第二十六話:呑み込まれる現世と、幾万の絶望
「数の暴力ってのはなぁ、泥を食ってきた奴に一番効く絶望なんじゃよ」
東の空を切り裂く赤黒い亀裂を目指し、小狐は弾丸となって風を切っていた。
背中に生え揃う七本の尾が、黄金、純白、漆黒の光を激しく撒き散らす。風を呼び、雷を放ち、空間を歪め、死の恐怖すら抱きしめた【7本目の尾】の力。いまや小狐の走る軌跡には、神聖なまでの妖気が尾を引いていた。
だが——目的地である東の霊峰に近づくにつれ、小狐の顔から不敵な笑みが消えていった。
「……なんじゃ、これは……ッ!?」
視界を埋め尽くしたのは、この世の終わりそのものの光景だった。
かつて神々が数千年の結界で縛り上げていた「地獄の門」。山一つを丸ごと飲み込むほど巨大な岩の巨門は、中央から激しく砕け散り、その亀裂からドロドロとした血と硫黄の濁流が吹き出していた。
そして、その濁流に乗って吐き出されていたのは——数万、いや数十万を優に超える「悪霊」と「冥府の亡者」の群れだった。
『肉を……生き血を寄こせぇぇぇっ!』
『殺せ! 焼き尽くせ! 現世の生者をすべて引きずり落とせぇっ!』
空を覆い尽くす黒い悪霊の雲。地を這い、互いを踏みつけ合いながら溢れ出る骨の亡者、一つ目の鬼、身の毛もよだつ頭部だけの怪異。
それらが、潮が満ちるような勢いで山を下り、麓の村や町へと向かって雪崩を打って押し寄せていたのだ。
「ひ……ひぃっ! 助けてくれぇぇぇっ!」
「神様、仏様! お許しください、お許しくださいっ!」
遠く麓の村から、生者たちの悲鳴と狂乱の叫びが風に乗って届いてくる。
その声を聞いた瞬間、小狐の『心読の術』が絶望的な感情の波を拾い上げた。
幼い子供を抱きかかえて震える母親。
農具を手に必死で妻子を背中に庇う父親。
第一の試練で小狐にお酒を分けてくれた、あの呑気で温かかった村人たち——彼らの胸を埋め尽くす「死の恐怖」と「絶望」が、針のように小狐の胸を刺す。
「させるかぁぁぁぁぁっ!!」
小狐は叫び、空中で七本の尾を激しく蠢かせた。
ドカアァァァァンッ!!
【3本目の尾】と【4本目の尾】の威力が炸裂する。
空を覆う悪霊の群れに向け、嵐のような突風と、紫色の巨大な雷撃を叩き込んだ。
一撃で数百の悪霊が悲鳴を上げて消滅し、紫電の波が地面を這う亡者どもを焼き払う。さらに【5本目の尾】の『空間干渉』を放ち、先頭を走る巨大な骨の鬼の首周りの空間をねじ切り、粉砕した。
まさに無双。かつて一本の尾で逃げ回っていた小狐とは思えぬ、大妖たる圧巻の破壊力だった。
だが——。
シュゥゥゥ……。
消滅した数百の悪霊の「跡地」に、間髪いれず、門の奥から千、万という単位の新たな悪霊がドロドロと溢れ出してきたのだ。
「な……っ!?」
一瞬で、消したはずの空白が黒い影で埋め尽くされる。
『クックック……無駄だ! 無駄だぞ化け狐ぇっ!』
『我らは数千年の地獄の底で溜まり続けた恨みの底なし沼! 一匹の大妖がいくら削ろうと、我らの数は無限なのだぁっ!』
一つ撃ち払えば、十が溢れる。
百を吹き飛ばせば、千が押し寄せる。
小狐は牙を剥き出しにし、狂ったように妖術を放ち続けた。
風で吹き飛ばし、雷で焼き、空間を破砕し、前足の爪で引き裂く。一秒の間に何十という亡者を屠り、山脈を覆うほどの攻撃を散らし続けた。
だが、悪霊の波は止まらない。
小狐が正面の群れをどれだけ薙ぎ払おうとも、溢れ出た亡者どもは小狐の脇を通り抜け、津波のように麓の村へと滑り落ちていく。
「くそっ! 戻れ! そこを動くなぁっ!」
小狐は焦燥に駆られ、空間を曲げて亡者たちの足止めを試みた。
しかし、相手の数が多すぎる。空間の結界など、数万の悪霊の「質量」と「推し量る怨念」の暴力の前に、わずか数秒でパリンと砕け散ってしまう。
——ドカッ!
「ぐっ……!?」
背後から、無数の悪霊の手が小狐の毛皮に飛びかかってきた。
『心読の術』と『不動心』のおかげで、精神的な恐怖や焦りによって心が折れることはない。どんな恐ろしい恨みの声も、今の小狐の魂を揺らすことはできない。
だが——「肉体の限界」は別だった。
どれだけ心が折れなくても、妖術を使えば妖力は減る。
爪を振るえば体力が削れる。
数万という「数」そのものが、物理的な圧力となって小狐の身体をすり減らしていくのだ。
「ハぁ……っ! ハぁ……っ! くそ……キリが……キリがないぞい……!」
小狐の白い息が荒くなる。
背中の七本の尾の輝きが、休むことのない妖力行使によって、ほんの僅かに陰り始めていた。
崩壊した「地獄の門」の奥深くからは、今なお底なしの怨念が湧き出し続けている。
このままでは、小狐の妖力が尽きるのが先か、それとも小狐を素通りした悪霊どもによって麓の国が丸ごと滅ぼされるのが先か——どちらにせよ、絶望的な未来しか残されていない。
『見ろ! 化け狐の妖気が落ちてきたぞ!』
『殺せ! あの生意気な七本尾を食い散らかせぇっ!』
小狐の消耗を察知した悪霊どもが、黒い津波となって全方位から押し寄せてくる。
視界が黒く塗りつぶされていく。
「試練」という言葉の生易しさを、小狐は身をもって痛感していた。
これは知略でハメる知恵比べでもなければ、一対一の決闘でもない。
世界そのものが崩壊しかけている「大災厄」なのだ。
「わしの……わしの誇りかけたこの世界を……こんな奴らに奪われて……たまるかぁぁぁっ!!」
小狐は血を吐くような叫びを上げ、残り少ない妖力を振り絞って立ち向かう。
しかし、溢れ出る漆黒の影は、無情にも小狐の小さな身体を呑み込もうと、どこまでも深く、どこまでも黒く膨らみ続けていくのだった。




