人魚の伝説
太陽が真上から照りつけ、アスファルトの上に湯気が立ち昇るのではないかと思うほど、熱気が地面からむわりと立ち上る。
ヴェルナードの夏は、海に面していることもあって湿度が高い。じっとしているだけで、肌にじんわり汗がにじむ。
――この国の人たちは、いったいどうやって暑さを凌いでいるんだろう。
そんな疑問を口にすると、コルティアナさんが笑って答えてくれた。
「海風を魔法で涼しくしたり、魔法石で室内の温度を下げたりするんですよ。でも今は、雨不足の対策に魔力を優先して使っているので、暑さまでは手が回らないんです」
なるほど、と頷いてから私は、手にした日傘をもう一度見上げた。
「それにしてもこの日傘、とても良いですね。暑さが和らぎます」
母が荷物に忍ばせてくれた、折りたたみ式の晴雨兼用傘。最初こそ物珍しげに見られたけれど、今ではすっかりコルテのお気に入りになっていた。
お城の研究員らしき白衣の男性までが、まじまじとその構造を観察していたから、この世界ではよほど珍しいものなのだろう。
「それでも暑い……日傘をさしてても、地面からの照り返しが辛い〜……」
私はへたり込みそうな声でつぶやいた。
「ヴェルナードは今が一年でいちばん暑い時期ですから。あと一、二週間の辛抱ですよ」
「こんなんじゃ、コルタリアに嫁に行けないぞ!」
ぐったりしている私の横を、コルティアナさんとエミル様が軽やかに歩いていく。涼しい顔をして、まるで真夏とは思えない足取りだ。
……さすが、凄腕メイドと王子様。
最初から作りが違うのだと思わなければ、やっていられない。
フォルトナの森への出発が三日後に迫った昼下がり。
私は初めて、城下町へと足を踏み入れていた。
母さんがバッグに詰め込んでくれた荷物のおかげで、これまでの暮らしにはさほど不自由はなかったが、季節が変わり新調する物も増えてきたためだ。
けれど、なぜか一緒にいるのはコルティアナさんとエミル様という、やや異様な組み合わせ。
成人の儀に出席していた各国の来賓たちは、ほとんどが帰国し、落ち着いた空気が戻りつつある。
ようやくコルティアナさんと予定が合って、ふたりで買い物に出かけるはずだった。
浮き立つ気持ちで城門を出ようとしたそのとき、まさかのタイミングでエミル様と鉢合わせてしまったのだ。
以前、足の手当てをしてもらったときに見えた、あの底の知れない影を思い出して少し身構えたが、彼の満面の笑顔がそれを一瞬で吹き飛ばした。
そして、彼はさも当たり前かのように言葉を放つ。
「面白そうだな、俺も一緒に行っても良いよな?」
――いやいや、普通そこは遠慮する場面では……?
とは思ったものの、行き先を素直に答えてしまった私も悪い。
結果、本当に付いてきてしまったエミル様は、まさに「図々しい王子」の称号にふさわしかった。
成人の儀で見かけた限り、綺麗なご令嬢はたくさんいたというのに。
どうしてよりによって私と一緒に買い物したがるのだろう。
やっぱりこの王子、相当な物好きに違いない。
ジロリとエミル様を睨むように一瞥すると、彼はすかさず肩を寄せてきた。
「なんだ、惚れたか?」
にやりと笑いながら、私の肩に体重を預けてくる。
「いえ、まったく。暑いので、離れてください」
ぴたりと距離を取ると、エミル様は面白そうにこちらを見ていた。
ちなみに、護衛はどうしたのかと尋ねると、「影から見守っている」とのことだった
一応安全は確保されているらしく、買い物の邪魔をしないという条件付きで同行を許すことにした。
「わぁ、とっても綺麗な街並みだね」
「ふふ、私もそう思います」
断崖絶壁に築かれたヴェルナード王国。
その中でも、城下町とフォルトナの森周辺にはわずかに海岸があり、海へと出ることができる。
町の中には海へ注ぐ川がいくつも流れていて、川沿いには色とりどりの家々が並んでいた。
漁業が盛んなこの国では、家の前に船を停めて川から直接海へと出られるようになっているらしい。
私たちが向かったのは、海から少し離れた場所にある商店街。
服屋、本屋、雑貨屋……ここに来れば、たいていの物は揃いそうだった。
「マリ、気になる物があれば、俺が買ってやるよ」
「結構です。マリ様には、ほら」
コルティアナさんが、ずしりと重そうな金貨袋をエミル様に見せつけるように差し出した。
王 様からいただいた褒美の一部を彼女に預けていたのだが、今日はそれを持ってきてくれていたらしい。
エミル様に対して終始強気なコルティアナさんの態度に、見ている私の方がハラハラしてしまう。
「はいはい、落ち着いて」
私はふたりをなだめながら、ふと視界に入った水色の表紙に目を留めた。
そこに描かれていたのは――私と同じ髪色の女の子。そしてその下半身は、二股に分かれた尾びれのある魚の姿。
そう、それは私が知っている“人魚”だった。
「人魚ですか」
コルティアナさんが私の隣から覗き込み、表紙に目をやる。
「コルティアナさん、人魚を知ってるの?」
「もちろんです」
「そういえば、最近は見かけなくなったな」
エミル様も話に加わり、本を手に取ってページをぱらぱらとめくる。
すると、彼の表情がふと曇ったことに気づいた。
「エミル様……どうかされました?」
「……なんでもないよ。なぁ、この本、気に入ったなら俺が――」
「お待ちください。それは私の仕事ですっ!」
コルティアナさんがさっと本を取り上げ、素早くお会計を済ませて戻ってきた。
どこか誇らしげな様子に、私は「ありがとう」と受け取るしかなかった。
「この本の人魚、マリ様に似ていますね~」
「……髪の色だけだよ」
どちらかと言えば、母さんの方が似ている。
それは口にせず、曖昧に頷いた。
「人魚は、どこに行ってしまったのでしょうね」
コルティアナさんがぽつりと呟く。
「えっ、人魚っておとぎ話の中の存在じゃ……ないの?」
私の一言に、ふたりはまるで雷に打たれたような顔をした。
どうやら、この世界では人魚の存在は常識らしい。
ヴェルナードに面した海域は、人魚にとって非常に住みやすい環境で、かつては漁師や海岸の人々が頻繁にその姿を目にしていたという。
「人魚たちはこの国にとても友好的で、海からの侵略者を防いだり、荒れる波を静めたりしてくれていたのです」
「俺も七年前、留学中によく見かけたよ。あれは……本当に美しかった。だが、今は姿を見せないとは。どうしてだ?」
「分かりません。ある日、突然いなくなったのです。それ以降、徐々に雨が降らなくなり、海が荒れ始めました」
「そんなはず……!」
エミル様は胸に手を当て、明らかに動揺していた。
そこまで人魚に思い入れがあるのだろうか? そう思っていた矢先、彼は胸元に手を当てながらぐらりと体を傾けた。
その瞬間、焦げ茶色の影がすっとエミル様の肩を支えた。
短く刈られた焦げ茶の髪と瞳を持つ、細身の青年――そして、エミル様と同じ褐色の肌。
「ナキ、悪いな」
「ご気分がすぐれませんか?」
「あぁ……」
青年は静かに頷くと、何の苦もなくエミル様を担ぎ上げ、こちらへ向き直った。
「マリ様、申し訳ありません。エミル様はお先に城へお戻りになります」
「おいナキ、勝手に決めるな……!」
「はいはい、行きますよ。では、失礼いたします」
私たちの返事も待たず、ナキさんはエミル様を軽々と担いだまま、城へと続く道を歩き始めた。
ぽかんと口を開けた私たちは、その後ろ姿をしばらく見送るしかなかった。
「……エミル様って、人魚がいなくなっただけで倒れるほど好きだったのかな?」
「さぁ。あのような軽薄な方は、正直あまり得意ではありませんね。それに比べてナキ様は……とても素敵でした!」
「へぇ~? コルティアナさんはああいう人がタイプなんだ」
「ど、どちらかと言えばの話ですよ! さ、さぁ、気を取り直してお買い物を続けましょう!」
顔を真っ赤にして慌てるコルティアナさんの様子に、自然と笑みがこぼれた。
こんな何気ないやり取りが、どこか懐かしい――日本で友達と過ごしていた日々を思い出す。
ふと、胸元に触れると、母がくれたパールのネックレスがじんわりと熱を帯びている気がした。
不意に吹いた潮風が、日傘をかすかに揺らす。
私は足を止め、海の方へ顔を向ける。町を流れる川の先に広がる海。その遥か沖合いに、何か……大きな波のようなものが一瞬、姿を現した気がした。
「……今の、なに?」
自分でも呟いた声に驚きつつ、じっと目を凝らすが、もう何も見えなかった。たぶん見間違いだ。でもなぜか、胸の鼓動が速くなっている。
「マリ様?」
コルティアナさんの声に我に返る。
「ごめん、なんでもない」
首を振って歩き出そうとしたそのとき、胸元のパールのネックレスが、ぴくりと震えた。
「っ……!」
明らかに気のせいではない。ネックレスが、何かに反応している……?
母がこのネックレスをくれたときの言葉を、私は思い出す。
『これは本当は、あなたのものだったのよ。でも、ずっと私が預かっていたの。――絶対に外しちゃダメよ。これはね、鍵にもなるから』
思考の奥底で、じんわりとした不安と期待が混ざり合っていく。
そのとき、商店街の奥から、小さな子供たちの叫ぶ声が聞こえた。
「わああっ! 水が飛んだー!」
「すごーい! 魚が空飛んでるー!」
「飛んでいないわよ、跳ねただけでしょ!」
声のする方を見ると、小さな広場の中央にある噴水の中から、数匹の銀色の魚が勢いよく飛び跳ねていた。ぱしゃん、ぱしゃん、と水しぶきを上げ、太陽に照らされてまるで光の粒が空中に舞っているようだった。
不思議な光景だった。魚にしては、大きすぎる。しかも、まるで誰かに導かれているような動きで、水の中をぐるりと円を描いている。
「……普通の魚、じゃないよね?」
誰にともなくつぶやく。
そのときだった。再び、パールのネックレスが小さく震えた。まるで、何かに呼応しているかのように。
思わず駆け寄ろうとすると、コルティアナさんが慌てて止めた。
「マリ様、行きましょうか?さすがにずっと日向にいるのは身体にさわります」
「えっ、あ、うん……」
コルティアナさんに促されるが、視線だけは噴水から離せなかった。
「フォルトナの森に行けば、もしかしたら何か分かるかな」
呟いた声は、誰にも聞こえなかったはずなのに。
「ええ、きっと……」
すぐそばで、コルティアナさんが静かに答えた。
それは、いつもの冗談まじりの明るい声ではなかった。
彼女もまた、何かを感じているのだ。言葉にはしないけれど――。
空は相変わらず雲ひとつなく、容赦ない日差しが降り注いでいた。
[私とよく似た人魚姫]




