23 能力の抑制
「いやあああああああああ」
真冬が再び恐怖の叫びを上げると、ドサッと膝から崩れ落ちた音が聞こえた。大丈夫かって、声をかけたかったけど。今の俺は情けないことに声帯が上手く機能していないみたいだ。
カシャン、という乾いた音とともに鷹司は大きく後退りをして俺たちとの間合いを取る。そんなこと、俺にはもう気に留める余裕もなく。深々と刺さったらしい右の脇腹を恐る恐る見下ろす。
「……あ、れ……?」
俺の疑問は、それもそのはず。血はおろか、傷口さえそこには存在していなかったのだ。
確かに、改めて意識を集中してみると、まったくもって痛みを感じることはなかった。人は突如刺されたら驚きと戸惑いで痛みさえ感じなくなるのかと感心さえ覚えたものだが、そんなわけないよな。刺されたと思った箇所を何度も擦ってみたりつねってみたりしたけれど、無傷だ。
「アッハッハ! 死んだと思ったァ?」
俺への殺人未遂行為を行った張本人が、耳をつんざく高音で嘲笑する。
「まっさかあ。この僕が貴様如きの虫けらで、この手を汚すはずないでしょう?」
鷹司の笑いはとどまることを知らず、手持ち無沙汰になったその手はナイフをクルクルと器用に手の中で回していた。
「これはオモチャなんだよ、オモチャ。玩具を遊ぶためのオモチャ。……でも、僕の本気の度合いはわかってくれたよね?」
左手で握るナイフの切っ先に、右手の人差し指を押し当てる。すると、その右手指は血を見ることなく、むしろナイフの刃先がカシャンという音を立てて柄に収納されていった。俺が刺されたと思った後、鷹司が身を引いたときに聞こえたカシャンという奇妙な音の出どころは、このナイフのオモチャだったのか。
「……これ以上、真冬さんに近づかないでくれるかな? 今度はお遊びなんかではなく、本当に。貴様の命を奪うつもりでいきますからね」
いやらしい笑みを浮かべたまま、その眼には感情はなく冷たく俺を突き刺していた。ふと、俺の隣でうずくまる真冬に気がついたのか、一転して優しく慈愛に満ちたといった表情を貼り付ける。
「おやおや。真冬さん、お可哀想に。こんな穢らわしい虫如きに御心を痛めているとは。……それならばまた機会を改めることにいたしましょうか」
酷く名残惜しいという感情をあらわにして真冬をその眼に焼きつけたかと思ったのを最後に、鷹司は既にその場から消え去っていた。
「……真冬っ! 大丈夫かっ?」
俺はハッと我に返ると、隣の真冬に慌てて声をかける。
隣でうずくまっている真冬は、左手で自身の首の裏を強く押さえつけるようにしてその場に縮こまっていた。首の裏、うなじと言ってもいいのだろうが、その場所が強く疼いて動けないようにも見えた。呼吸する間隔が短く、息苦しそうだ。
「……シノ……」
俺の声がけに何とか応じようと真冬はその重くなった身を立ち上がらせようとする。だがそれも叶わず、ぐらりと地面に身体を傾かせてしまう。
「真冬ッ!」
俺は咄嗟に腕を差し出して倒れる真冬をかろうじて受け止める。気を失った人間は想像以上に重さを感じると聞く。腕にはズシリと例外なく重みを感じると覚悟したものの、真冬のあまりの軽さに拍子抜けしてしまう。
そして、脳内に響くは、あの春香さんの言葉。
『……真冬を、よろしく頼む』
「俺は、真冬を……」
真冬をこのままにしてはおけない。真冬の家の敷地内とはいえ、俺は真冬の住居まではわからなかった。もたれかかる真冬の体勢を試行錯誤して抱きかかえると、俺は歩き出した。こんな形で誰かをいわゆるお姫様抱っこするとは思ってもみなかったがな。
向かう先は、春香さんと初めて引き合わされたあの離れだった。そもそも、俺にあてのある先はそこしかなかった。
春香さんがそこにいるかもわからない。何時間も待ちぼうけを食らうかもわからない。つまりは賭けのようなものだった。俺の家まで連れて行くには外面があまりにも不審者すぎるし、雨夜に事情を説明して迎えに来てもらうにもアルバイト中であろうから気が引けた。それに俺は、個人的な理由から春香さんに、管理者に。会って話をしなければならないと思ったのだ。
辿り着いた離れの周りの桜は、ほとんどが葉桜となっていた。先程の突風から一変して、皐月を迎えようとしている柔らかな風が、狂い咲いていた桜の花びらを一枚一枚ゆっくりと引き離していた。緑の隙間から覗く桃色の花弁の生も残り僅かと見える。
腕の中で眠る真冬を抱きかかえ直し、改めてその離れと向かい合う。前回は真冬が戸を開けて春香さんを呼んでくれた。今回は目先にある扉がすんなりと開いてくれるとは思ってもいない。だからといってここで引き下がるわけにもいかない。
「よく来たの」
声を張り上げてみようかと思案していたところに、どこからともなく風に乗って聞き覚えのある声が耳に届く。声のする方角に目を移すと、桜の木にゆるりともたれかかる春香さんの姿がそこにはあった。いまだに緑を見せないその桜の木は、春香さんの姿を隠そうとせんばかりにひたすらに花びらを散らして薄紅の欠片を揺蕩わせていた。
「……春香さん」
突如として現れた春香さんの姿に、俺は驚きよりも安堵の念の方が勝っていた。春香さんは俺と真冬の両方を視界に捉えた後、離れの入口を見遣る。
「そこに突っ立っておらずとも、入るがよいぞ」
俺が再びその扉に目を向けると、閉ざされていたはずの入口は俺を迎え入れるように開かれていた。桜の木のもとには、春香さんの姿はもうなかった。




