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「そんなわけねえだろ!」
ぼくが突然、叫んだのは、日本史の授業中だった。
直前まで教師の横山先生の話を聴いて耐え忍んでいた。
「自分の身を守るため、井伊直弼は多くの反対派の志士を処刑した。自己中心的にもほどがあるよな。これが世にいう安政の大獄だ…」
ここでぼくの限界がきた。
ぼくが幼い頃から公園で遊ぶのを見守っていてくれたのは、その公園にある井伊直弼さんの銅像だった。
その井伊さんが、幕末の江戸を揺るがす大悪人だったなんて。
信じられるわけがない。
だからぼくは叫んでしまったのだ。
2年生になってから、このクラスの授業中にぼくが声を荒げたのは、初めてだった。
横山だけでなく、クラス中の生徒がぼくを見てポカンとしていた。
横山はぼくに質問した。
「鳥居、どうした?」
ぼくは自分が授業中に熱くなり叫んでしまったことが恥ずかしくなって、急速に後悔しはじめていた。
「すみません…。掃部頭が、そんなひどいことをした人だなんて、信じられなくて…」
「お、おまえ井伊直弼が掃部頭だったことをよく知ってるな。この教科書にはどこにも書いてはいないが…何か大老に思い入れでもあるのか?」
50代も中盤から後半にさしかかっているであろう、満員電車の中で会っても気づきそうにない、どこにでもいそうな顔をしたおっさんに追及されても、ぼくはもう脱力して、答える気さえしなかった。
「いえ、なんでもないです」
「そうか。鳥居が何を考えているのかはわからんが、これが歴史の事実だからなあ。井伊大老が、自分の強硬な態度に反対して処罰した対象には、水戸藩出身の徳川斉昭、のちの徳川最後の将軍・徳川慶喜らがいた。さらに越前藩士の橋本左内や、長州藩士の吉田松陰はとらえられて死刑になった。処罰の対象は数十人に及んだんだ」
横山先生は、大老・井伊直弼によって短期間に数十人もの公家、大名やその家臣が処刑されたという安政の大獄について、補足説明をした。
「じゃあ皆川、教科書231ページの11行目からの一文を読んでくれ」
指名された皆川絵美は、席を立ち、ななめ後ろの席にいるぼくをちらっと見てから、教科書の指定された箇所を読んだ。
「この厳しい弾圧に憤激した水戸脱藩の志士たちは、1860年=万延元年、井伊を桜田門外で暗殺し=桜田門外の変、その結果、幕府の独裁は崩れ始めた」
公園で銅像として見守っていてくれた井伊掃部頭を、ぼくは自然とヒーロー視していた。
公園に銅像が立つくらいだから、歴史上の偉人なんだろうと思いこんでいた。
どうやら、反対のようだ。
井伊大老という人物がムチャクチャな独裁政治をおこなったことで、長く続いた江戸幕府は一気に崩壊へと向かい、明治維新につながっていくらしい。
その時、ぼくは史実へのショックに気をとられていて、クラスメイトであり同じ演劇部の皆川絵美による音読の声が震えていたことに、気づいていなかった。
放課後、教室の掃除を終えて演劇部の部室である視聴覚室へ行くと、ひと足早く到着していた市川隆博が、さっきの日本史の授業中のことを、部員に楽しそうに報告していた。
「トリーってさ、クラスでは感情的になることなんてないのに、いきなり授業中に叫び出すんだもんなあ」
そしてぼくの突然の叫びをマネする。
「そんなわけねえだろ!」
「うるせーよ」
ぼくは視聴覚室のドアから入ってすぐ、いちばん後ろの机にカバンを置いて、その席に腰かけた。
市川はすでにジャージに着替えて、いつでも柔軟体操ができるように準備万端だ。
演劇部では、市川と皆川とぼくの3人が、2年3組のクラスメイトだ。
視聴覚室には、市川のほかに4人の部員と、演劇部OBで部活のアドバイザーとして来てくれている大学生の谷口澪さんがいた。
澪さんは、いわゆる女子大生だ。
共学のこの高校には約半数の女子生徒がいるが、彼女たちとは違う、憧れのお姉さん的な幻想を、ぼくは澪さんに抱いていた。
ごく薄いイエローのカーディガンを羽織り柔和な笑みを浮かべている上品なロングヘアの澪さんは、3つか4つ年上なだけなのに、何もかも知り尽くしているような大人に見えた。
澪さんを除いて6人の部員がすでに集まっているのは、出席率の悪いこの部活にしては上出来だ。
「じゃ4時から発声練習ね。それまで各自ストレッチなり道具の準備なりしといてよ」
とりあえず部長らしく指示を出しておく。
4時まであと15分。それまでにあと2〜3人は来るのではないだろうか。
「イッチー、皆川は?」
「ああ、まだ来てないね。なんだ、トリーと一緒に掃除当番なのかと思ってたら違うのか。ま、そのうち来るだろ」
市川は「イッチー」で、ぼくは鳥居だから「トリー」と呼ばれている。皆川は「皆川」だ。
昨日の部活で、秋の文化祭とコンクール湘南地区大会で発表する公演「リーンカーネーション」の配役が決まった。
「リーンカーネーション」は、顧問の川島匠先生が書いた台本だ。
主役の映画研究部部長・藤沢一成役が僕になり、その恋人で同級生の大船みゆき(おおふなみゆき)を皆川が演じることになった。
今日からいよいよ、台本の読み合わせをしようか、という話になっていた。
「鳥居先輩、どうして授業中に叫んじゃったんですか?」
1年生で副部長の和田美保が、好奇心旺盛そうに瞳を輝かせて近づいてきた。
「え、まあ、うん…」
どう答えたらよいのか、迷ってしまった。
「市川先輩が言うには、安政の大獄で朝廷側の人間や自分への反対派をたくさん処刑した井伊直弼のことを先生が話したところで、鳥居先輩が暴発しちゃったんですよね?」
「暴発ね。まあ、確かにそうだね」
「そこで『そんなわけねえだろ』と反論ととれる声をあげたのは、先輩にはそれなりの理由があったわけですよね?」
「ワダちゃん、あなたは刑事ですか、それともどこかの記者ですか?」
この話題に食いついてくる和田美保に、ぼくは戸惑いを隠せないでいた。
戸惑いは、話題に食いつかれていることからきているのか、それともその聡明な瞳に下から覗きこむように見つめられているからなのか。
「うーん。俺の中では、井伊直弼っていう人は、守り神みたいな人なんだよね」
ぼくは話をはぐらかさずに、マジメに答えることにした。
この学校がある鎌倉市内のアパートにぼくは住んでいる。
母がたの祖父母の家が、隣接する横浜市にあって、幼い頃からよく母親と出かけていた。
祖父母の家からみなとみらい地区へと伸びる坂道を下る途中にある公園が、掃部山公園といって、祖父母の家に行くたびにぼくが遊びに行っていた場所だ。
有名な公園ではないけれど、春になると桜が満開に咲き、花見客が訪れ、いくつもの屋台が並ぶ。
この公園にどかーんと立って横浜港の方角を見つめている、かなり怖い顔をしたおじさんの銅像が、井伊直弼だった。
井伊直弼が「かもんのかみ」と呼ばれていたことから「かもんやまこうえん」と名付けられたそうだ。
幼い頃から遊んでいた公園に、威圧感たっぷりに立っていた人物だから、きっと何か役に立つことをした偉い人なのだろうと思っていた。
「かもん」の意味はよくわからないが「…のかみ」という部分が「…の神」に脳内変換されて、ぼくは井伊直弼をカリスマヒーロー的な位置づけにしていた。
ところが、公園でいつもぼくを守っていてくれたあのおじさんが、日本の歴史でも類を見ない悪役であったことを教えられたのだ。
あのおじさんは、ヒーローじゃない。悪役だった。
その逆転を急には理解できなくて、授業中に叫んでしまったのだ。
「澪さん、井伊直弼っていうのは、そんなに悪い人だったんですか?」
和田美保が谷口澪に訊いた。
澪さんは大学で教職課程を学んでいる。
「確かに、歴史の教科書どおりなら、井伊直弼はたいそうな悪役ね。安政の大獄の『大獄』っていうのは『重大な政治犯罪事件で、多くの人が捕らえられること』っていう意味なんだけど、これまで安政の大獄以外で『大獄』という語句が使われた事件は、少なくとも日本ではほかに見当たらないんだ」
「それって、日本の歴史でいちばんひどい奴ってことじゃん」
演劇部唯一の3年生である赤田慎吾先輩が口を挟んだ。ぼくの前の代の部長だ。
赤田先輩はすでにジャージに着替えて、イッチーと一緒に柔軟体操を始めていた。
「ただね、井伊直弼を、今の日本の基礎を作った重要な功績のある人物として分析する見方もあるの」
澪さんは、それまで座っていた窓側のいちばん後ろの席を立って、ぼくのほうに近づいてきた。
「日本が鎖国政策をとっていた時に、浦賀沖に黒船の大群がやってきて、ペリーが日本に開国をせまった話は有名だよね」
「黒船の大群に威圧されて、幕府は日米和親条約とは名ばかりの不平等条約を結ばされたんですよね」
澪さんの説明に続いたのはイッチーだ。数日前の横山先生の授業で出た話だ。
澪さんが続ける。
「日米和親条約が結ばれたのが1854年。そのわずか4年後、今度は日米和親条約により下田に駐在していたハリスに迫られて、幕府の責任者になっていた井伊直弼が、さらに不平等な内容の日米修好通商条約への調印を許可した」
「それで日本の鎖国政策は終わったんだ」
「そう。だけどね、日米修好通商条約の締結を迫られた時、江戸幕府は、孝明天皇がいる京都の朝廷に条約調印の許可を求めたんだけど、朝廷は、外国人は侵入者だと考えて、追い払おうとしていたから、調印を認めなかったのね。それで井伊直弼はやむなく、朝廷の勅許を得られないまま、条約に調印することになってしまった」
「井伊直弼の独断ということですか?」
美保が澪さんに訊いた。
「ハリスにイギリスやフランスの脅威をたくさん吹き込まれていたし、条約に調印しなければ、アメリカに一気に攻撃される恐怖も井伊は感じていたみたいね。黒船が来航して以来、幕府はそれを身をもって感じていたから、ペリーやハリスの威圧的な態度に、条約調印という形で応対するしかなかった」
「もしそこで、朝廷の言う通りにして、日米修好通商条約を締結しないようにしていたら?」
「長い鎖国政策で、まだ外国に対する知識が浅くて防備が弱かった江戸は、アメリカの艦隊の砲撃に遭ったら、簡単に潰されていたかもしれない」
「じゃあ、井伊直弼は、朝廷の意に逆らってまで、江戸やこの国の人々を外国の脅威から守ったことになるんじゃないですか?」
「ワダちゃん、着替え!」
ぼくは会話をさえぎって、視聴覚準備室を指差した。
発声練習が始まるまであと5分。ぼくは美保に、女子の更衣室を兼ねている視聴覚準備室で制服からジャージに着替えてくるように促した。
このまま井伊直弼の話を聴いていたら、頭の中がグチャグチャになりそうだった。
それ以上に、自分の表情をうかがって間近で瞳を輝かせる和田美保という1学年下の女の子への感情をコントロールできなくなっていた自分を、戒めなければならなかった。
美保や同じ1年生の桜井友恵や石本彩乃ら3人の女子が視聴覚準備室に入っていった後も、ぼくは美保のポニーテールから匂う甘い残り香が消えないことに戸惑っていた。
「そういうオマエも早く着がえろよ」
赤田先輩のツッコミに、ぼくは我に返っていなかった自分にようやく気がついた。




