29 真冬のポニーテール
また来週な、と言って終業の鐘が鳴り終わるや否やもはや名物のように去っていく雨夜に気を取られていた俺は、真冬もまた教室から姿を消していたことに気づかないでいた。真冬の性格上、例えどんなに急いでいたとしても何の挨拶もなしに帰宅はしないだろう。それに、机の脇には真冬の鞄がかかったままだ。それらを総合してまだ校内に残っているかもしれないと踏んだ俺は、鞄を自席に残したまま教室を後にした。
雨夜とは違って、真冬の行き先に心当たりはまるでない。あるとすれば部室だろうが、茶道部が活動を行っている礼法室の場所はかろうじて知ってはいても近づきがたい。実際覗いてみようとしたはいいけれど、部室に明かりはなくそもそも鍵がかかっていて今日は活動日ではないようだった。
いよいよあてがなくなったので仕方なしに教室へ戻ろうと、せっかく降りてきた階段を億劫ながらも一歩踏み上がったところで。俺の視界に見慣れない光景が飛び込んでくる。
ひらりと宙にたなびく、一筋の毛並み。
階段の隙間から微かに見て取れた上階の景色に、俺は無意識のうちに一段飛ばしで階段を駆け上がっていた。
ただひたすらに、あんなに重かった足が軽い。なぜ俺はこんなにも躍起になってチラリと見えた人影を追っているのか、まったく疑問にも思わなかった。人生で一度も冴えたことのない直感が走れ、と。俺の脳に直接司令を与え続けているのだ。
駆け上がったところで、周囲には探し求めていた姿はない。闇に溶けるように伸びる廊下も同様だった。
息を切らしながらも頭に血を巡らす。付近の特別教室には立ち入っていないはずだ。扉は閉まっているがガラガラと引く音を耳にしていないからだ。
ともすれば、だ。さらに上階は俺たち一年A組の教室がある。それ以外の選択肢は俺には存在していなかった。
再び階段を駆け上がる。もう大分馴染んだ階段に息を切らすなんてそうそうあるものではない。ましてや、たかだかもう一階層分の距離なのに。今はなぜだか、呼吸が乱れて仕方がない。
辿り着いた教室の前で、深呼吸を一つ。乱れていた呼吸の正体は、不規則な心臓の高鳴りだった。
扉越しにでもわかるくらい、教室の中は静まり返っていた。あたりにはもう人の気配も少ない。この教室を開けて誰かいようがいまいが、置きっ放しにしていた鞄を回収しに来ただけだ。そうだ。人影なんて、きっとまやかしだったんだ。自然と脳が生み出した幻想だったんだ。俺はただ、無駄に学校探索をしただけ。ただ、それだけ。
なぜだか自分自身に言い訳したい気分になって、心の中で呟く。まるで、教室の扉に手をかけない理由を探すように。
だが、いつまでもここに突っ立っていたって埒が明かない。たまたま通りかかった生徒に怪訝な目を向けられても今後の学校生活に響く可能性がある。
何も覚悟する必要なんて一つもないのに。俺は緩慢になった手を目の前の取っ手にかけ、指の一本一本に力を込める。カラカラと、控えめに扉が開いていく。
「あっ。シノ」
教室には誰一人として存在していない。ただ、一人を除いては。
すらりと華奢でいて、芯の通った凛とした佇まい。腰にまで伸びる手入れの行き届いた漆黒の髪は、今や見慣れない姿へと形を変えていた。
「まだ残っていたんだね。誰にも見られずに帰れるかなって思っていたから……恥ずかしいな」
鞄を手にして振り返る姿に、俺は思わず目を細める。窓から差し込む西陽によるものなのか、それとも。
「家に帰ったらすぐにお茶会の準備に取りかからなきゃいけないから、髪の毛をそのままにしておけなくって。それなのに手間取っちゃって、もうこんな時間。本当はもっとちゃんとまとめなきゃいけないのに」
俺があまりにも呆然とある一点を眺め立ち尽くしていたせいか、普段とは異なる装いの説明を受けてしまった。
誰にも見られたくなかった恥ずかしさの理由はわかっている。実際にこの姿を見てそれは確信へと変わった。お茶会とやらはきっと着物なのだろう。それなら衿の抜きようによっては誤魔化しが効くのかもしれない。制服、しかもセーラー服ではそうもいかないようだ。
「俺は、また見たいけどな」
黙りこくっていた俺が、ようやく発した言葉。その大きな瞳をさらに見開いて、俺の言葉の真意を探る。
「……何でもないよ」
俺の発言に深い意味はない。ただの独り言。続きを待たれても気の利いた会話なんでできやしないから、流れをぶった切るしかないだろ。
「急いでるんだろ? 今なら人少なそうだし、タイミングとしてはちょうどいいんじゃないか? また、来週な」
「あっ。そ、そうだね」
俺の代わりに立ち尽くしてしまったから、目覚ましを投げかけてやる。
「また、来週。じゃあね、シノ」
小さく手を振ると、長い髪を翻して教室を去っていく。
真冬のポニーテールから覗く白い肌のうなじには。沈丁花が小さく集まって、白い花を遠慮がちに咲かせていた。




