北の王イヴァン・グレゴリエフ
会議が終わったあとの応接の間には、ひとときの静けさが満ちていた。
王と王妃が並んで退室し、他の者たちもぞろぞろと席を立つ。ルナ様が私に意味深な視線を送り、レオナルド様はラルフと小声で何かを話していた。
「マリ。少し来てくれ」
背後から呼びかけられて振り返ると、アルベルト様が鋭い眼差しでこちらを見つめている。
その表情は、いつになく真剣だった。何かを押し殺しているようにも見える。
「あ、はい……?」
戸惑う暇もなく、その腕に引かれるまま応接間を出て、人気のない小部屋へと連れていかれる。
アルベルト様がドアを開け、私を中に促して入れる。
ガチャッ。
扉が閉められ、鍵がかけられる音が静かに響いた。
「え……?」
驚いて振り返ると、そこには今まで見たこともないほど険しい表情のアルベルト様が立っていた。彼は無言のまま、一歩、また一歩と距離を詰め、私の肩を力強く掴んだ。
「アルベルト様……? どうしたんですか?」
「……あのにフクロウが、君の最後の記憶だなんて、認めない」
「えっ、それってどういう――」
意味がわからず問い返した瞬間、彼は私の肩をぐいっと引き寄せた。鼻先が触れそうなほど顔が近づき、彼の綺麗な瞳が目の前に迫る。
「待って、待ってください! それって……っ!」
頭に浮かんだのは、さっきトルビネ様に奪われた唇のことだった。それを消し去るために、自分も……という意味だと気づいた瞬間、私はパニックになって、思わず両手で彼の胸を突き出していた。
「む、無理です! ダメですっ!」
叫びながら力いっぱい押すと、彼は少し驚いたように足を止めた。
「……どうして?」
静かに問いかけるその声には、怒っている様子はなくて、ただ純粋に「なぜ?」と不思議がっている響きがあった。だからこそ、私は返す言葉に詰まってしまう。
(だって、私たち、そんな関係じゃないよね!?)
そう言いかけて、ハッと思い出す。私と彼は、形の上では「婚約者」という関係になっていたのだ。王族の彼にとって、これは当たり前のことなの……?
言葉をなくして固まっている私を見て、アルベルト様の表情が、どこか安心したようにフワッと優しく緩んだ。
「やっぱり、絶対にだめですーー!!」
私は恥ずかしさの限界を超えて叫んでいた。その瞬間、胸の奥から何かが溢れ出すように、抑えていた魔力が一気に爆発した。
天井がきらめき、室内がふわりと白く染まる。
……雪だった。細かく舞うそれは、どんどん強く、激しさを増していき、部屋全体がたちまち銀世界に覆われていく。
「……これは、やりすぎだな」
アルベルト様の呆れたような声が、雪の静けさに溶けて聞こえた。
私はただ、呆然とするしかなかった。
「ご、ごめんなさい……」
肩を落として謝ると、彼は小さくため息をつき、けれど目元にはどこか優しい笑みが戻っていた。
「いや、違うんだ。やりすぎたのは俺だ。……どうかしていた。……未熟で、情けない」
「そんな……そんなことないです!」
私がそう反論したその時、光が走った。
ぱっと現れたのは、フォンテだった。ひょいっとアルベルト様の頭の上に飛び乗る。
「フォンテ! ちょっと、そこ降りてっ!」
さすがに王子様の頭の上はまずいと手招きすると、フォンテはくるりと羽を翻しながら私の手のひらに舞い降りた。
“うーん、マリの魔力、ちょっとだけトルビネ様に流れてる。 アル様はそれを止めたかったの?”
「「え……?」」
私とアルベルト様の声が、ぴたりと重なる。
“マリとトルビネ様が無意識に契約しちゃったね。 だから、アルベルト様は、マリの魔力が向こうに行かないように、ちゅーで止めようとしたんだよね?”
フォンテはいつもの調子で首をかしげながら言った。
「そ、そうだったんですか!? 知らずに、私……」
アルベルト様は、沈黙したままだ。
けれど私は、その沈黙を肯定の証だと感じ取った。
「やっぱりアルベルト様はすごいです。私、まったく気付きませんでした!」
「あ、あぁ……」
どこか動揺しているアルベルト様を不思議に思いながら、私はフォンテに向き直った。
「でも、アルベルト様にお願いするのは恥ずかしいから……フォンテ、できる?」
“うんうん。契約解除だね、もちろんまかせて! ちゅっ!”
フォンテが私の唇にそっと触れた瞬間、あたたかい光が広がった。
体の奥がすっと軽くなるのを感じる。
“おっけー! これでもう、マリの魔力はトルビネ様には行かないよ。もーほんとに気をつけてよね!”
「ありがとう、フォンテ」
すっかり安心した私は、アルベルト様の方を見た。
「アルベルト様、いつも本当に、ありがとうございました」
「……あ、あぁ。無事に解除できて、本当に良かった」
アルベルト様はどこか気まずそうな顔で、私の方を見ようとはしない。
私は改めて、雪まみてしまったこの部屋をどうしようかと考え始めた。
すると、アルベルト様が「すぐにメイドたちに頼む」と言ってくださった。
まだどこか気恥ずかしさが残っていた私は、その言葉に甘え、そそくさと部屋を後にした。
――その直後。
「フォンテ、助かった」
声をかけると、すぐに返ってきたのは意地悪な笑みと、軽口だった。
“いぇいぇ。……でもさ、アル様って、本当に我慢できないんだね?”
くすくすと笑いながら、フォンテがからかうように言う。
「ああ……マリのことになると、どうも自制がきかない。……なぜだろうな」
予想外の素直な返答に、フォンテは思わず目を見開いた。てっきり否定されると思っていたのだ。
“ふふ……なんでだうねぇ?”
冗談めかした口ぶりの中に、どこか優しさがにじむ。
――この小さなやり取りを、マリは知ることはない。
――――――
部屋を出て、緊張を解こうと人気のない廊下を選んで歩いていた。
ふと、角を曲がった先で人の気配を感じ、立ち止まった。
黒ずくめの従者を従えて歩いてくるのは、北の王――アルマ帝国の皇帝だった。
その傍らには、見送りのためか、物々しい雰囲気を纏ったフランチェスコ・バルディ宰相が立っている。
夏でも氷点下になる地域もあるという、極寒の大地を治める男。
北の帝王、イヴァン・グレゴリエフ王。
刈り上げた銀髪に、感情を映さぬスノーグレーの瞳が印象的で、どこまでも静かで、冷たい存在感を放っていた。
私は慌てて頭を下げる。
成人の儀の際に、彼がこちらをじっと睨んでいたことを思い出す。
あの視線の意味はわからなかったけれど、胸の奥に何か鋭いものが刺さったような感覚は今でも鮮明だった。
水が豊かで魔法資源に恵まれたこのヴェルナード王国に、北の国が強い関心を寄せていることは知っている。
そんな思考をよそに、グレゴリエフ王は私のすぐそばで歩みを止めた。
「グレゴリエフ王、先を急ぎましょう」
バルディ宰相にしては珍しく、その声色には隠しきれない焦りが滲んでいた。
様子が気になり顔を上げると、グレゴリエフ王の胸元で、一際大きな装飾が不気味に光を放っていた。
それは、北の国の象徴である「凍てつく獅子」を象ったプラチナのネックレスだ。獅子の瞳には、万年雪を閉じ込めたような鈍色の魔石が埋め込まれ、彼の激しい拍動に合わせて冷たい光を撒き散らしている。
「……雪だな」
低く、地響きのように響く声。
真夏のヴェルナードにおいて、決して降るはずのない白。私の肩にふわりと舞い落ちた一片の雪を見つめ、グレゴリエフ王はスノーグレーの瞳を鋭く細めた。
「この季節にそれを纏うとは、奇妙な巡り合わせだ」
目が合った。
スノーグレーの瞳は氷のように冷たいのに、どこか深淵を覗くような不気味さもある。
「いずれ、貴女を我が国に招く日が来るかもしれない」
その言葉に、私の思考は追いつかなかった。
何を意味しているのか、理解しようとしたそのとき――。
「何か、我が国の者の振る舞いに、御気に障るようなことがございましたか」
静かな声が、グリゴリエフ王の背後から響いた。
振り返らずとも、その声がラルフのものだとすぐにわかった。
彼はいつの間にか近づいてきていたらしい。
控えめながらも芯のあるその声は、場の空気をわずかに変える。
グリゴリエフ王の手がわずかに止まり、スノーグレーの瞳が後方をちらと見る。
だが彼は特に表情を変えることもなく、マントを翻して再び歩き出した。
返答はなかった。
けれど、その沈黙には何かを確かめるような間があった気がする。
足音も立てずに、黒衣の従者たちとともに王は去っていく。
振り返ることもなく、冷たい余韻だけを残して。
「ご気分が優れないようでしたら、私で良ければお部屋までお送りいたしましょう」
そう言って、ラルフが私の隣に静かに立った。
従者としての所作は変わらないのに、その佇まいからは、どこか私を守ろうとする意志のようなものが滲んでいる気がした。
そのまま私は、彼に付き添われて自室へと戻った。
ラルフは言葉を交わすこともなく、ただ静かに寄り添ってくれていた。
部屋に戻ると、コルティアナさんが控えていてくれた。
私の顔を見るなり、彼女は小さく眉を寄せて、すぐに駆け寄ってくる。
「……マリ様、どうなさいましたか?」
その穏やかな声に、張りつめていた何かがふっとほどけた。
私はその場に崩れ落ちる。
スローモーションのように流れる光景の中で、頭を床に打ったらきっと痛いんだろうな――と、他人事のように思っていた。
けれど、そうなる前に柔らかな感触が私を受け止めた。
いつもは冷静な翠の瞳が、大きく揺れている。
「マリ様!?」
ラルフが、取り乱している。
そのことが驚きで、一瞬だけ息が詰まった。
「……コルティアナ、医師を!」
私の異変にすぐさま反応しようとするラルフに、コルティアナさんが落ち着いた声で言った。
「少し、落ち着いてください。マリ様は大丈夫ですよ」
コルティアナさんのゆったりした口調に身体の緊張がほぐれていく。
そして、やっとの思いで唇を動かす。
「……ねむい、です」
ラルフは一拍置いてから、静かにため息をついた。
「……そうですか」
そして、まるで当然のことのように、すっと身をかがめる。彼の腕が私の背と膝の下にまわされ、ふわりと体が宙に浮いた。
思わず、声が出る。
「ちょ、ちょっと……!」
しかしラルフは何も言わず、私をしっかりと支えながら、寝台の方へ歩いていく。
驚きと、くすぐったいような感情に戸惑っていると――彼がぽつりと呟いた。
「……今朝と反対ですね」
その言葉に、私は一瞬きょとんとして、それから思い出した。
そういえば、今朝ラルフはトルビネ様の影響で動けなくなり、私が強制的に寝台に寝かせたのだった。
その寝台にそっと下ろされ、掛け布をかけられながら、私はなんとも言えない気持ちになっていた。
彼の指先はいつも通り静かで丁寧だ。
けれどそこには、必要以上の、けれど優しさとしか言いようのないぬくもりがあった気がする。
お礼を言おうとラルフを見上げた。
けれど彼は、何も言わず、静かに部屋を後にした。
――お礼は、あとで言おう。
そう心の中で呟き、私は目を閉じることにした。
今朝から、いろいろなことがあった。
トルビネ様の突然の訪問。
王の前での会議。
アルベルト様に、北の帝王。
そして――ラルフの眼差し。
一晩寝ただけで、これらすべてを受け入れられるとは思えない。
魔力もたくさん使ったせいか、身体の芯から疲れている。
それでも目を閉じれば、まるで何かに包まれるような、あたたかな静けさがあった。
そのまま私は、深い眠りへと落ちていった。




