第二十三話:泥を食む覚悟と、破られた鏡像
ジジ……ジジジ……ッ。
漆黒の暗闇の中で、小狐の視界が明滅していた。
六本の尾の輝きは失われ、銀と漆黒の毛皮は自分の血と影の怨念によって重く、黒く汚れていた。
頭上で、巨大な黒影の狐が凶悪な笑みを浮かべ、巨大な影の爪をゆっくりと振り上げている。
『これで終わりだ、小狐よ。強がってみたところで、お前はどこまで行っても「死にかけたあの日の哀れな害獣」に過ぎん。自分の罪と恐怖に押し潰され、ここで死ね!』
黒い雷撃を纏った爪が、小狐の首元へ向かって一直線に振り下ろされた。
圧倒的な死の予感。
脳裏に再び鮮明に蘇る、あの雨の山道。黄金の錫杖が振り下ろされ、自分の骨が砕け、冷たい泥の中に顔を突っ込んで息絶えかけた「あの事故の瞬間の絶望」。
(ああ……わしは……やっぱり……)
押し潰されそうな恐怖の中で、小狐は意識の底へと沈んでいった。
自分は凄まじい大妖怪になったつもりでいた。
二本、三本、四本、五本、六本と尾を増やし、大蛇を騙し、巨猪をハめ、雷鳥を落とし、富豪の蔵を空にし、全知の仙人すらもお茶の悪戯で翻弄してきた。
「わしは強い」「わしは凄腕の化け狐じゃ」と胸を張り、過去の惨めな自分から目を背けていた。
だが——。
この影が突きつけてくる問いは、すべて正しかったのだ。
(そうだ……わしは、根っこからの大妖怪などではない。ただの……ただのショボい小者じゃ)
脳裏に浮かぶのは、尾が一本しかなかった頃の情けない自分。
百姓の家から芋を盗んでは追い回され、村の子供に石を投げつけられて泣き叫び、大僧侶の威圧に怯えて震え上がり、最後は一撃で叩きのめされて泥を喰らった、哀れで、惨めで、ちっぽけな小狐。
それが、自分という存在の「原点」だった。
(……だが)
小狐の瞳の奥で、小さく、だが消えることのない「一筋の残り火」が、静かに揺らめいた。
(……だから、何だというのだ?)
自問自答の声が、暗闇を切り裂く。
(ショボい小者だから、何だ? 泥を喰らった惨めな過去があるから、何だ!? わしは元から、誇り高き神でもなければ、高貴な大妖怪でもない! ただの……命からがら生き延びてきた、しぶとい化け狐じゃあぁぁっ!)
ドクンッ!!
絶望のどん底で、途絶えかけていた狐の脈動が、力強く跳ね上がった。
過去の情けない自分を、隠そうとしていたから恐怖したのだ。
「自分は大妖怪だ」と虚飾の鎧を纏っていたから、その鎧を剥がされることを恐れ、トラウマに怯えていたのだ。
惨めだったあの日も。泥を舐めた事故の瞬間も。弱くて、卑怯で、ショボかった過去の自分も——そのすべてが「今のわし」を作ってきた血肉ではないか!
否定などしない。隠しなどしない。
わしはショボい小者だ。悪戯好きで、ずる賢くて、泥臭い化け狐だ!
「……だがっ!」
地べたに伏していた小狐の目が、カッと見開かれた。
その瞳に宿っていたのは、恐怖への怯えではない。地這う獣の、泥臭く泥に塗れた「生の執着」と「狂気」であった!
「だからこそ……わしは、こんなところで終わらんのじゃあぁぁぁぁっ!!」
ガチィィィィンッ!!
振り下ろされた黒影の巨大な爪。
小狐は逃げなかった。避けることすらもしなかった。
覚醒した『心読の術』でもって、影が最も威力を溜め込んでいる爪の「一点」を読み切ると、自らの【6本目の尾】を束ねて真っ向から受け止めたのだ!
激しい衝撃波が洞窟を揺らし、黒い火花が四散する。
『ぬ……なにっ!?』
黒影狐が驚愕の声を上げた。
先ほどまでトラウマに震え、涙を流してのたうち回っていた小狐の全身から、今や影の怨念を吹き飛ばすほどの、ド黒く泥臭い妖気が滾り立っていたのだ。
「クックック……! ハハハハハっ!」
血みどろの小狐は、口から血を吐きながら大笑いした。
「影のわしよ……ありがたいぞい! お陰で目が覚めたわ! わしは自分が大妖怪になったと勘違いし、過去のショボい自分を忘れようとしておった!」
小狐は六本の尾を蠢かせ、前足で影の爪を力任せに押し返し始めた。
「わしは元から下道の小者じゃ! 泥を喰らい、石を投げられ、叩きのめされても……最後にへらへら笑って生き残ってきたのが、このわしじゃあぁぁっ! あの事故の恐怖も、過去の罪も、すべてわしの『歴史』じゃ! お前ごときに奪われてたまるかぁぁっ!」
『お、おのれ……強がるな! お前の心の中の『恐怖』は消えておらん! ワシはお前の恐怖そのものなのだぞ!』
黒影狐が狂暴に叫び、黒い雷撃を全身から放出した。
しかし、小狐はその雷撃を全身に浴びながらも、ニヤリと不敵に笑って一歩前へと踏み出した。
「恐怖? 当たり前じゃ! 死ぬのは今でも怖いぞい! 痛いのも嫌じゃ! ……だがな!」
小狐の【5本目の尾】と【6本目の尾】が、眩い光を放つ。
「恐怖があるからこそ、わしは頭を絞るんじゃ! 怖くてたまらんからこそ、ハッタリをかまし、泥を喰らってでも生き延びるんじゃあぁぁっ! 恐怖はわしを殺す毒ではない……わしを動かす『最高の糧』なんじゃよ!!」
ズバアァァァァンッ!!
小狐は『空間干渉の変化の術』を発動させ、黒影狐の胸元の「トラウマの核」となっている空間を直に歪めて捉えた。
さらに『心読の術』で、影が「自分自身の存在を維持するために依存している思考の結び目」を完全に読み切った。
先読み? トラウマ? そんなものはもう通用しない。
自分の弱さも、惨めさも、恐怖すらも全肯定して味方につけた小狐の前に、影の威圧などただの「まやかし」に過ぎなかったのだ!
「いけぇぇぇっ! わしの……わしの泥臭い意地を見よぁぁぁぁっ!!」
小狐は六本の尾を束ね、黒影狐の胸元へと、渾身の突きを叩き込んだ!
ドカァァァァァァァァンッ!!!!!
黒影狐の巨体が、胸元から目玉が飛び出るような激しい衝撃とともに大きく歪んだ。
影の表面に無数の亀裂が走り、そこから眩い純白の妖光が溢れ出していく。
『な……バカな……! 己の恐怖を……罪を受け入れたというのか……!? この……害獣……がぁぁぁぁっ!!』
黒影狐は断末魔の悲鳴を上げながら、ガラガラと崩れ去り、漆黒の泥となって空間へと霧散していった。
洞窟を覆っていたねっとりとした死気と、かつて騙してきた者たちの呪詛の声が、まるで夜明けの霧のようにスッと引き晴れていく。
血みどろになりながらも、二本足でしっかりと石畳の上に立ち尽くす小狐。
その背中で揺れる六本の尾は、恐怖を乗り越えた者だけが纏う、本物の誇りと煌めきに満ち溢れていた。




