1_05
目の前では、引っ越し業者たちが手際よく段ボールを運び出している。
その様子をぼんやりと眺めながら、深は部屋の中央に立っていた。
あれから何度か花南と確認のメールをやり取りしつつ、いよいよ東京へ向かうことになった。
引っ越し先の住所は聞いているが、どうやらこのまま業者のトラックに同乗して向かえばいいらしい。向こうでは花南が待っていてくれるとのことだ。
そのおかげで、面倒な引っ越し作業も深の役目はほとんど終わったようなものだった。
荷物の大半が運び出され、部屋はみるみる殺風景になっていく。
長く過ごした自室の空気が薄れていくようで、深は少しだけ胸の奥に寂しさを覚えた。
最後にもう一度ゆっくり外を眺めようと、窓へ視線を向けかけたその時だった。
「すみません。大変お待たせしました。荷物の運び出しのほうが終了しました」
背後から声をかけられ、深は小さく肩を落とす。
「あぁ、そうですか……ありがとうございました。もう出発しますか?」
「はい。こちらの準備は大丈夫ですので、お客様がよろしければ」
少しだけ考える。
だが、このまま部屋に残っていると、いろいろなことを考え込んでしまいそうだった。
だから深は、すぐに出発を決める。
「はい。じゃあ、ちょっと待ってもらえますか? 大家さんに鍵を渡してきますので、その後、出発ということでお願いします」
忘れ物がないことを確認し、玄関の鍵を閉める。
深の荷物を積んだトラックは、午後3時ごろに東京へ到着した。
東京には何度か遊びに来たことがある。
だが、『港区』と記された看板のあるこの辺りは初めてだった。
周囲にはオフィスビルのような建物が立ち並び、その一角へトラックがゆっくりと入っていく。
敷地の入口には昇降式のゲート。その脇には警備員が立っていた。
セキュリティだけ見ても、かなり厳重なマンションらしい。
そして、警備員の手前数メートルの場所には花南の姿。
トラックに気づいた彼女は、とことこと小走りで近寄ってきた。
そのままトラックを止めると、後部座席の深に向かって手を振り、今度は警備員の元へ駆けていく。
何かを説明したあと、侵入を遮っていたゲートがゆっくりと開き始めた。
花南がこちらへ手招きする。
トラックは、そのまま敷地内へと入っていった。
「よっ、ひさしぶり!」
トラックから降りてきた深に、花南が気軽な調子で声をかける。
「うっす」
ここ数日のメールのやり取りのおかげか、出会った当初のようなぎこちなさはもう薄れていた。
深も自然と笑みを混ぜながら返事をする。
そして周囲を見回したあと、花南へ視線を戻した。
「出入り口はここでいいのか?」
「うん、こっから荷物入れてもらって。部屋は2階の205号室。角部屋だよん。はい、これ部屋の鍵とこの建物の入場用のカード。カードはさっきの警備員さんに出してね」
どうやら、このマンションは住人でもIDカードが必要らしい。
深は少し面倒そうな顔を浮かべながら鍵とカードを受け取ると、トラック内で待機していた業者へ声をかけた。
「じゃあ、205号室でお願いします。ここから搬入していいらしいんで」
業者たちがエンジンを止め、搬入作業を始める。
それに先立ち、花南と深は部屋へ向かった。
歩きながら、深が口を開く。
「ずいぶん厳重だな、このマンション。家賃はいくらなんだ?」
花南がくすっと笑う。
「まだ、国会議員が何人か住んでるからじゃない? あ、深君の同僚も何人かここに住んでるよ。今はみんな勤務中だから、ほとんどいないけどね。
家賃は9万5000円ぐらいだったかな……でも3LDKでこの値段は格安だね。さすが公務員の寮!」
「ちょっとまって! そんなにすんの? 家賃払えねえよ!?」
「うん、大丈夫だよ。あっ、そういえば給与待遇の話してなかったっけ? 余裕だよ。多分その8倍ぐらいもらえるから」
「まじ? ちょ……それ本気か?」
「うん、詳しい話は局に行ってからね。いろいろ書類とか書いてもらうね。そん時にでも詳しく話するね」
「まじかよ……」
単純計算で70万から80万前後。
深は思わず吹き出しそうになり、花南に気づかれないよう小さく笑った。
――そして同時に、以前花南に言われた言葉を思い出す。
……ごめんね。これから、あなたの人生本当に大変なことになっちゃう。それに。死ぬかもしれない……危険な任務もいっぱいあるし……
つまり、命の危険を伴う仕事。
(だから、それぐらいの給料なのか……)
複雑な感情が胸の中に広がる。
そんな思いを抱えながら、深は花南の後を追い、205号室へたどり着いた。
ドアを開けて中に入ると、ほどなくしてチャイムが鳴る。
引っ越し業者が荷物を抱えながら部屋へ入ってきた。
深は荷物の配置を指示し、その間、花南はスマートフォンで電話やメールを忙しなくこなしている。
おそらく、これから深が所属することになる組織の人間たちと連絡を取っているのだろう。
花南は深の1つ年上。
その組織でも若手に分類されるはずだ。
だが、丁寧な言葉遣いの中にも迷いのないテンポがあり、的確に指示を飛ばしていく姿は妙に格好よかった。
そんな姿に感心しつつ、深はタイミングを見計らって声をかける。
「花南さん。そういえば、この後俺はどうすればいいんだ?」
「うん、そのことで今メールしてたんだけど、どうする? 今日あたり局のほうにでも行ってみる?」
「まぁ、別にかまわないけど。引っ越しもなんか業者さんが全部やってくれているし。後1時間もしないうちに終わっちゃいそうだよ」
見知らぬ土地。
知らない組織。
分からないことだらけ。
ひとりでこの部屋に残るより、花南と一緒に動いたほうが不安も減る。
深はそう考えていた。
返事を聞いた花南が腕時計を見る。
時刻は午後3時半を少し回った頃だった。
「そうだね。それなら夕方6時ぐらいには局に行けるね。じゃあ、局に行くってことで」
そう言うと、花南は再びスマートフォンを操作し始めた。
それから1時間半後。
花南と深は、予定より少し早く霊能局へ到着した。
(うぅ……ここか)
高い塀に囲まれた建物。
門の脇には『防衛省』と書かれた看板が掲げられていた。
霊能局の存在はすでに公表されている。
だが看板がまだ変更されていないあたり、今回の発表は相当に急な決定だったのだろう。
そんなことを考えながら、深は花南の後について歩く。
建物の中へ入ると、前を歩いていた花南が振り返った。
「今日はまだIDカード無いから私の後についてきてね。ここのカードはさっきのマンションのカードと違うから気をつけて」
その先には、駅の改札のようなゲート。
脇には警備員が立っている。
花南が事情を説明すると、警備室内の別の警備員がパソコンを操作し、横並びのゲートのひとつが赤から緑へ変わった。
警備員がOKサインを出し、深はそのゲートを通り抜けた。
続いて花南が隣のゲートにカードをかざし、静かに通過する。
それだけの動作なのに、深の頭にはひとつの感想しか浮かばない。
(かっけぇ……)
思わず小声で漏らしたが、花南には聞こえなかったらしく、そのまま説明を続ける。
「とりあえず私の席に行こうか。書いてもらいたい書類関係があるから渡しとくね。
それから……地下の訓練場に行くね? もしかするとみんなまだいるかもしれないし。その後、ロッカーとか机の場所とか……パソコンも準備されてるかな……あっ、制服とかはちょっと遅れるって。服のサイズの書類提出してもらってからになるから」
「わかった。ところでトレーニングって何のトレーニングなんだ? 俺もするのか?」
その質問に、花南が「あっ」と声を上げた。
手をぽんっと叩き、少し大きめの声で謝る。
「あッ! ごめん! そうだった。言ってないよね?」
「何を?」
「いや、ほら、具体的な仕事内容……」
「うん。ここで働くってことしか……?」
深は当然のように頷く。
ここまでほとんど流されるように連れてこられた深だったが、そもそもなぜ自分が選ばれたのかさえ曖昧なままだった。
だが次の瞬間、花南の表情が曇る。
それを見た深も、自然と真顔になった。
「実はね、深君は戦闘員としての採用なの。簡単に言うとね。霊力を使って戦う系の仕事」
「戦う系って……」
霊力だの妖怪だの、もうそこは認めるしかない。
総理大臣本人が妖怪の存在を肯定していたのだ。
今さら否定するほうが難しい。
しかも、命の危険がある仕事だという話も聞いていた。
ただ深の認識では、“敵と戦う専門部隊”がいて、自分はその周辺に関わる程度――そのくらいだった。
まさか、自分自身が前線に立つとは思っていなかった。
そして、もうひとつ重大な問題。
「でも、俺、霊感とかねぇよ。幽霊とか見たことないし」
だが、その発言に花南は予想以上に驚いた。
「えっ、ホントに? おかしいな。ほかのみんなは最初から多少なりとも霊感あったよ。私はまったくないけどね!」
「まじかよ。どうすんだよ、おれ……」
試しに右腕に力を込めてみる。
当然、オーラなど出ない。
その様子に気づいた花南が、けらけら笑った。
「どうすんだろうね! あははッ! あっ、ここ! この部屋ね」
深の不安を見事に受け流しながら、花南がドアを開ける。
深は右腕を見つめたまま後に続いた。
――その時。
「おっす、深。久しぶりだな。これからよろしくな」
横から聞こえた声に振り向く。
清高だった。
「ちわっす」
知った顔を見たことで、自然と表情が緩む。
だが同時に、部屋の中にいた30人近い人間が一斉にこちらを見ていることに気づき、深は思わず後ずさった。
しかし清高はまるで気にした様子もなく話を続ける。
「もう、お前の噂でもちきりだぞ」
「何がっすか?」
「男の霊能士が入ってきたって」
「何でですか?」
そこで、妙な静けさが広がった。
部屋全体が一瞬で静まり返る。
少ししてから、清高が口を開いた。
「あれ? お前何にも聞いてねぇのか? 霊能士で男なの、お前だけだぞ。数百年に1人の逸材だとさ」
深は改めて周囲から向けられる視線を感じ取る。
「はぁ? 聞いてないんだけど? ちょッ、花南さん?」
慌てて振り返ると、花南はすでに自分の机へ向かっており、引き出しから封筒を取り出して戻ってくるところだった。
「んもう、清高さん。せっかくそこだけは内緒にしてたのにぃ」
残念そうに言ったあと、今度は深を見る。
「そうだよ。深君以外みんな女の子だよ。同期の20人の霊能士も。先輩の霊能士も。
そうだな。日本中で250人ぐらいかな。今いる霊能士は全部女性。
せっかく驚かそうと思ったのにぃ。ハーレムだぞう!」
だが深は額を押さえて崩れ落ちた。
「そんなサプライズいらねぇから……まじかよ……」
「はっはっは。まぁ、気をつけて頑張れよ! 女の集団は恐いぞう。はっはっは」
清高が肩を叩いてくるが、まるで慰めになっていない。
「わらえねぇっす」
ハーレムというより、恐怖である。
男同士より余計に気を遣う未来しか見えない。
そんな深を、清高は面白そうに見ていた。
しかし、清高はあくまで後方支援を行うバックアップ職。そして深は、まさに女性たちのど真ん中に放り込まれる立場だった。
にやにやとうざったい笑みを向けてくる清高の視線を無視しようと決めた深だったが、その時、2人のやり取りを不思議そうに見ていた花南が割って入った。
「そんなことないよう。みんないい子だよぅ。はいこれ、書類ね。見本も一緒に入ってるから、それ参考にして契約書書いてね。あっ、雇用条件の書類も入ってたかも。それ見れば詳しいことわかると思う。どれどれ」
花南は深に封筒を持たせたまま、中の書類をあさる。数枚を取り出すと、深に向けて広げた。
「これこれ。ほら、基本給17万6000円に危険手当65万。他にもいろいろ書いてあるから確認してね」
「ホントだ……」
この建物に入ってから驚くことばかりで、そろそろ反応するのにも疲れてきていた。だが、金の話となれば別である。
(まじだ……すげぇ……いや、でも……?)
それだけ危険だということでもある。
いつ死ぬかわからない――そんな話が急に現実味を帯び、深は無言で書類を見つめ続けた。
そんな深を横から眺めていた花南だったが、深が現れて以来、周囲のスタッフたちがずっとこちらに注目していることに気づき、小声で清高に話しかけた。
「やっぱ、ここの人たちにも紹介しといたほうがいいかな?」
「そうだな。一応しとくか。俺がやってやろう」
清高は周囲を見渡したあと、大きく息を吸う。
「はい、皆さん。ちょっと作業止めてもらっていいですか? 紹介したい人間がいます。ていうか、みんなもうこっち見てたか」
周囲の人間が笑いながらうなずく。
一通り笑いが収まったところで、清高は書類を見つめたまま固まっている深の肩をつかみ、少し前に押し出した。
「こいつ。噂になってた例の男の霊能士だ。名前は深。花南のグループ所属予定。ほら深」
「はいッ!?」
突然始まった紹介に驚きつつ、深が声を上げる。
「この辺にいるのは、お前たちの任務をバックアップするスタッフだ。花南みたいな戦略士もいれば、俺みたいな通信士もいる。備品調達とかしてくれる人間もいるしな。まぁ、一緒に動くグループみたいなもんだ。軽く挨拶しとけ」
深は姿勢を正し、周囲を見渡しながら口を開いた。
「あ……ただいまご紹介に預かりました、中川深です。よろしくお願いします」
周囲から拍手が起こる。
深は少し気恥ずかしさを感じながら頭を下げ、その場をやり過ごした。
「じゃ、次。訓練場のほう行こうか」
花南に促され、深はうなずきながらその後について行く。
そんな2人の背中を見送りながら、清高は内心でつぶやいた。
(……なんか犬みてぇだな、あいつ……苦労しそうだな……)
◇
その後、深と花南はエレベーターで地下へ降りた。
訓練場と呼ばれる部屋は、地下とは思えないほど広い。まるで体育館のような空間だった。
しかし、2人が中に入っても人影はない。
「あっ、あっちだ。ほら、行くよ!」
花南はガラス越しに見える隣のウェイトトレーニング室を指差した。
深も後について行く。
その部屋には春、瞬、礼子の3人のほかにも20名近い女性たちがいた。談笑したり、ウェイトトレーニングをしたりしている者もいるが、むしろ疲れ果てて動けずに休んでいる人間のほうが多い。
ウェイト室のドアを開け、花南が中を見渡す。
「いたいたッ!」
その声に10人ほどが振り返ったが、花南は気にせず奥へ向かっていく。深も適当に会釈しながら後を追った。
部屋の一番奥にいた3人組へ近づくと、花南が疲れ切った様子の彼女たちに声をかける。
「ねぇねぇ、みんな! 昨日言ってた子、早速連れてきちゃった!」
「うそ、早ッ! でもほんとに男の子なんだね」
瞬がまじまじと深を見つめる。
その視線に気まずさを覚えながら、深は花南へ声をかけた。
「えーと……この方々は?」
「この人たちが私の班のメンバー。つまり、深君と同じ班のメンバーだよ。この人が渡部春さん」
黒いロングヘアーの女性が軽く会釈した。
「よろしくね、深君」
深も会釈を返す。
「こちらが佐久間瞬さん」
「よろしく」
茶髪ショートの女性が軽く手を挙げた。
深も再び頭を下げる。
「この2人は年上だよ。年齢は言わないでおくから、自分で聞き出してね」
瞬が花南のすねを軽く蹴り、その場に笑いが起こった。
そして花南が最後の1人を指差す。
「で、この子が新山礼子ちゃん。歳いくつだっけ?」
「21ですぅ。よろしくお願いしますぅ」
礼子が深々と頭を下げ、深も慌てて頭を下げ返した。
「じゃあ、自分のひとつ下になりますね。よろしくお願いします」
そして花南が続ける。
「とりあえず、何かあったらこの人たちに聞く感じでお願いね。あと、この人たちは……」
花南は腕を回しながら周囲を示した。
そこには、彼らを囲むように10代から20代と思われる女性たちが興味津々といった様子で立っている。
深も振り返った。
「しばらく一緒にカリキュラムをこなすメンバー。私の担当じゃないけど、もしかしたらそのうち任務で合同チーム組むかもね」
女性たちに、深も軽く頭を下げて応じる。
その後、年齢や住んでいる場所、彼女の有無など他愛ない質問が飛び交い、しばらくすると多くの女性たちは元の場所へ戻っていった。
頃合いを見て、花南が3人に尋ねる。
「んでね、明日からなんだけど、どうしよう。深君っていきなり合流なのかな? 誰か長谷川さんに聞いた?」
ベンチプレス台にもたれながら、春が思い出すように答えた。
「あっ、なんか午前中はしばらく別カリキュラムらしいわよ。講習とかじゃない?
でも午後はまだ未定って言ってた。本人に聞いてみたら? まだいるんじゃないかな」
「そうですね。じゃ、長谷川さんのとこ行ってきます。みんなはもう帰るんですか?」
今度は瞬が答える。
Tシャツから見える両腕にはところどころ青あざができていたが、訓練によるものだろうと深は何も聞かないことにした。
「うん。休憩終わり。やっと動けそう……今日も2時間くらいで全滅だったのよ。私たちさっきまで完全にダウンしてたし。長谷川さんは相変わらずピンピンしてるし。ほんと自信なくすって」
「そうね。深君にも会えたし、帰って寝るとするわ。もう疲労困憊」
春が落ち着いた声で続ける。
その間に、瞬がへたり込んでいる礼子の腕を引っ張った。
「ほらっ、礼子。動ける?」
「はい……なんとか……」
礼子がよろよろと立ち上がる。
その様子を見ながら、深はどれほど過酷な訓練なのかと不安になった。
腕中にあざを作っている瞬も含め、詳しく話を聞きたい気持ちはあったが、花南が別れの挨拶を始めたため、深もそれに合わせてウェイト室を後にした。
「ね? いい人たちでしょ?」
部屋を出ると、花南が歩きながら尋ねる。
「まぁね。なんとかやっていけそうだよ。次は? その長谷川さんって人?」
「うん。新人育成トレーニングの担当官の人。さっきの人たちをあそこまでへとへとにさせた人だよ。でも見たらびっくりするよ。すごい綺麗な人なんだから」
深は軽く笑った。
「期待しとくよ」
◇
その後、2人はエレベーターで上階へ戻り、『長谷川』と書かれた名札の掛かった部屋の前に到着した。
花南がノックすると、すぐに中から落ち着いた声が返ってくる。
「どうぞ」
返事を聞いた花南は、わずかに背筋を伸ばした。
「失礼します」
「あら、花南ちゃん。珍しいわね。どうしたの?」
「はい。実は、明日から入る新人を――」
そこまで言ったところで、花南は室内にいたもう1人の人物に気づいた。
「あっ、サイさんもおられたんですか。今、大丈夫でしょうか? 新人を連れてきたんですが」
深も続いて部屋へ入る。
小綺麗に整えられた室内を見回す暇もなく、“サイ”と呼ばれた人物が笑みを浮かべた。
「なぁに、ちょうどよかったわい。今、まなみとその話をしておったところじゃ。どれ……お前さんが中川深か?」
「はい……」
深も自然と居住まいを正して答える。
戦いだの霊能だのを扱う組織に、目の前のような高齢の女性が必要なのか――そんな疑問が一瞬頭をよぎった。
だが同時に、彼女から漂う“普通ではない何か”も、深は確かに感じ取っていた。
威圧感。
恐怖。
あるいは、長年積み重ねられた重みのようなもの。
それらが入り混じった不可解な空気が、じわじわと肌を刺してくる。
深は無意識に息を浅くしながら、サイの視線に耐えていた。
そんな様子を見抜いたのか、サイがしわだらけの顔をほころばせる。
「そんな怖がらんでもええよ。わしはサイ。ただの占い師じゃ」
その言葉に、花南がすかさず付け加えた。
「日本で一番の、ね。深君を勧誘したのも、この人の占いなんだよ。ほら、いたでしょ? あの図書館に“シン”っていう青年」
深は小さくうなずいた。
同時に、自分がなぜこの老人に恐怖を覚えたのか――そして、それをなぜ簡単に見抜かれたのかを考えていた。
「それで、こちらが長谷川まなみさん。明日からお世話になる人」
「よろしくね、深君」
(……確かに綺麗だ)
深は軽く頭を下げながら、長谷川を見つめる。
サイに向けていた警戒心が、一瞬で吹き飛びそうになるほど整った容姿だった。
柔らかな声色も相まって、同性異性を問わず人を惹きつけるタイプなのだろう。
――そして、その視線の先で。
深は長谷川の左腕が肘から先ごと欠けていることに気づいた。
生まれつきなのか。
それとも任務で失ったのか。
気にはなったが、さすがに聞ける空気ではない。
「それでじゃ。深について、どういうカリキュラムで進めるかを話しておったんじゃが」
「それはちょうどよかったです。私も、その件で長谷川さんに相談しようと思ってまして。紹介も兼ねて連れてきました」
そう言いながら、花南はどこか安堵したような顔を見せた。
どうやら、2人の話し合いを邪魔してしまったのではないかと気にしていたらしい。
ウェイト室では気楽そうだった彼女も、ここでは少し緊張しているようだった。
すると長谷川が立ち上がる。
「まぁ、立ったままもなんだし、座りなさい。お茶でも入れましょうか?」
「ありがとうございます。それじゃ、お言葉に甘えて」
深と花南は、サイと向かい合う形で席についた。
しかし、姿勢こそ落ち着いていても、深の内心は逆だった。
むしろ警戒心は強まっている。
初対面の相手が2人いるから――というわけではない。
深はそこまで人見知りする性格ではなかったし、さっき地下で二十人近い女性に囲まれた時に比べれば、よほど楽な状況だ。
花南の緊張が伝染したわけでもない。
原因はひとつ。
サイから漂う、あの異様な気配だった。
さらに、席についた後もサイがじっと深を観察するように見つめ続けているせいで、余計に落ち着かない。
視線の置き場に困っていた深へ、サイがゆっくり口を開いた。
「驚いたのう。確かに占いで見た顔じゃが……霊力はまだまったく備わっとらんらしい。
深よ、お前さん今まで心霊体験の類に遭ったことはないじゃろ?」
「はい。まったく」
「でも、今、わしから得体の知れん気配を感じとる。違うか?」
「……はい。たしかに」
答えながら、深は少しだけ笑った。
今自分が感じている不気味さを、“それが普通だ”と説明してもらえたことで、逆に安心できたのだ。
少なくとも、自分だけがおかしいわけではないらしい。
「そうじゃろ。まぁ、よい」
サイがそう言ったタイミングで、長谷川がお茶を運んできた。
「それで、今サイさんとも話してたんだけど……実際に会ってみると、本当に霊力ないのね。これじゃ、明日からの合流は厳しいわね……」
困ったように眉を下げる長谷川。
その表情さえ妙に絵になっているが、深は別のことを考えていた。
(このばあさんから感じる気配……これが霊力ってやつなのかもな……)
霊力という言葉自体、まだ実感はない。
だが、サイ――いや、もしかすると長谷川からも漂っているこの異様な圧迫感こそ、それなのかもしれなかった。
「はぁ……」
曖昧に返事をした深をよそに、サイは長谷川へ話を向ける。
「まなみ、あれはどうじゃ? 結界術班の儀式。霊力を無理やり目覚めさせるやつがあったじゃろ」
「はい……確かにありますけど。四方結界になりますから、結界術班が四人必要ですね。最短でも……一週間ほどはかかるかと」
途中から会話の内容が完全に理解不能になる。
隣を見ると、花南までぽかんと口を開けていた。
(おい花南さん……そっちも分かってないのかよ……)
「今、東京には一人いるかどうかじゃろ?」
「はい。恐山に数人、富士山に数人、あと島根の出雲に十人ほどいます。ちょうど監視当番の交代時期なので、来週には半分ほど戻ってきますが」
「なら、その後じゃな。まなみ、手配を頼むぞい」
「はい。ふふっ、深君? かなりきついわよ。覚悟してね?」
急に話を振られ、深は慌ててうなずく。
「は、はぁ……。でも、何をするんです?」
その問いに、サイはお茶をすすりながら笑った。
「心配せんでええ。死にはせんわい。ちょいと強引なやり方なだけじゃ。かっかっか!」
まったく安心できない。
「それじゃあ、今週はどうしましょうか。午前中は講義、午後は筋トレかしら。私も午前中なら時間取れるし、午後は他の子たちの訓練もあるしね。それでいい?」
花南が慌てて返事をする。
「あっ、はい。大丈夫です。あと……事務作業もまだ残ってますので、もしこちらで必要になった場合は……午後なら、お借りしてもいいでしょうか?」
長谷川はやさしく微笑んだ。
「やっぱり花南ちゃんはしっかりしてるわねぇ。午後ならいつでも連れて行っていいわよ。サイさんも、それで大丈夫ですか?」
「おう。よろしく頼むぞ、まなみ。深もな」
深は素直にうなずいた。
「それじゃ、わしは占術班の会議があるけぇ失礼するわい」
サイが杖をつきながら立ち上がる。
3人も慌てて席を立ち、花南が扉を開けた。
「それじゃあ、花南ちゃん。またな」
「はい」
花南が頭を下げる。
サイは、いつの間にか廊下で待機していた黒服のスタッフ数人を引き連れ、そのまま去っていった。
(うわ……護衛付きかよ。やっぱ相当偉い人なんだな……)
だが、ここへ来てから驚くことばかりだったせいで、深はもはや何も口にしなかった。
扉が閉まる。
再び席についた花南が、ふぅと息を吐いた。
そんな彼女とは対照的に、長谷川はまったく変わらない調子で笑う。
「しかし、本当に驚きねぇ。男の子とは……やっぱりこれくらい潰しがいがないと。腕が鳴るわ!」
満面の笑み。
だが、サイがいなくなって気が抜けたのか、花南がすかさずツッコミを入れた。
「長谷川さん、それ普通に怖いですよ。壊し屋じゃないんですから……」
「あら? 人は潰れてなんぼでしょ? ねぇ、深君?」
しかし、地下で見た訓練風景を思い出していた深は、その問いに笑えなかった。
「あの……長谷川さん。他のメンバーって、今どんな訓練してるんです?」
「あら? まだ詳しく聞いてなかったの?」
「さっき地下には行ってきました。みんなヘトヘトでしたけど……」
深が本気で不安そうな顔をすると、それが面白かったのか、長谷川がくすりと笑う。
「今は実戦訓練の第二段階ね。私相手に、全員で自由にかかってきなさいって感じかしら」
「はっ!? 全員相手に戦ってるんですか?」
「まぁね。あの子たち、まだ二時間くらいしか持たないけど。チームワークもまだまだだし」
「二時間ずっと……?」
「やっぱり長谷川さんって、すごいんですね……」
深が引きつった顔で言うと、花南が感心したように続ける。
「長谷川さん、昔はB級霊能士だったんだよ」
「左手こんなになっちゃったけど、まだD級の新人には負けてられないわ」
「その、BとかDって?」
長谷川が説明を始める。
「新人は基本D級。そこからC、B、Aって上がっていくの。
戦闘術士なら戦闘能力、占術士なら占いの精度とかね。ちなみにサイさんはA級よ。日本に十人もいないわ」
「はぁ……」
(占術士……?)
初めて聞く単語ばかりだ。
深は結局、また曖昧にうなずくしかなかった。
「まぁ、詳しくは明日から教えるわ。……あ、ちょっと待ってね。会議室空いてるか確認するから」
長谷川は窓際の机へ移動し、パソコンを操作し始める。
しばらくしてから、こちらを振り返った。
「明日から朝九時、第七会議室ね。今週いっぱい予約取れたわ」
「あ、はい」
深は湯呑を持ち上げかけていた手を止め、先に返事をしてからお茶を飲んだ。
「午前中は講義、午後は筋トレ。筆記用具とジャージ、運動靴を持ってきてね」
「通勤時の服ってスーツですか?」
今度は花南が答える。
「ううん。私たちはスーツだけど、深君たちは私服で大丈夫」
「あぁ、わかった」
「まぁ、花南ちゃんのほうでも用事あるでしょうし。深君を借りる時はメールしてちょうだいね」
「はい。わかりました」
長谷川が席へ戻り、三人はそろってお茶をすすった。
その後もしばらく雑談を交わしたあと、深は花南に連れられて自分の席へ案内された。
部屋の中には、四~五台ごとに区切られた机が二十組ほど並んでいる。
ここが『戦闘術士』たちの部屋らしい。
もっとも、今はほとんど無人だった。
地下で会ったD級戦闘術士たちはすでに帰宅しているらしい。
「ここ。深君の席ね。隣と前の席二つが、さっきの三人の席」
深の机にはノートパソコンが一台だけ置かれている。
対して周囲の席には書類や筆記用具、可愛らしい小物や写真などが並び、いかにも女の子らしい雰囲気だった。
「このパソコンも?」
「うん。深君の。パソコン得意?」
「まぁ、それなりに」
「じゃあ大丈夫だね。あとでメールアドレスとか、ネットワークのパスワード教えるよ」
「あぁ、了解」
「じゃ、次」
花南は再び深を促した。
廊下へ出たところで、彼女が腕を組む。
「あと案内してないの……ロッカーか」
そうして二人は男子更衣室へ向かった。
同じ階だったため、すぐに到着する。
「ここが男子ロッカールーム。着替えはここね。多分もう“中川”って札ついてると思う。シャワーもあるよ」
「至れり尽くせりだな……準備早すぎだろ」
「本来、霊能士は一般職と別なんだけどね。深君、男一人だから一般職側なの。残念だったねぇ、春さんたちと一緒に着替えられなくて」
「あぁ、そうだな。実に残念――」
言い終わる前に、ふくらはぎへ鋭い痛みが走った。
「っってぇ!? 何すんだよ!」
どうやら蹴られたらしい。
(いや普通に痛ぇよ!? あんた回し蹴りで俺吹っ飛ばしたこと忘れてねぇだろ……)
しかし花南は、氷みたいに冷たい声で言う。
「別に。……じゃ、次」
そのまま歩き出す花南の後を、深は黙ってついていく。
「あと食堂くらいかな。一階ね」
「……はいはい」
なぜか花南の背中からも、サイに似た妙な圧を感じる気がして。
深はできるだけ余計なことを言わないようにした。
(マジでまだ痛ぇ……)
その後、食堂の場所まで案内されたところで、本日の見学は終了となった。
「じゃ、今日はこのくらいかな。ごめんね、遅くなっちゃって」
「いや、こっちこそありがとな」
「あたし、まだ仕事残ってるから」
「俺も帰って書類書くわ。じゃ、また明日」
「うん。おやすみ」
そうして二人は別れた。
――二時間後。
アパートへ戻った深は、書類を書き終えると、そのままベッドへ倒れ込んだ。
今日一日で、いろいろなことを知った。
そして同時に、自分がとんでもない場所へ足を踏み入れてしまったことも実感していた。
部屋の電気を消し、何となく夜空を見たくなってカーテンを開ける。
だが窓の外には高層ビルが並び、空などほとんど見えなかった。
「……ちっ」
小さく舌打ちし、深は再びカーテンを閉める。
そのまま布団へ潜り込むと、疲労に引きずられるように、ゆっくり目を閉じた。




