第二十五話:壊れし冥府の門と、七尾の決意
「生きてさえいれば、泥の味だっていつか酒の肴になるのじゃ」
かつて雨の山道で命を落としそうになり、血と泥の混ざった味に涙を流していた一匹の小狐は、もうどこにもいなかった。
洞窟を抜け出た小狐の背中には、誇らしく、そしてあまりにも神々しい【7本目の尾】が扇のように広がっていた。
風を呼び、雷を落とし、空間を歪め、人の心を読み、そして己の過去の罪や死の恐怖すらもすべて抱きしめて手に入れた「絶対に折れない不動の心」。七本の尾から放たれる圧倒的な妖気は、ただそこに佇んでいるだけで周囲の空気を澄み切ったものに変えていた。
「へへっ、神様よ! 次で七つ目……九つの試練もいよいよ大詰めじゃな! さあ、次はどんな凄まじい大妖怪じゃ? それともまた何か盗ませるのか?」
小狐は胸を張り、不敵な笑みを浮かべて空を仰いだ。
だが——。
空から降ってくるはずの神の返答は、なかった。
「……ぬ?」
おかしい。いつもなら、試練を乗り越えた瞬間に後光とともに現れ、厳かに、あるいは少し呆れたように次の試練を告げてくるはずの神の気配が、どこにも感じられないのだ。
静寂。
あまりにも不自然で、不気味な静寂が世界を包み込んでいた。
次の瞬間。
——ズズズズズズズズズズズッ!!!!!
「うわぁっ!?」
大地が、悲鳴を上げるように激しく揺れ動いた。
東の空が、まるで熟しすぎた果実が弾けるように、赤黒い血の色の裂け目を生み出していく。雲が不気味に渦を巻き、大気が急速に冷え込み、焦げ付いた硫黄と腐肉の匂いが鼻を突いた。
ドス黒い紫色の雷が天空を走り、大地の底から、世界中の生者が聞いたこともないような「絶望の咆哮」が地鳴りとなって響き渡る。
「な……なんじゃ!? 天変地異か!?」
小狐が毛皮を逆立てて身構えた、その時。
空の裂け目から、眩い黄金の光が一直線に地上へと落ちてきた。
ドスンッ!と音を立てて小狐の数メートル先に着地したのは——神であった。
しかし、その姿はいつもとまるで違っていた。
後光は風前の灯火のように揺らぎ、荘厳だった神の衣はあちこちが黒く焼け焦げ、胸元からは凄まじい神聖な血(神血)が溢れ出ていたのだ。
「か、神様っ!? どうしたんじゃその怪我は!?」
驚いて駆け寄る小狐に対し、神は肩で息をしながら、血の滲む手で小狐の肩を掴んだ。その瞳には、かつて見せたことのない激しい焦躁と動揺が宿っていた。
『小狐よ……試練の途中だが……猶予はない……っ!』
「だ、だから何があったんじゃ!? お前さんほどの神をこんな目にする奴がこの世におるというのか!?」
『……壊されたのだ。現世と冥界(地獄)を隔てる、絶対の禁忌……『地獄の門』の封印が……何者かの手によって破られた……!』
「な……地獄の門……!?」
小狐の背筋に、冷たいものが走った。
地獄の門。
それは、太古の昔から神々が何重もの結界を張り巡らせ、現世に死者や悪霊、冥府の怪物たちが溢れ出さないように固く閉ざしてきた「生死の境目」そのものだ。
『あの門の向こうには、数千年にわたって溜め込まれた無数の悪霊、怨念、そして現世の理では測れぬ冥府の巨大な怪異たちが蠢いている。……それが今、封印を砕かれ、この現世へと溢れ出そうとしているのだ!』
神は苦しげに咳き込み、神血を吐き捨てながら続けた。
『ワシたち柱石の神々が総力を挙げて抑え込もうとしたが……敵の攻撃があまりにも死角を突いていた。ワシは重傷を負い、他の神々も門の崩壊を食い止めるだけで手一杯……! もはや、奴らの侵攻を食い止める戦力は現世に残されていない!』
「そんな……じゃあ、このまま門が完全に壊れたらどうなるんじゃ!?」
『世界が……終わる』
神の短い一言が、ズシリと重く小狐の胸に響いた。
『現世は地獄の亡者どもで埋め尽くされ、生きとし生けるものはすべて食い散らかされ、地獄の業火に包まれる。お前が助けた村人たちも、あの富豪も、山の中の妖怪たちも……一人残らず絶滅するだろう』
「なっ……!?」
小狐の脳裏に、幾多の顔が浮かんだ。
第一の試練で酒をくれた村人たち。
第三の試練で一緒に太鼓を叩いた愉快な妖怪仲間たち。
第四の試練で降ってきた小判を抱きしめて涙を流していた、あの貧しい百姓たち。
自分が泥を舐めながら、必死に生き抜いてきたこの「愛おしい世界」が、すべて泥と血の底に沈む。
『これが……第7の試練だ……小狐よ』
神は血に濡れた手で、東の空の裂け目を指し示した。
『試練などという生易しいものではない。これは真の大災厄……! あの崩壊しつつある『地獄の門』へ向かい、溢れ出しつつある冥府の怪異どもを食い止め、門を再び再封印せよ! 断っておくが、失敗すればお前もろともこの世界が滅びる!』
「ハッ……ハハッ!」
あまりにもスケールがデカすぎる大危機を前に、小狐は思わず乾いた笑いを漏らした。
だが、その瞳から光は消えていなかった。
背中に揺れる【7本目の尾】が、神聖な光を放って大気を震わせる。
過去の恐怖を乗り越え、絶対に折れない「不動の心」を手に入れた小狐に、絶望で震えるような弱さは微塵も残っていなかった。
「上等じゃあないか……! わしがせっかく七本まで尾を増やして成り上がってきたこの世界を、地獄の亡者ごときに壊されてたまるかぁっ!」
小狐は六本の尾を扇のように広げ、覚醒した『心読の術』で遠く東の空を探った。
——届いてくる。
東の地から湧き出る、億兆を超える悪霊たちの「殺意」「食欲」「破壊衝動」の津波。
そして、門の奥底から這い出そうとしている、山よりも巨大な「冥府の巨大な怪異」の咆哮。
世界はまさに、破滅の淵に立たされていた。
「神様、そこで指をくわえて見ておれ! わしが……化け狐のわしが、地獄の亡者どもを全員まとめて化かして打ち払ってやるぞい!」
小狐は地面を蹴り上げると、七本の尾から放たれる風と雷を纏い、崩壊しつつある「地獄の門」が存在する東の空へと、弾丸のような速度で飛翔していった。




