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8/8

第8話 物語は始まったばかり



「桐島さん、今日は早いね」


店長の声に、なつめは会釈を返した。


開店三十分前の栞堂。篠宮はまだ来ていない。


メガネはかけている。店長の好感度44。心の声:『おっ、気合い入ってるな。何かあるのかな』


何かある。大いにある。


なつめは裏口を開けて、段差に座った。しおりはまだ来ていない。春の朝の空気は冷たくて、深呼吸すると肺が痛いくらいだった。


ポケットの中のスマホが震えた。あかりからのメッセージ。


「昨日は楽しかった! またご飯行こうね」


昨日、あかりとカフェに行った。メガネはかけていった。あかりの好感度は61から66に戻っていた。心の声:『やっぱりなつめと一緒が楽しい。取られちゃうのかと思って寂しかったけど、大丈夫だった』


取られちゃう。あかりはそう感じていたのだ。


「こちらこそ。あかりのパンケーキ三段食いは見応えあった」


送信。既読。すぐに返信。


「食べ盛りなんだよ!!!」


好感度は見えないけれど、ビックリマーク三つに込められた感情はわかる。


足音が聞こえた。


顔を上げる。篠宮が裏口の角を曲がってきた。いつもより少し歩幅が狭い。


好感度22。前回の別れ際から、さらに上がっている。会っていない間にも数値は動くのか。


心の声:『来てる。早いな。——何か言うつもりだ、あの顔は』


バレている。顔に出ている。八年間乙女ゲームをやり込んできた人間のポーカーフェイスがこの程度かと思うと情けないが、もう隠す気もなかった。


「おはよう、篠宮くん」


「……ああ」


篠宮が隣に座った。段差の上、十五センチの距離。過去最短。しおりが来たら間に割り込めないくらい近い。


なつめはメガネに手をかけた。


外した。


数字が消える。心の声が消える。篠宮の横顔がただの横顔になる。朝日を受けて、まつげの影が頬に落ちている。メガネをかけていた時は気づかなかった。


「篠宮くん」


「なんだ」


「この前の続き、話していい?」


篠宮は小さく頷いた。


なつめは手の中のメガネを見下ろした。べっ甲風のフレーム。このレンズ越しに、たくさんのものを見た。あかりの好意。田中くんの好感度詐取。店長の企み顔。しおりの篠宮びいき。そして篠宮のマイナス15。


「私、配信者なの。乙女ゲームの攻略チャンネルやってる」


「知ってる」


「このメガネで、好感度と心の声が見えるの」


「……は?」


篠宮の声が素で裏返った。知らなかったのだ。配信者であることは知っていた。でもメガネの機能は知らなかった。


「好感度って、あの、ゲームの?」


「そう。頭の上に数字が出る。あと、相手が心の中で思ってることが文字で見える」


沈黙。


篠宮がゆっくりとなつめを見た。その目がじわじわと見開かれていく。


「……俺の、心の声も?」


「うん」


「全部?」


「読めた分は、全部」


さらなる沈黙。篠宮の耳が赤くなり始めた。首まで広がっていく。顔面にまで到達しそうな勢いだ。


「ちょっと待て」


「うん」


「"嫌いなままでいたかったのに"とか」


「聞こえてた」


「"ちょっとかわいいと思った"も」


「聞こえてた」


篠宮が両手で顔を覆った。


初めて見る仕草だった。あの無愛想な篠宮蓮が、古本屋の裏口で、両手で顔を隠している。耳の先から湯気が出そうなくらい赤い。


「……最悪だ」


「ごめん」


「謝るな。余計最悪だ」


顔を覆ったまま、篠宮がうめいた。


想像してみてほしい。片思いの相手に心の中の独り言を全部聞かれていたと知った時の絶望を。しかもその独り言には「かわいい」が含まれている。取り消し不能。ロード不可。


なつめは申し訳なさと、それに勝る別の感情に胸を押されていた。


「だからこのメガネ、今日は使わない。篠宮くんの心の声を盗み読みして有利に立つのは、もうやめる。私の口から全部話す」


篠宮が指の隙間からなつめを見た。


「……聞く」


「最初は攻略対象だと思ってた。好感度マイナス15で心の声が表示されない、見たことないパラメータの男が現れた。攻略しがいがあるって、それだけの理由でバイトに応募した。最低でしょ」


「そうだな」


「でも途中から変わった。好感度がゼロになった時、攻略が進んだから嬉しかったんじゃなく——嫌われてないんだって、それだけで涙が出た。あの瞬間、ゲームの数字じゃなくなった」


なつめは膝の上のメガネを握りしめた。


「私、篠宮くんのことが好きです。攻略とかじゃなくて。好感度とかじゃなくて。メガネ外して、何も見えない状態で言いたかった。だから今言う」


風が吹いた。裏口の木の葉が揺れた。遠くで電車の音がする。


篠宮は顔を覆っていた手を下ろした。


まだ赤い。でも、目はまっすぐだった。


「お前さ」


「うん」


「配信で言ってたよな。"恋愛は確率論"って」


「……言ってた」


「嘘じゃん」


篠宮の口元が、ほんの少しだけ歪んだ。笑ったのだ。初めて見る、篠宮蓮の笑顔だった。


「確率も効率も関係なかった。お前がメガネ外して泣いたから。それだけだ」


なつめはメガネをかけた。


もう怖くない。見えても見えなくても、答えは同じだから。


好感度72。


心の声:『やっとゲームみたいな顔やめたな』


涙が溢れた。笑いながら泣いた。最悪の顔だと思う。ゲームならCG差分にもならない。


篠宮が目を逸らした。耳は赤いまま。


「……泣くな」


「泣いてない」


「目から水出てる」


「汗」


「目から出る汗はない」


UIに表示が現れた。画面中央に、見たことのないウィンドウ。



>ROUTE CLEAR:篠宮 蓮


金色の文字が視界を横切って、すっと消えた。


なつめは息を呑んだ。


クリアした。攻略じゃない。でもクリアした。この人と向き合えた。メガネでもゲームでもなく、自分自身で。


「篠宮く——」


言いかけた瞬間、UIが痙攣した。


視界の端に、新しいウィンドウが開く。


>NEW ROUTE UNLOCKED


好感度表示が一斉に書き換わっていく。栞堂の方向。大学の方向。今まで背景でしかなかった人々の数字がざわざわと蠢き始めた。


「……え、ちょっと待って」


>攻略対象② ■■ ■■——LOCKED


「ちょ、なに。なんで。終わったんじゃないの?」


メガネが新しいルートの存在を告げている。二人目。知らない名前。まだロックされている攻略対象。


「これ、まだ続くの……?」


篠宮がなつめの顔を覗き込んだ。


「どうした?」


「いや、あの、なんでもない。なんでもないんだけど——」


なんでもなくない。全然なんでもなくない。


ようやく一人クリアしたと思ったら、次のルートが解放された。


乙女ゲームか。乙女ゲームだった。


最初からそうだった。このメガネは世界を乙女ゲーにするのだ。


しおりが裏口にやってきて、みぃと鳴いた。二人の間に割り込んで、篠宮の膝に乗った。


なつめはメガネのフレームに触れた。


レンズの向こう側に、まだ見ぬ物語が映っている。



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