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第三話:飢えた巨躯と、天下の極上酒


 呼吸をするたびに、焼けた針で喉を突かれるような激痛が走る。

 右足の肉は爛れ、泥と血でどろどろに汚れていた。全身を包むのは死の気配と、絶望的な体格差。


『死ね、小畜生!』


 大蛇(オロチ)の一頭が、丸太のごとき太い鎌首を振り上げ、必死に泥を這う狐の頭上から容赦なく叩きつけられた。


「——ドロンッ!!」


 寸でのところで狐は最後の妖力を振り絞り、泥の中に落ちていた丸太へと姿を変えた。

 凄まじい衝撃波が沼を揺らし、泥水が爆発するように跳ね上がる。本物の狐の身体は、爆風の余波で吹き飛ばされ、奇跡的に沼の端にある岩の亀裂——大蛇の巨躯では立ち入れない狭い隙間へと転がり込んだ。


「ガハッ……! げほっ、けほっ……!」


 岩の隙間に挟まりながら、狐は必死に血混じりの泥を吐き出した。

 生きてはいる。だが、もう二度目の幸運はない。右足の毒は着実に全身へ回ろうとしており、残された時間はわずかだった。


「ハぁ……ハぁ……ッ、勝てぬ……。正面から戦えば、一瞬で噛み砕かれるか、毒で溶かされて骨も残らん……」


 岩の影から外を覗うと、大蛇たちは獲物を見失ったことに苛立ち、ズズズ……と巨大な胴体を蠢かせていた。

 その時だった。


『ギシャアアアッ! どこへ消えた! 俺の獲物だぞ!』

『黙れ! 先に見つけたのは俺だ! 貴様こそ引っ込んでいろ!』


 大蛇の首同士が、激しく威嚇し合い、互いの顔面を凄まじい力で突き飛ばし始めた。

 一番右の首が岩の隙間へ鼻先を突っ込もうとすると、隣の首がその喉元へ噛み付き、強引に引き剥がす。


「……ん?」


 狐は激痛に耐えながら、目を細めた。

 大蛇たちの八つの頭の動きを、じっくりと観察する。

 何かおかしい。たかが体長数十センチの小狐一匹を取り逃がしただけで、なぜこれほどまで必死になり、血眼になって仲間内で争うのか?

 狐は、大蛇たちの眼光を凝視した。

 赤く濁った瞳の奥にあるもの——それは単なる酷虐さや凶暴さではない。狂気に近い、極限の「飢え」だった。

 この立ち枯れた底なし沼には、大蛇の巨体を満たすほどの獲物など存在するはずもない。周囲の村々を滅ぼし尽くし、喰らうものが何もなくなった結果、奴らは常に激しい空腹に苛まれ続けているのだ。

 だからこそ、ほんの一くちにも満たない小狐の肉でさえ、首同士で殺気立って奪い合わなければ気が済まないほどの餓鬼道に陥っていた。


(飢えておる……! こやつら、腹が減って減ってたまらんのじゃ……!)


 狐の頭の中で、カチリと何かが噛み合った。

 神の言葉が、脳裏に強く響く。


『力で勝てぬなら、どうする? お前が得意としていたものは何だ?』

(そうじゃ……! 真っ向勝負で勝つ必要などどこにもない! わしは化け狐……相手の喉から手が出るほど欲しいものを『化け術』で見せつけ、互いに潰し合わせればいいのじゃ!)


 絶望の闇の中に、一筋の陰湿で鋭い光が差し込んだ。

 狐は爛れた右足をかばいながら、口元の血を前足で拭ぐい、ニヤリと陰惨な笑みを浮かべた。


「ふふ……ふははっ! 待っておれよ大蛇ども。わしの『化かし合い』の恐ろしさ、骨の髄まで教えてやるわ!」


 狐は一本しかない尾を強く握り締め、残された全妖力を練り上げた。

 目指すは、この飢えた大蛇たちの理性を一瞬で吹き飛ばすほどの「究極の化かし」だ。

 かつて山道で旅人から聞き及んだことがある。天上の神々が嗜み、一口飲むだけであらゆる肉体の飢えも渇きも忘れさせ、身も心もとろけさせるという伝説の「極上酒」。


「わしの化け術……見誤るなよ……ッ! ドロンっ!!」


 ポンっ!と、岩の隙間から爆発的な量の白い煙が噴き出した。

 煙が沼全体へと一気に広がり、晴れていく。

 大蛇たちが「何事か」と首を巡らせたその中心——沼の中央に突如として現れたのは、巨大な金色の酒樽だった。

 ただの酒樽ではない。

 樽の口からは、甘く、芳醇で、嗅ぐ者すべての脳を麻痺させるような香気があふれ出していた。さらにその周囲には、香ばしく焼き上げられた極上の肉や魚、熟しきった果実が山盛りに積み上げられていた。

 当然、すべては狐が魅せた「幻影」である。実体などどこにもない。

 しかし、聴覚、視覚、そして嗅覚すら狂わせる、狐が死に物狂いで放った最高精度の化かし術だった。長年、地獄のような飢えに苦しんできた大蛇たちにとって、それは何物にも代えがたい「至高の毒餌」となった。


『……ギ!?』

『な、なんだこの香りは……っ!? 酒……極上の酒と肉ではないか!?』


 八つの頭の目が一変した。

 岩の隙間に潜む小狐のことなど、綺麗さっぱり頭から吹き飛んだ。八頭すべてが、涎を滝のように垂らしながら、金色の酒樽に向かって猛ダッシュをかける。


「そうじゃ、飲め! 喰らえ! 早い者勝ちじゃぞ!」


 岩陰で息を潜めた狐が、ほくそ笑みながら囁く。

 一番手前にいた首が、豪快に酒樽へと食らいついた。

 だが、幻影であるため、酒は喉を通らず、ただの空気を飲み込むだけだ。しかし、あまりの飢餓感と精巧な幻術によって、脳が「極上の酒を飲み干した」と強烈に錯覚してしまう。


『美味い……! 美味いぞおぁぁぁっ! 腹の底から力が湧いてくる!!』


 大蛇の首は、実体のない酒を浴びるように飲み干した(と思い込んだ)。

 狐は幻影の酒に「強烈な酔い」の感覚を多分に混ぜ込んでいた。一口飲むごとに脳内が麻痺し、視界が歪み、凶暴性と酩酊感が限界突破していく。


『待て! 俺にも飲ませろ!』

『退け! これは俺の獲物だ! 横取りする者は殺す!』


 案の定、首同士の不毛な奪い合いが始まった。

 酔いによって理性を完全に失った大蛇たちは、隣の首の存在すら「酒を奪おうとする宿敵」と認識した。


『ガアアアッ! 邪魔をするなッ!』

『何をする、離せッ! 死ねえぇぇっ!』


 ズバッ! ドスッ!


 静まり返っていた沼に、凄まじい肉肉しい音が響き渡る。

 鋼の鱗を自らの凶悪な牙が貫き、滴る緑色の毒液が互いの肉体を容赦なく焼き溶かしていく。

 首同士が絡み合い、締め上げ、噛み千切り、目を抉り合う。己の毒で己の体を腐らせていく、まさに地獄絵図のごとき身内の殺し合いが繰り広げられた。

 岩陰でその惨状を見守る狐は、痛む腹を押さえながら、必死に笑いを堪えていた。


「ハハッ! 見ろ見ろ! 愚かな大蛇どもめ! 自分自身の首と戦って自滅する気分はどうじゃ!?」


 時間が経つにつれ、凄まじい悲鳴とともに大蛇の首が一つ、また一つと沼に沈んでいく。

 互いの強力な毒と凄まじい筋力によって、自滅の連鎖は誰にも止められない。

 やがて——一時間が経過した頃。

 あれほど荒れ狂っていた沼が、嘘のように静まり返った。

 七つの首は血と毒の海となった沼に浮かび、完全に絶命していた。

 そして最後に残った一本の首。

 それもまた、全身ズタズタに引き裂かれ、自らの毒と深手によって、まともに鎌首を立てることすらできないほど弱り果てていた。息も絶え絶えに、力なく泥の上に横たわっている。


「……ふぅ。よし、出番じゃな」


 狐は岩の隙間から、ゆっくりと姿を現した。

 幻術を解くと、金色の酒樽も馳走も煙のように消え去り、そこには冷たい空気だけが残された。

 死にかかっていた小狐は、今や堂々とした足取りで(右足を引きずりつつも)、最後の一頭の前に立ち塞がった。

 たった一匹のショボい化け狐が、知略とハッタリだけで、国を滅ぼす大怪異を壊滅させたのだ。


「さあ……再戦といこうか、大蛇」


 狐はニヤリと惨悪な笑みを浮かべ、一本の尾をピンと立てて、瀕死の首へと歩み寄るのだった。


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