を見れば、見慣れた仕事かばん。
無造作に置かれたそれは、大学時代に千尋が初めて写真のコンクールで小さな賞を獲った時に私がプレゼントしたものだ。
その頃千尋は、学業のかたわら葉山理市さんの事務所でアルバイトをしながら写真の勉強を本格的に始めていた。
写真とは言っても、パソコンを使っての加工技術も進歩し、それに関することを学ぶ必要もあり、日々刺激の多い時間を過ごしていた。
そんな忙しい毎日の中で受賞した、雑誌のコンクールでの小さな賞。
たとえ小さな賞でも、千尋にとっては未来を信じるための大きな賞。
『これから……凜々子との未来を、考えてもいいんだよな』
普段と違って弱気な気持ちが見え隠れする小さな声はどこか震えていて、千尋の本心に触れた気がした。
不安定だとわかっていても、カメラマンという職業に就きたいという千尋の願いを、私はもちろん応援していたし、側で支えていきたいと思っていた。
けれど、カメラマンになりたいという自分の気持ちを優先させるせいで、私の人生をも不安定なものにしていいのか、千尋は揺れていたと思う。
私の家族との関係が良好だとはいえ、どこか遠慮があるとも感じていた。
ことあるごとに
『俺の夢に凜々子を巻き込んでいいのか、悩む俺って。……やっぱ格好悪いよな。
でも、何度考えても俺は凜々子を離せないって、実感するんだ。それが悩ましい』
そう言っては私を喜ばせてくれた。
そう、千尋が私を手離せないと悩む姿を見るたび、愛されているんだと実感していた。
もちろん私にも千尋と離れる気持ちは微塵もなく、もしも千尋がカメラマンとして大成しなければ私が働いて食べさせてあげよう、と思っていたけれど。
結局、初めて受賞した小さな賞によって未来への自信の欠片を掴んだ千尋は、私との未来をも具体的に考えるようになり、何が何でも写真で私との生活を成立させる決意をした。
祖父が著名なカメラマンだったというだけで自分に才能があるとは限らないし、もしかしたらプロになるなんてこと、夢の向こう側にある叶わない望みなのかもしれないと。
何度も悩み、気持ちを揺らし、葉山理市という才能あふれるベテランのカメラマンの後ろ姿を追う自分を小さく感じていたはずの千尋。
けれど、たとえ小さな賞だとはいっても、それを私を手離さないでいい理由として自分の思いに素直になり、私との未来にようやく道筋をつける決心をしてくれた。
安定した未来が約束されない職業に就く自分の人生に、私を巻き込む強さを手に入れた瞬間だったともいえる。
『小さな賞にすらすがるほど、凜々子が欲しくてたまらない』
それをプロポーズだと受け止めるのは自然の流れだったけれど、まだ学生だった私達には具体的に動くことは難しかった。
私が欲しくてたまらないと、吐息のような熱い声音で伝えてくれたとはいえ、それはお互いの気持ちを確認するだけでしかなく。
大学を卒業し、葉山理市さんの事務所で正式に働き始めてからしばらく経つまで、結婚に向けて何も準備してこなかった。
とはいっても、賞を獲ったことを区切りとして、自分の不安定な未来に私を巻き込む覚悟をした千尋との時間は濃密で、確固たる未来に向けて気持ちは明るかった。
そして。
ようやく結婚式の日取りを決めて、準備に奔走しているというのに、千尋はといえば相変わらず仕事三昧の日々。
「ごめん、準備全て、凜々子に任せきりで。頼りない旦那だよな」
私の肩を抱き寄せ、そっと頭に口づけてくれるだけで、ホテルでの打ち合わせには来てくれなかった。
それに、結納の時だって、突然撮影の仕事が入ったとはいえ両家が集まる料亭での食事の途中で慌てて現場に向かうし。
刻印をお願いした婚約指輪が出来上がった時にも千尋は葉山理市さんのアシスタントとして海外に行って帰ってこなかった。
一週間で戻るなんて言いながら、現地の天候不良で撮影がはかどらなくて、結局二十日近くを遠い遠い場所で過ごすことになった。
そのことは……今更言っても仕方ないし、それに、千尋だってそれを望んでいたわけじゃないってわかってる。
わかってるけど。
そう、千尋は遊んでいるわけでも私をないがしろにしているわけでもないと、わかっているから。
「だから……私ひとりで『ジュエルホワイト』に指輪を受け取りに行ったのに」
「……ああ。一緒に受け取りに行こうって言っていたのにな。だけど、俺の仕事の調整がつかなくて」
「うん、あの日受け取らないと結納に間に合わなかったから……」
「俺が凜々子に贈る大切な指輪だから、俺が受け取りにいくべきだったのにな。
行けなくて、ごめん」
くるり、私の体を自分の胸元に抱き寄せて、千尋は苦しげな声を落とす。
私の気持ちを落ち着かせるための口先だけの言葉ではなく、心からのものだとわかりすぎるほどだとはいえ。
「一生に一度のことなのに、千尋と二人で婚約指輪を受け取りに行きたかった」
「うん。ごめんな」
千尋の鎖骨あたりに顔をぽふっと埋めて視線を足元に落とすと、やはり視界の片隅には使い込んでいるのが一目でわかる千尋のかばん。
千尋が賞をいただいた時、お祝いは何がいいかと聞くと、「仕事用のかばん」と返ってきた。
カメラを持ち運ぶためのかばんなら、千尋がお気に入りのものが既にあるのに、どうしてそれが欲しいのかわからなかった。
『文章を写真に添えたいんだ。撮った時の感情や、被写体のことを書きとめたり。
写真を撮ったその場でその思いを記録しておくためにタブレットを持ち歩くことにしたから、それに合うカバンが欲しいかな』
それまで、自分の誕生日にさえ「何もいらない」と言って何ひとつ欲しがることのなかった千尋から、初めてリクエストされたもの。
それが、タブレットを入れて持ち歩くためのかばんだった。
千尋が望む未来へと近づく大切な賞のお祝いにしては平凡すぎるかなと思いつつも、千尋の好みを考えながら選んだ品。
それ以来ずっと使い続けているせいか、持ち手やサイドのポケットには大小混ざった傷がいくつもあり、そのひとつひとつからは二人の思い出がふわり浮かんでくる。
仕事ではなくプライベートで出かけた時に撮ってくれた私の笑顔や、旅先で心に響いた景色の彩り。
いつも、その柔らかな記憶に寄り添うように、タブレットとかばんの存在があった。
私と千尋の歴史の一部ともいえるそのかばんが、千尋の足元に心もとなく置かれている。
そのかばんをプレゼントした時は、千尋の受賞がとても誇らしく嬉しかった。
私と千尋の未来はとても幸せなものになると信じられ、千尋にたくさんの仕事の依頼がくればいいなと思っていた。
雑誌の表紙や街中で見かける大きなポスターの写真を千尋が手がけ、見る人の心を揺らすという未来を夢見ていた。
そして、それだけで私は満足できると信じて疑わなかったけれど。
今、視界の片隅に置かれている思い出のかばんを見るたび、以前のような明るい気持ちにはなれない自分がもどかしい。
私が千尋にかばんをプレゼントした時のあの輝いた気持ちは、形を変え、寂しさとなり、私の中にくすぶっている。
千尋が大切に使ってくれている思い出のかばんを見る度に、その思いは募る。
愛する気持ちが変わったわけではないけれど、なかなか一緒にいられない切なさはかなりの強者。
ふと気を緩めると、千尋ともっと一緒にいたいとわがままを言ってしまう自分の弱さをさらけ出してしまいそうになる。
かばんを千尋にプレゼントをして、二人で同じ未来をみつめられる幸せにわくわくしたあの気持ち。
千尋の仕事もようやく軌道にのり、不安定な未来を穏やかな今に変えられるようになった。
けれど、現実はなかなか切ない。
仕事の依頼が増えるに反比例して、お互いの体温を感じ合う時間は一気に少なくなっている。
そんなこと、我慢しなければと思えば思うほど自分を追いつめるようだ。
相変わらず私をその腕に取り込んだままの千尋に視線を向ける。
ここまで急いで来たのか、普段よりも荒い呼吸を繰り返す千尋の表情は、こんな時だというのにときめくほど素敵で。
ちょっと悔しい。
「さっき、千尋が手がけた写真……口紅の広告の大きなポスターを見かけたよ」
「あ? ああ。新商品だろ? 昨日CMが流れているのに気付いたけど、撮影したのはかなり前だからなあ」
「駅前のビルに大きなポスターが貼ってあって、高校生の女の子がモデルさんを見ながら『綺麗』って言ってた。思わず千尋が撮った写真だよって言いたくなったけど我慢した」
「そっか。でもあの写真を撮った日は凜々子の誕生日でさ。今年も一緒にお祝いできない悔しさを仕事にぶつける俺にスタッフはおびえていたし、まあ思い出にはなったけど」
「誕生日……」
寂しそうに笑う千尋の言葉に、ふと思い返す。
今年の私の誕生日は、一緒に過ごせないと千尋から事前に伝えられていたこともあって会社の同期数人にお祝いしてもらった。
仲のよい同期の女の子五人で和食を堪能したあと、その近くの「マカロン」というバーで飲み直し。
金曜日だったことも手伝って、家に帰った時には午前一時を回っていた。
日付は変わり私の誕生日は千尋と会うことなく終了。
そのことに寂しさを感じながらも、それは過去の自分が望んだことによるものだと、お酒が少々入った心で考えた。
千尋がは長い間求めていた写真家というポジションに身を置き、それも売れっ子という称号まで手に入れた。
それは高校時代に千尋と出会って以来、努力と我慢を重ねる姿を間近で見ていた私にとっても嬉しいことには違いない。
けれど今の状況は、過去の私が望んだものなのかどうか揺れる心を認めたくなくて、酔いに逃げるように気持ちをそらそうとしたけれど、それはなかなか難しかった。
誕生日だけでなく、いつになれば千尋とゆっくり会えるのだろうかという悩みのループはかなり強固で、あの日は帰宅後も冷蔵庫から缶ビールを何本か取り出して飲んだ。
その夜以来、気付かないふりをしながらも抱えていた切なさが、誕生日という特別な日を狙っていたかのようにあふれ出した。
千尋を愛しているのは確かなのに、どうして寂しさばかりが増えていくのだろうかと、鬱々悩む時間が一気に増えて、それは千尋にも伝わったに違いない。
誕生日から数日経った日の夜、突然私の部屋を訪ねてきた千尋は私の様子に違和感を抱いたのか、普段以上に優しく愛してくれたあと。
『なかなか一緒にいられなくて凜々子が寂しがるのもわかるけど、俺だって寂しいんだ。何が楽しくて凜々子以外の女の笑顔を撮らなきゃいけないんだって思うけどさ、写真以外で生きていくつもりはないし、凜々子を幸せにするためには稼がなきゃな。
凜々子も写真も両方欲しいから、悪いけど、我慢してくれ』
ベッドの中でまるで私の気持ちにはお構いなしの言葉を平然と呟く千尋に驚いたけれど、それに加えて私の体に残す赤い華の数もかなり多くて戸惑った。
『我慢してくれ』という口調は強気であるにも関わらず、背後からお腹に回された千尋の手は私を決して離さないと伝えるようにぎゅっと結ばれていて。
『凜々子を悲しませても寂しがらせても、俺は凜々子と同じ人生を過ごすと決めてるから。なかなか一緒に過ごせない寂しさには慣れてくれ。それ以上に俺も寂しいんだ』
私の肩に口元を寄せて、子供のように拗ねる新鮮さに『惚れた弱み』なんてことを実感してしまった。
ずるいなあ。
どんなに寂しくても、私が千尋から離れられるわけがないって知っていての言葉、やっぱりずるい。
と思いながらもあの晩の私は、千尋だって私と会えなくて寂しいのなら、それだけで許せるし、寂しさを我慢できるようにも思えた。
今でもその気持ちは変わらず、たとえ切なさに俯きながら結婚式の準備を一人ですすめたとしても、千尋と会えれば嬉しくて寂しさを蹴散らすほど幸せになれる。
本当、惚れた私が負けなんだな、と実感するのも悔しくて。
突然私の目の前に現れて、その素敵な笑顔で私を虜にする千尋を軽く睨んだ。
「今日の申し込みには一緒に行けないって言っていたのにどうしたの? 撮影は終わったの?」
「ああ。終わったというよりも、終わらせた」
「そうなんだ」
「ああ、予定では凜々子と一緒にホテルに行って結婚式の申し込みができる時間に終わらせるはずだったんだけど。どんなに急いでもこの時間が精いっぱいだった。……ごめんな」
私の肩を強い力でぐいっと抱きしめて、その力とは逆の弱々しい声で謝るなんて。
「ずるいなあ、いつも」
そんな様子で謝られたら、怒りたくても怒れない。
「肩ぐいって抱き寄せられることに私が弱いって知ってるくせに。いつも、そうやってごまかすんだもん」
「ごまかしてるわけじゃないんだけどな」
人通りの多い場所だというのに、千尋は私の体の向きをくるりと変えて、その肩に私の顔を押し付けた。
「これがごまかすっていうことなのに」
私はぶつぶつと言いながら、千尋の鎖骨あたりに何度か額で軽くごつんと繰り返す。
痛みを感じない程度の強さで繰り返していると。
「ごまかしたわけじゃないんだけどな」
と、これまたつらそうな声。
まったく……その声に私が弱いって知ってるくせに、もう、もう。
「俺だって、凜々子と一緒に式と披露宴の打ち合わせをしながら『俺の嫁さん、綺麗にしてやってください。いや、既に綺麗なんですけど』ってのろけたいし、一生に一度しか味わえない結婚準備期間を満喫したいんだ」
「……は?」
「いや、それよりも『化粧や衣装に頼らなくても綺麗なので、素材を生かした花嫁に仕上げて下さい』のほうがいいか? オレ的には素顔の花嫁ってのも悪くないんだけどな」
「ち、ちひろ?」
「あ、そういえば柏木さんが『ぜひおすすめしたいドレスがあるので次回の打ち合わせでご用意します』って言ってたな。俺を見てかなり動揺していたけど、彼女は人見知りが激しいのか?」
「柏木さん? え? 会ったの?」
千尋の言葉に驚いた私は、勢いよく顔を上げた。
そして、千尋に寄せていた体を離し、じっと見つめる。
「柏木さんと会ったって、ホテルに行ったってこと?」
「そう。まだ凜々子がいるかなと思って急いだんだけど、すれ違いになったみたいだな。凜々子に聞いていた担当さんの名前が柏木さんだって思い出したから挨拶だけでもと思って訪ねたんだけど」
「あ……うん。柏木さん、そう、担当は柏木さんなの」
千尋がホテルに来てくれたなんて、びっくりだ。
しばらくは仕事が詰まっているから時間が取れそうもないって言っていたのに。
こんなことなら、もう少しホテルにいれば良かったな。
「それにしても、突然柏木さんを訪ねるなんて」
「そんなに驚くことか? 新郎の俺が担当さんに挨拶するのは当然だろ? 凜々子ひとりに全てを任せる方がおかしいんだし」
「う、うん。そうなんだけど、突然でびっくりしちゃった」
小さく笑う私に千尋は口元を引き締めると、一瞬うつむいた。
それでも、気持ちを切り替えるように、私に視線を戻す。
微かにさえ揺れることのない瞳の力に吸い込まれそうだ、と見つめ返していると、そんな私を気遣うように千尋は口を開いた。
「凜々子がそう思うのも仕方ないけど、本当にごめん。俺、柏木さんに会って正直ショックだった」
「え? 柏木さんに何か言われたの?」
「いや、……まあ」
千尋は言いづらそうに言葉を濁し、不自然に視線をそらした。
柏木さんと打ち合わせでもして何かもめたのかな、と心配になるけれど、千尋も柏木さんも他人に対して強い態度を見せるタイプではないと戸惑った。
特に千尋は被写体となるモデルさんの気持ちを最優先に考えながら仕事をしているせいで、プライベートでも自分の感情をあからさまに出すことは滅多にない。
それは私に対しても同じで、初めて会った人ともめるなんて信じられないけれど。
「千尋の気に障るようなことがあったの?」
黙り込む千尋の様を怪訝に思いながら、問いかける。
すると、千尋は私を安心させるような笑顔を作り、口を開いた。
「柏木さん、俺を目の前にして『ほ、本物ですか? いつもいらっしゃらなくて、私、不安で……』って涙ぐんだ目で言われた」
「不安……だったんだ、やっぱり」
「やっぱり? 凜々子にも柏木さんは……」
「あ、えっと。大丈夫。柏木さんに悪気はなくて、まだ経験も浅いし、結婚式の打ち合わせに新婦ひとりでやってくるなんて滅多にないだろうから……あ、違う、別に千尋に文句を言ってるわけではなくて……」
「凜々子……」
思わず飛び出した私の言葉に、千尋は顔をゆがめ唇をかみしめた。
私の肩に置かれた手に力が入り、悲しみを含んだような痛みが伝わってくる。
「ほんと、俺、情けない。ごめん」
うなだれるように視線を落とし、小さな声が届く。
「千尋、そんなに気にしなくてもいいっていうか、忙しいのはわかってるから」
「だけど、凜々子がひとりで全部すすめてくれて、申し訳ないよな」
千尋はそれまで私の肩に置いていた手を離すと、足元に置いてあったタブレットが入っているかばんを拾い上げた。
相変わらず私に向ける瞳は悲しそうで、胸が痛い。
「仕事仕事で忙しいからって凜々子に全部おしつけて、ごめんな」
胸の痛みをさらに大きくするような千尋の沈んだ声に、私はどうしていいのかわからず、おろおろと軽く足踏み状態。
思わずその場の雰囲気を変えるような高い声が出てしまうけどそれもどうしていいのかわからない。
「いいの、私、大好きな千尋と結婚できるだけで満足だし、千尋が仕事を頑張っているのもちゃんとわかってるから」
「だけど、柏木さんから何か言われてるんだろ? 俺が打ち合わせに来ないから、苦情だとか……」
「苦情なんて言われてないし、柏木さんもわかっているから大丈夫。それに、今日千尋が挨拶してくれたなら、それだけでも嬉しいっていうか」
「凜々子……」
力なく私の名前を口にする千尋がなんだか小さく見えて、目の奥が熱くなる。
我慢しなきゃ。
今私が泣くわけにはいかないんだから。
付き合って長いけれど、千尋が私のことを心から気遣ってくれていると再確認して、嬉しくもある。
その嬉しさに水を差すような涙は厳禁だ。
私って本当に愛されてるんだ、とじわじわせりあがってくる感情に体中がぽかぽか温かくなる。
「ち、千尋。私、すごく幸せ」
私は千尋との距離をつめるように一歩近づき、俯くその目を覗き込んだ。
疲れが隠せていない隈に気付いて更に胸がいっぱいになる。
仕事が忙しいのに、無理してここに来てくれたんだ。
「千尋、いいの。私は千尋のお嫁さんになれるだけで満足。そのための準備をすることなんて幸せ以外のなにものでもないんだから。どんとまかせてよ」
「だ、だけど……」
「だからいいって。千尋が元気に仕事をしてくれれば十分。そして、私をちゃんと愛してくれるなら大満足」
想いを込めた力強い声でそう言うと、千尋の視線がわたしのそれとゆっくりと重なった。
そして、目の前にある愛しい人の表情が、次第に変化していく。
「え……?」
「だよな」
今まで苦しげに歪んでいた顔が、明るく緩んだものにあっという間に変わって……それはまるで別人のようで。
というより、普段と変わらない強気な千尋がそこにいる。
青ざめていた顔色も、血色がいいように見えるのは気のせいだろうか。
口元がにんまりと上がっていく様子はスローモーションのようにじわりと見え、その反面、私の脳内はこの全てを理解しようとハイペースで動き出す。
ちらりちらり。
千尋のいたずらっ子のような視線がくくっというくぐもった声とともに刺さって。
脳内作業終了の音が響いたど同時に私の表情も変わっているとわかる。
頬も熱くなっている。
きっと、千尋が見ている私の顔は赤いはずだ。
「ち、ちひろ……」
「ん? どうした? 俺の嫁さんになれるだけで満足な凜々子ちゃん?」
「ま、また……私を……」
「なんだ? 俺が凜々子を愛すればそれでいいんだろ? 俺はその希望に十分に応えているっていうかこれ以上愛するなんてできないほど凜々子のことが大好きで仕方がないんだけどさ。……まあ、まだ物足りないっていうのなら、このまま俺の部屋で、あ、アマザンホテルに戻って泊まるか? たまには贅沢するのもいいだろ。なんせ俺の嫁さんは一人で何もかもを頑張っている、俺のことが大好きでたまらない、俺しか欲しくないかわいい女だから、それくらい……痛っ」
「ち、千尋、また私をだました?」
「だますなんてこと、するわけないだろ? 凜々子に申し訳なく思っている気持ちは嘘じゃないし」
「だけど、さっきまで落ち込んで俯いて……言葉だって震えていたのに。
それが何? いつの間にか強気な言葉で上から目線だし。私が千尋を好きだからって。好きだからって……もうっ」
「え? 凜々子、俺の事が好きじゃないのか?」
「そんなこと言ってない。私は、ただ、千尋が私に気を遣って落ち込んでるんじゃないのかって思ってね、それで」
「それで、心から俺を愛しているって本音を言ってくれたんだよな」
「え……そ、そうだけど」
な、と視線で甘い言葉を向ける千尋。
いつもその瞳で私の心を大きく揺らしては、何も言えなくする。
本音だと言われて、確かにそれはそうなのだから、否定することもできない。
とは言っても、ここで千尋と遭遇して以来、私の気持ちを右往左往させてはそれを面白がっているのもわかりすぎて。
「本音だってわかってるならいちいち聞いてこないでよ」
拗ねた口調で言い返すしかできない私。
……それもまた、千尋の常套手段なわけで。
「もう、わかってるくせに」
その場で地団太を踏むなんていつ以来だろうかと情けなくなる子供じみたことすらしてしまうのも、千尋をうれしがらせるだけだとわかっていても、思わず。
「そんなに私をからかって面白い?」
げんこつで一発、千尋の胸にお見舞い。
それほどの力を込めていないせいか、「うっ」とふざけた声で応えるだけの千尋を再び睨む。
「その目、高校の頃から変わらないな。いつも俺に必死で訴えているような強さを向けられたら、もういちころ」
「いちころなんて嘘。私の方が先に好きになったもん」
「甘いな。凜々子を初めて見た入学式の日から、俺は凜々子の虜なんだから。確かに先に思いを伝えたのは凜々子だったけど、見つめ続けていたのは俺の方が長いんだ。ま、こうして言い合いをするのも楽しいけど、久々に会ったんだから、もっと楽しいことさせてくれよ」
「楽しいこと?」
「そう。俺、凜々子の体温、味わいたい」
そう言うが早いか、千尋の腕はあっという間に私の肩に回され、その勢いのまま今来た道を再び歩き始める。
「ちょ、ちょっとどうしたの、どこに行くの?」
どこに行くのか、わかっているような気もするけれど、それを口にするのは恥ずかしすぎて、慌ててそう聞いてみても。
千尋は早足で歩きながら、一瞬私を見ただけで大きな笑顔を浮かべて肩を揺らす。
見上げる横顔はとても優しくて穏やかで、幸せそうに輝いている。
仕事から戻ったばかりの疲れを感じるのも確かだけれど、それ以上の甘い甘い笑みが眩しくてたまらない。
なんだかんだと言いながら私は千尋のおもうがままに振り回されていると感じつつも、この素敵な男性の魅力からは逃げ出せない。
逃げ出そうとも思わない。
千尋は入学式の時に私を好きになったと言ってはいつも満足そうに目を細めるけれど、私はもっと前から千尋の魅力にやられているのだから。
逃げ出せるわけがない。
「のどが渇いた」
相変わらず急ぎ足の千尋にひきずられるように歩きつつ、私はあの時のことを思い出し呟いた。
「ん? アマザンで楽しいことをする前にお茶でも飲むか? あ、あのカフェ、凜々子がこの前雑誌で見ながら行きたいって言ってたよな」
ちょうど目の前の信号が赤に変わり、立ち止まると同時に千尋が大通りの向こう側を見つめる。
その視線をたどると、その言葉通り、私が雑誌で見つけて行きたいと騒いでいたカフェがあった。
記事には食事仕様のパンケーキがおいしいと書いてあったけれど、その時目にした写真が頭に浮かび、お腹がすいていると気づいた。
ホテルで打ち合わせする前に軽く食べた程度だったし。
スクランブルエッグがたっぷり添えられたパンケーキ、食べたい。
カフェをじっと見ながら歩いていると、「のどが渇いてるだけじゃなくて腹も減ってるようだな」と千尋のからかうような声。
「え……あ、その、違う……違わないか」
私の顔を見ながらくすくす笑う千尋に、ちょっと照れ笑い。
何もかもすぐに見透かされることにも慣れているし、それが心地よくもあるのは、付き合いの長さのせいだ。
そんな、千尋に対して隠し事ができない私だけれど、唯一秘密にしていることがある。
それは、披露宴でのサプライズのためにとってあり、今日、柏木さんにも相談済み。
『新郎様、きっとお喜びになりますね』
千尋の存在の有無を訝しがりながらも、明るくそう言ってくれた彼女、本物の千尋を目の前にした時、どんな顔をしたのか、見たかったな。
「ほら、行くぞ。腹が減りすぎて思考能力ゼロのお姫さまにでもなったか? いつもみたいに」
「お姫さまなんて、思ってないくせに」
「思ってるさ。高校の入学式で見かけて以来、俺の唯一のお姫様だぞ。凜々子が笑うだけで俺は自分がどれだけ幸せなのか実感してる。それに気付かない鈍感なところ、それが俺にはかわいいんだけどさ」
甘すぎる声で、頭とんとん。
自然にそんなことができる千尋の方こそ、王子……ううん、王様なんだけどな。
青信号とともに動き出した周囲の流れに紛れながら、私たちもカフェへと足を向ける。
結局、千尋はあのカフェに連れて行ってくれるようだ。
私が望むことなら大抵の事は叶えてくれる、優しすぎる千尋に惚れて、十年近く。
披露宴で私が千尋に惚れたきっかけを写真つきで公開しようと柏木さんに持ちかけた計画。
ふふ……。
とっくに大人のオトコになり、魅力をそこらじゅうにまき散らしている千尋を視界の片隅に確認。
そして出会った頃に見せられた、体の線もまだ細かった千尋を思い出す。
『荷物持ちますよ』
ブレザー姿の千尋が、駅の階段でベビーカーを抱えて右往左往していた若いお母さんに声をかけていた。
彼女の荷物を改札を抜けるまで運んでいた千尋の姿に惚れてしまったこと、ずっと秘密にしている。
その時、あまりにもスマートな様子に目を奪われ、というよりも、当時から見た目が整いすぎていた千尋に注目していた女の子は、構内で私だけではなかったけれど。
思わずスマホでパチリ。
隠し撮りしてしまったのはきっと私だけに違いない。
パソコンやCDにコピーし大切にしているその時の素敵な写真を、披露宴で公開して千尋をびっくりさせる計画は、柏木さんと私のトップシークレット。
その写真が披露宴会場で映し出された時に、
『私が千尋に惚れてしまった瞬間です。本当に男前だったんです』
そう言って、大きく笑う予定。
そして。
『私たちの高校受験の日、その日が、私にとっての運命の日でした』
その言葉に千尋は驚いて言葉を失う……はず。
そう、入学式の日に私を見かけて好きになったと言っては「どうだ」という表情で偉そうに笑うけれど、甘い甘い。
私が千尋に惚れたのはその一か月近く前なのだから。
春にはまだ遠い寒い日、受験生同士として同じ門をくぐった、私達が初めて会った日。
というより、私が一方的に千尋を見かけて惚れちゃった日。
それを知った時の千尋の顔が楽しみで仕方がない。
思わず緩む頬を必死で普段通りにしようと頑張っていると、千尋が何かを思い出したように声をあげた。
「あ、披露宴の招待客だけど、『尾賀せん』も呼んでくれってさ」
「『尾賀せん』? あ、三年生の時の担任の先生」
「そ。どこかから俺らが結婚するって聞きつけて、『絶対呼べ』って連絡があった」
「ふふっ。相変わらず強引」
「ま、世話になったし、同じクラスのメンバーも大勢来てくれるし、同窓会気分で呼ぶことにしたから」
「うん。いいよ……あ、そういえば、先生につけられた私たちのあだ名覚えてる?」
「忘れるわけないだろ?」
「だよね……」
「ああ。『炭酸水なふたり』だろ?」
「うん。言われた時には『は?』って思ったけど、今思えば言い当ててるよね」
思い出し笑いにも似た声で千尋に体を寄せると、私の言葉に答えるようにその体が更に熱を帯びる。
交差点を渡り、すぐそこに迫ったカフェの前にできている順番待ちの列を目指した。
さすが人気店、軽く二十人は順番を待っている。
「どうする? 仕事が忙しかったから疲れてるでしょ? また今度にする?」
とりあえず列の最後尾に並びながら、千尋を見上げた。
どうにか仕事を終わらせ駆けつけてくれたとなれば、疲れているに違いない。
カフェなら日を改めて来ればいいのだから、今日は諦めたほうがいいかもしれない。
けれど、千尋は店内を興味深く見ながら
「ここまで来て帰るなんて選択肢はない。というより、朝から何も食べてないんだ。
あのツナがたっぷり添えられたパンケーキを見たあとでこのまま帰るなんて、無理」
窓際の席に運ばれたパンケーキを熱い視線で見入る千尋は、「コーヒーも飲みたいし」と呟き、その向かいの席に置かれた生クリームたっぷりのパンケーキにも同じ視線を送っている。
「食事系とスウィーツ系、両方食べられそうだな。凜々子はどうする? 大好物のベーコンエッグが添えられたメニューもあるんじゃないか?」
「あ……うん、あると思うけど」
「俺にもちょっとちょうだい」
「……いいよ」
「プリンも有名なのか? 食べてるお客さん多いな」
「うん、お店の手作りプリンは有名って雑誌にも書いてあったよ」
「じゃ、それも食べよう」
明るくうきうきとした声で順番を待つ横顔を見上げて、ほっと息をつく。
千尋が肩にかけている思い出のかばんを見ても、さっきみたいに胸は痛まないことに自分の単純さを思い知る。
かばんをプレゼントした時のように、二人で会える時間がもっと欲しくて寂しくて。
仕事が忙しくなった千尋にわがままを言いそうになっていたのに。
こうして一緒にいるだけでそのわがままは影をひそめて私の気持ちは優しいものに早変わり。
こうして一緒にいられるだけで、これからしばらく会えない時間が続いても耐えられると思うから、本当、私は千尋の事が大好きなんだと改めて悔しく思う。
たとえ結婚式の準備のほとんどを私が進めて、柏木さんから同情の瞳を向けられても。
千尋の側にいられる、そしてお嫁さんになれる喜びの方が断然大きくて、そんなのどうでもいいやと笑い飛ばしてしまえるくらいに。
愛しているんだ。
「結婚式、楽しみ。……尾賀せんにも早く会いたくなっちゃった」
「そうだな、……しゅわしゅわとした刺激がなくなって同じ毎日を繰り返すことになっても、そこに残っているのは甘さ。だったっけ?」
思い返すように、千尋が呟いた言葉は、卒業式前に尾賀せんが私たちにかけてくれた言葉。
『しゅわしゅわとした刺激がつまった炭酸が抜けたあとの炭酸水は、単なる甘い飲み物になって見向きもされなくなるけど、しゅわしゅわは、甘いだけの時間を得るための前座なんだ』
並んで立つ私と千尋に言ってくれた。
『望んでも望まなくても、人生に浮き沈みという名の刺激はつきものなんだ。
それを通り過ぎたあとの甘いだけの時間、それを大切にしながら次の刺激に備えることが、人生だろ? しゅわしゅわがなくなった甘い炭酸水のような時間を大切にしながら、二人で幸せになれ』
卒業する私と千尋に贈られたはなむけの言葉は、当時の私達にはよくわからなかった。
炭酸の抜けてしまった炭酸水を飲みたいなんて思わないし、捨ててしまうのが普通だし。
けれど、年を重ねるごとに、刺激と言う名の人生の浮き沈みを幾つか経験し、甘いだけの時間の大切さを実感できるようになった。
思うように進めることができない自分の人生に俯きながらも、その時間を味わうことのない人などいないのだと気づき、そして。
刺激という人生の浮き沈みをうまくかわしながら甘い時間へとどう導いていくか、その手腕こそが人生の醍醐味。
たとえ千尋との付き合いを、寂しさの連続で思うように密なものにできなくても、それは終わりなく続くものでもなく、いつかは区切りを迎え甘い時間へと移り変わる。
それが、炭酸水と同じような、人生というもの。
千尋の仕事が軌道にのるまでの時間がしゅわしゅわな炭酸水だとすれば、たくさんの仕事の依頼を受けて忙しくしている今は、甘さばかりが残ってしまった炭酸水のような時間とも言えるけれど。
見方を変えれば、忙しすぎて会える時間が極端に少なくなった今こそしゅわしゅわな時間なのかもしれない。
しゅわしゅわというよりも、刺激がありすぎる落ち着かない時間。
そして、いつか必ず炭酸が抜けてやってくる甘いだけの時を待つ必要不可欠な時間。
その区切りが結婚であれば、それからの未来は甘いだけの時間……になるわけでもないか。
きっと、結婚した後にこそ、炭酸水の移り変わりを何度も実感するのかもしれない。
千尋と一緒にいても、それだけでは解決できない浮き沈みをどうやって乗り越えていくのか。
どうすれば甘い時間へとたどり着けるのか。
最後の瞬きのその時まで、きっと炭酸水のような時間を繰り返すのだ。
だからこそ、その時間の傍らには愛する人がいて欲しい。
浮いても沈んでも、愛する人の体温を感じる事が出来れば、踏ん張れるから。
「千尋、結婚式、楽しみだね。私、シャンパンタワーをしたいんだけど、いいかな?」
「ああ、凜々子が主役なんだから、好きなようにしていいんだぞ。俺はどんなに恥ずかしくても凜々子が隣で笑っていれば耐えてみせる。番傘さして、入場したっていいぞ」
「ふふっ。番傘ね。考えておく」
甘い時間を約束してくれた千尋との未来に想いをはせて。
パンケーキと炭酸……ジンジャーエールなんて、どうだろう。
普段は注文しない組み合わせだけど、なんだか今はあのしゅわしゅわを感じたくてたまらない。
そして、しばらくお店の前で並んでいるうちにあと数人で私達の番となった時。
千尋のスマホが着信を告げた。
ジーンズのポケットから取り出したそれを見ると。
「お、萌黄からだ」
「萌黄ちゃん?」
「ああ。ほら、紫ちゃんと一緒にカレーを作りましたってさ」
「うわー、エプロンかわいい。これ手作りだよねきっと」
「ああ、紫ちゃんが作ってたな」
「相変わらずいいお母さんだね」
千尋と一緒にスマホを覗き込みながら、千尋のいとこである萌黄ちゃんの笑顔に癒される。
私と千尋が一気に親しくなることができたあの病院で、生まれたばかりの萌黄ちゃんに出会ってから約十年。
萌黄ちゃんも小学生になり、母親の紫さんと父親の可偉さんの綺麗な見た目を受け継いだかなりの美人さんに成長している。
「あ、可偉さんもデレデレだ」
続く写真を見れば、萌黄ちゃんと並んでカレーを食べている、娘に夢中の男前。
どう見ても娘を溺愛しているとわかるパパ。
ポニーテールが似合っている萌黄ちゃんを優しく見つめながら、幸せオーラをこれでもかと放出中だ。
「あーあ。萌黄が彼氏でも作ったら可偉さんどうするんだろ」
「え? そりゃもう、泣くでしょ」
「だよな」
千尋と二人、その日を想像してくすくすと笑った。
千尋の叔母さんである紫さんとは私も何度も会い、その人柄を知る度惹かれていく。
彼女もまた、炭酸水のような人生を味わった人であり、炭酸の抜けた甘い甘い時間の大切さを実感している人だ。
そんな彼女を包み込む夫の可偉さんは、紫さんに言わせれば「手に負えない夫」らしいけれど。
そう話す口調はそれこそ幸せそのものだ。
「紫さんと可偉さんのような夫婦になりたいな」
思わず呟いた私に、千尋の口元がふっと緩む。
そして、耳元に感じる吐息。
「炭酸の抜けた炭酸水みたいな、甘い甘い夫婦ってことだな?」
それが私と千尋が目指す、未来。
そしてその時へ向かって、幸せを紡ぐ時間が柔らかに始まった。
可偉さん同様『手に負えない夫』になるに違いない、千尋に寄り添って。
【完】




