ルメリア薬草奇譚
図鑑が、全部埋まった。
先祖、祖母から引き継いだ図鑑が、全部。
最後のページを埋めたのがいつだったか、アルはもう正確には覚えていない。
気づいたら埋まっていた、という感じだ。
空白だった場所に自分の文字が並び、途切れていた記録が繋がり、最後の一文の先には、棒人間のスケッチがある。
古い図鑑は、鞄の奥に大切に仕舞った。
今、アルは新しい図鑑を持っていた。
宿の朝食は、ルカンが一番早く食べ終わる。
いつもそうだった。
さっさと食べて席を立ち、窓の外を見るか、腕を組んで二人が食べ終わるのを待っている。
この日もそうだった。
「遅い」
「まだそんなに時間経ってないけど」
スープを匙でゆっくりかき混ぜながら、アルが言う。
「熱いんだもん、これ」
「さっきから混ぜてるだけだろ」
「冷ましてるの、丁寧に!」
「吹けば早いのに」
「それ、なんか恥ずかしいじゃん」
「ここには三人しかいない」
半分ほど食べたパンを皿に戻し、エルリックが口を挟む。
「エルリックも全然進んでないけど」
「食欲がない」
「朝なのに?」
「いつもそうだ」
アルが匙を止めた。
「そういえば、いつも朝少しだけだね」
「問題ない。いつものことだ」
「本当に?」
「本当にだ」
アルがルカンを見ると「ほっとけ」と視線で促してきた。
しばらくエルリックを見ていたが、やがて匙を動かし始める。
「なら、いいけど」
言いながら、スープを一口飲んだ。
「お、ちょうどいい温度になったよ」
「ようやくか」とルカンが答え
「外で待ってる」とエルリックが席を立つ。
「ちょっと待ってよ。もう少しだから」
「もう少しが長い」
「エルリックが早く食べ終わりすぎなんだよ。ちゃんと食べてほしいな。朝ごはん大事だよ」
エルリックの動きが止まる。
「……わかった」
ルカンが小さく息をつき、窓の外へと視線をやった。
アルはスープの残りを飲み干して、パンをちぎり始めた。
◇
港町の市場は賑やかだ。
三人は昼過ぎに港へ出て、特に目的もなく歩いていた。
アルが干物の並んだ屋台を覗き、エルリックが地図屋の前で立ち止まり、ルカンが二人を順番に引き剥がして歩かせる、いつもの流れだった。
港の片隅で、年老いた商人が荷物の整理をしながら、若い助手に何事かを指示している。
その横を通り抜けようとした時、アルの耳に「別の大陸」という言葉が聞こえた。
足が止まる。
「別の大陸って、海の向こうのことですか?」
アルは躊躇せず、商人に尋ねた。
商人は顔を上げ、気前のいい笑みを浮かべた。
「ああ、そうだよ。今度あっちへ渡るんだ」
「今、渡れるんですか?」
「渡れるよ。乗る船さえ手配できればね。ルメリアじゃ手に入らないものがあって、毎年この時期に行くんだ」
「ここじゃ手に入らないもの」
「植物だよ。薬になるやつ。こっちにはない種類が、向こうにはごまんとある」
商人が笑った。
「お嬢さん、興味あるの?」
アルは商人を見つめ、それからゆっくりと振り返った。
二人が少し後ろで立っている。
「行こう」
アルの言葉に、一瞬の間があった。
「文献が残っているなら、行く価値はある」
「どうせ止めても聞かないだろ」
「そうだね」とアルは大きく頷く。
「分かってた」
そのまま三人の足は、乗船手続きの窓口へと向かっていく。
船の手配には三日を要した。
あの商人の一団と同じ船に乗ることがわかったのは、手配を終えた翌日だった。
港で荷物の最終確認をしていると、商人が声をかけてくる。
「あんたたちも乗るのか。奇遇だね」
「よろしくお願いします」
アルが弾んだ声で答える。
商人は「若いのに大したもんだ」と笑い、助手に指示をして、荷物の奥から冊子を取り出させた。
「よかったら持っていきな。向こうの言葉と文化をまとめたやつだ。古いけど、ないよりはましだろう」
受け取ったのはエルリックだ。
表紙の文字を確認し、ページをパラパラとめくる。
「……ありがとうございます」
商人は満足気に頷いた。
アルはエルリックの手元を覗き込む。
「何が書いてあるの?」
「後で読む」
「今知りたい」
「後でだ」
「独り占めしてる」
アルの言葉を無視して、エルリックは歩き出した。
◇
出発の朝。
港に荷物を運んでいるとき、アルが図鑑を二冊抱えているのにルカンが気づく。
「なんで二冊あるんだ」
「一冊じゃ足りないかもしれないから」
「埋まってから次のを買えよ。荷物になるだろ」
「途中で足りなくなったら困るじゃん」
「現地で買えばいい」
「向こうに図鑑売ってるかわかんないし」
ルカンがため息をつく。
その間にも、アルは荷物を船へと積み込んでいく。
乗船口の脇では、エルリックがすでに地図を広げていた。
「エルリック、向こうに着いたら何から調べる?」
「文献の所在だ。現地の記録所がどこにあるか確認する」
「記録所か。私は市場に行きたい。まずは植物を見ないと」
「市場は後でいい」
「なんで?」
「文献が先だ」
「市場の人に聞いたら文献の場所もわかるんじゃない?」
エルリックが地図から目を離して、アルを見た。
一瞬の沈黙のあと「一理ある」と答えた。
「でしょ?じゃあ市場から行こう!」
横からルカンが「市場が見たいだけだろ」と口を挟む。
「でも、エルリックが認めたもん」
「体良く言いくるめられただけだ」
「同じことじゃん」
その時、船の汽笛が港に響き渡った。
出発の合図だ。
甲板に出た瞬間、アルが声を上げた。
「うわ、でかい!」
船のことなのか、目の前に広がる海原のことなのかはわからない。
おそらく、その両方だった。
手すりに向かって走り、身を乗り出すようにして港を見下ろしている。
「落ちるぞ」
「大丈夫。落ちない落ちない」
アルが遠くなっていく港を指差した。
「見て、人があんなに小っちゃいよ」
ルカンは港を一瞥して「当たり前だ」と短かく答えた。
「波がすごい。ねえ、ずっとこの揺れが続くの?」
「着くまで続く」
「酔わないかな」
「さあ」
「エルリックは酔う?」
「酔わない。だが、お前は酔うかもしれない」
「なんで私だけ?」
「揺れに気を取られているうちはいい。慣れた頃に来る」
アルは手すりから離れた。
「じゃあずっと気を取られてればいいんだね」
「そういうことじゃない」
船が本格的に動き始め、港がゆっくりと遠ざかっていく。
アルはまた手すりに戻り、陸地を眺めた。
ルメリアの海岸線が、少しずつ細くなっていく。
「なんか、実感ないな。別の大陸に行くなんて」
「まだルメリアだからな」とルカンが言った。
「そうだけど。ねえエルリック、向こうって言葉は通じるのかな?」
「共通語は通じる。ただ方言が強い地域がある」
「どのくらい違うんだろう」
「冊子で読んだ限りでは、かなり」
「言葉、わかるかな」
「わからなくても何とかなる」
「エルリックが言うなら大丈夫か」
アルは頷いた。
「ルカンはどう?」
「なんとかする」
「頼もしい」
アルが即答すると、ルカンは微妙な顔をした。
しかし、アルはもう海の方を向いている。
「ねえ」
「なんだよ」
「向こうの植物、全然違うのかな」
「違うだろう」とエルリックが言った。
「やっぱり、一冊じゃ足りないかも」
「だから、埋まったら現地で買えよ」
「だから、売ってるかわかんないじゃん」
「売ってる」
「なんでわかるの?」
「どこにだって、紙と筆くらいはある」
アルは少し考え、それから「それもそうか」と笑った。
波の音が心地よく耳に響く。
甲板に通る風は穏やかだ。
アルは新しい図鑑を鞄から取り出して、最初のページを開いた。
真っ白なページをじっと眺めて、次にペンを取り出した。
そのまま、サラサラと書き込みをしていく。
「何書いてる」
「ないしょ」
「おい、見せろ」
「やだ」
ルカンはじっとその手元を見ていたが、やがて海に視線を投げた。
エルリックは商人から譲り受けた冊子を、黙々と読み進めている。
向こうに何があるのか、今は誰も知らない。
自分だけの図鑑を埋める旅は、まだ始まったばかりだ。
海に白波が立つ。
光を反射して光り輝く波間を、船はまっすぐ進んでいった。




