第二話:底なしの足場と、腐肉の猛毒
沼の空気は、吐き気がするほどに重く、甘く、そして爛れていた。
紫色の毒煙が筋を引いて水面を這い、足元の泥は「ジュブ……ジュブ……」と不気味な泡を吐き出している。一歩足を踏み入れるたびに、泥が足首を強く締め付け、底知れぬ暗闇へと引きずり込もうとした。
「……ふぅーっ、ふぅーっ……」
枯れ木の陰に潜む小狐の背筋を、冷たい汗が何本も伝い落ちる。
痛む胸を押さえながら、狐は大蛇の潜む沼の真っ只中を睨み据えた。
(まずは……相手の出方を見極めるのが筋というものじゃ。わしの残された妖力では、失敗は一回すら許されん……)
狐は一本の尾に全神経を集中させ、体内の妖力をかき集めた。
頭の上に載せた枯れ葉が、微かな光を帯びて揺れる。
「まずは挨拶代わりじゃ……ドロンっ!」
ポンっ、と小さな煙が弾け、狐の姿が消えた。
代わりに現れたのは、巨木をも一撃で薙ぎ払うような、黄金に輝く巨大な「豪剣」の幻影だった。狐は自らの身体を隠し、鋭い剣気を放つ幻術の刃を沼の中心へと向けた。
『キシャアアアアアアッ!!!』
瞬時に、泥水が爆発した。
立ち上る泥の飛沫を切り裂き、現れたのは三階建ての櫓すら見下ろすほどの巨躯を持った、禍々しい大蛇の頭部だった。
しかも、一つや二つではない。泥の中から次々と鎌首がもたげられ、三つ、四つ、五つ——全部で八つの巨大な頭が、赤黒く濁った眼光を一斉に放つ!
八頭の大蛇。
その鱗の一つひとつが鋼の盾のように分厚く、隙間からは滴るだけで黒い土をジュウジュウと煙らせる、緑色の猛毒液が垂れ落ちていた。
『愚かな虫ケラが……我が領域に足を踏み入れるかッ!』
咆哮一喝。
八つの口から同時に放たれた音圧だけで、狐の放った豪剣の幻影が一瞬で霧散した。
「ひぐっ……!? 一息で幻が消されたじゃと!?」
幻が破られた衝撃で、狐は実体を現し、沼の端へと転がり出た。
大蛇の八つの頭が、一斉に首を巡らせて狐を捉える。その眼光に宿るのは、圧倒的な掠奪と喰害の意思。人間の村をいくつも滅ぼしてきた伝説の怪異の圧力が、小狐の体全体を押し潰さんばかりに降り注ぐ。
『何だ、その惨めな姿は。尻尾の一本しか残っておらん狐の小倅か。死に損ないが、我らの糧になりに来たか!』
「だ、誰が糧じゃ! わしは神から命を受け、お前たちを討ち取りに来た『大化け狐』なるぞ!」
狐は必死にハッタリをかまし、威勢よく胸を張ってみせた。だが、喉の奥は乾ききり、声がかすかに震えているのを隠せなかった。
『ほざけッ!』
大蛇の一頭が、目にも留まらぬ速さで鎌首をしならせた。
ドパンッ!と音を立て、巨大な頭部が上空から弾丸のように突き降ろされてくる。
「しまっ——!?」
狐は咄嗟に横へ飛び退こうとした。
しかし——「ズルっ!」
「な、ぬああっ!?」
足が動かない。
跳躍しようとした瞬間、泥が吸盤のように両足を絡め取り、跳ぶどころか体勢を崩して泥の中に倒れ込んでしまったのだ。
底なし沼の地形。
ただでさえ身体能力で劣る狐にとって、足元を奪われるこの泥地は、致命的すぎる死の罠だった。
——ズシンッ!!!!
大蛇の頭部が、狐が直前までいた地面に突き刺さった。
爆風のような泥の嵐が吹き荒れ、狐の小さな体は泥水に揉まれながら十数メートルも吹き飛ばされた。
「ガハッ……! けほっ、はぁ、はぁっ……!」
泥を吐き出しながら、狐は必死に体を起こそうとした。
だが、右足に激痛が走る。
「あぐっ……!? こ、これは……っ!?」
直撃は免れたはずだった。
しかし、大蛇が叩きつけられた際に飛び散った「緑色の毒液」の滴が、ほんの数滴、狐の右足の毛皮に掠っていたのだ。
ジュジュジュ……と嫌な音が鳴り響く。
毒液が触れた箇所の毛皮が一瞬で焼け落ち、皮膚が黒く爛れて、肉がドロドロと腐食し始めていた。言葉を絶する劇痛が、神経を焼き尽くすように脳へ駆け巡る。
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁっ……痛い! 痛い痛い痛いっ!!」
狐は悲鳴を上げて転げ回った。
ただ掠っただけなのだ。直接噛みつかれたわけでも、毒の息を正面から浴びたわけでもない。たった数滴の飛沫で、肉が腐り、骨が見え始めるほどの威力を誇る猛毒。
『ハハハハハ! 見たか、愚か者め! 我が毒は触れるもの全てを腐らせ、地獄の苦しみを与える!』
大蛇の頭たちが、嘲笑うようにシューシューと舌を鳴らした。
『この沼はお前のような弱者の墓場だ。泥に足を取られ、我が毒に身を焼かれ、悶絶しながら死んでゆくがいい!』
「くっ……うぅ……っ!」
狐は震える手で、右足の腐りかけた肉の周囲を強く締め付け、毒が全身に回るのを必死で防いだ。
呼吸をするだけで、立ち込める紫煙が気管を焼き、視界がチカチカと点滅し始める。神に延命されたはずの命の脈動が、急速に弱まっていくのが分かった。
絶望的な差だった。
圧倒的な巨体と筋力。
触れることすら許されない即死級の猛毒。
そして、こちらの機動力を完全に削ぎ落とす底なしの泥地。
真っ向から戦って勝てる要素など、どこをどう探しても一つとして存在しなかった。
(勝てるわけがない……! こんなの、どうやって倒せというのじゃ! 剣も通らん、火も効かん、足場もない……!)
恐怖と激痛で、頭が真っ白になりかける。
大蛇の八つの頭が、いたぶるようにゆっくりと近づいてきた。
『まずはその生きた肉を一口ずつ千切ってやろう』
『いや、沼の底へ沈めて、じわじわと窒息する様を楽しもうぞ』
八頭がそれぞれ好き勝手な拷問を口にし、狐を取り囲む。
逃げ場はなかった。
背後は泥の深み。左右は立ち枯れた毒の木々。正面には八頭の巨蛇。
まさに四面楚歌。狐の命は、今まさに潰えようとしていた。
「ハぁ……ハぁ……っ」
泥に塗れ、右足を爛らせた小狐は、迫り来る大蛇の巨躯を見上げることしかできなかった。
たった一本の尻尾が、恐怖で細く細く震えていた。




