ルカンの魔法
街道から少し外れた丘の上に、古い観測塔があった。
立入禁止の札が掲げてあるが、長年の風雨に晒され、文字が掠れてほとんど消えかけている。
「あの塔、登れるのかな」
「登れない」とルカンが即答する。
「なんで知ってるの」
「札があるだろ。立ち入り禁止だ」
アルはしばらく塔を見上げて、何かを言おうとしてやめた。
やがて視線を塔の足元へと移す。
「あ、塔の根元、草が生えてる」
「草なんてどこにでも生えてる」
「でもあれ、珍しい形してるみたい」
ルカンが止める間もなく、アルはすでに丘を登り始めていた。
「おい」
「ちょっとだけだから」
「ちょっとだけで済んだことがあったか?」
返事はなかった。
エルリックは地図を折り畳んで、ルカンの隣に立ち、遠ざかる後ろ姿を眺めていた。
「止めなくていいのか」
「言ったところで止まらないだろ」
「……そうだな」
二人は短いため息をつき、アルの後を追って丘を登り始めた。
◇
塔の足元に広がるのは、図鑑にも載っていない変わった植物の群生だった。
茎から生えた丸い形の葉は、赤い葉脈が走っていて、葉の色も内から外に向かい濃淡がある。
アルはしゃがみ込んで、図鑑を取り出した。
「すごい。綺麗な色してる。初めて見る植物だ」
「スケッチだけしてすぐ戻るぞ」
「うん」
アルはスケッチをしつつ、塔の壁面にも目を向けた。
壁に、何か描かれている。
「……文字だ。エルリック、これ読める?」
エルリックが近づき、壁の文字を確認する。
「古い書式だ。読めなくはないが——」
言い終わる前に、アルが壁面に手を触れた。
石と石の間に草の根が入り込んでいて、根を辿るように指を動かすと、壁の一部がずれた。
ズズズ、と石が横にスライドし、塔の入り口が現れる。
かなり狭いが、人が入れるだけの隙間はありそうだ。
「……アル」
エルリックの声に、しかし返事はない。
アルはすでに、中に足を踏み入れていた。
「いい匂いがする。これ、花の匂いだ」
「おい、出てこい」
「植物もある!見たことない種類の」
「今すぐ出てこい」
「ちょっとだけ——」
一歩踏み出した時、カチリ、と明らかに何かを踏んだような感覚があった。
足元を見ると、石板が微妙に沈んでいる。
次の瞬間、塔の内部から低い振動音が響いてきた。
壁に描かれていたのは、術式の紋様だったようで、青白い光が一斉に明滅を始めた。
「……これ、踏んだらまずいやつだった?」
踏んだ石板の上で、アルの足は止まっている。
石板が光を強めていく中、アルはその場から動けずにいた。
——術式の暴走。
放っておけば塔全体に広がり、この場所ごと辺り一帯吹き飛ぶはずだ。
ルカンが前に出る。
腕輪に手を当て、魔法を展開した。
術式に干渉しようとするが、古い魔力が凄まじい力で弾き返してくる。
腕輪が熱を持ち始めていた。
短く舌打ちをして、腕輪に触れる手に力をこめる。
このままでは間に合わない。
ルカンは一瞬、動きを止めた。
アルを視界の端に収めて、それから手首の腕輪——その留め具を、外した。
腕輪がルカンの手の中に収まると同時に、空気が変わった。
魔力が、解放される。
ルカンが手をかざすと、空気が物理的に割れるような音がした。
風の気配など一切なかった丘の上に、暴風が吹き荒れる。
丘の上から放射状に草がなぎ倒されて、エルリックは反射的に腕で顔を庇った。
足元から突き上げるような、激しい揺れ。
術式の青白い光が一気に押し返されていく。
魔力が逆流し、やがて中心の一点へと収束し始める。
塔が軋んだ音を立てて、大きく揺れるような感覚があり、そして——術式は消えた。跡形もなく。
辺りに、しん、と沈黙が広がっていく。
全方向になぎ倒された丘の草が、ゆっくりと戻り始めた。
遠くの木立はまだざわめいていて、鳥が一斉に飛び立ったらしく、空に黒い群れが散っていく。
エルリックは腕を下ろし、ルカンの様子を見ていた。
息を整えるその姿は、いつもと変わらない。
エルリックは何も言わない。
ただ見ていた。
腕輪を外した状態の、ルカンの魔力を。
あの腕輪が、抑え込んでいたものを。
エルリックの中にある「ルカンの魔力推定値」は、今この瞬間に完全に書き換えられていた。
◇
ルカンは腕輪を握ったまま、ゆっくりと息を吐いた。
塔は無事だ。
アルも、無事だった。
「……すごかった」
ようやく動けるようになったアルが、ぽつりと言う。
「見てたのか」
「うん、全部見てた。なんでか、あそこから動けなかったから」
「……だから入るなって言っただろ。立ち入り禁止には、相応の理由があるんだ」
アルは「ごめん」と素直に謝ったが、その目はどこか輝いている。
ルカンは重いため息を一つ吐くと、手の中の腕輪に視線を落とし、塔を後にした。
丘を降り、街道に戻る頃には、日が傾いていた。
「なんで入ったんだ」ルカンが言う。
「植物があったからかな」アルが答える。
エルリックは地図を確認しながら、「止めたんだが」と、淡々と告げた。
「二人の声は聞こえてたよ」
「じゃあなんで入ったんだよ」
「植物が——」
「もういい」
ルカンは今日何度目かの溜息をつき、手の中で光る腕輪に視線を向けた。
はめ直す前に少しだけ、その重みを確かめるように。
「腕輪、外したんだね」
アルの一言に、ルカンの歩調が少しだけずれた。
「……それも見てたのか」
「うん」
それだけだった。
アルは視線を戻し、いつもの様子で歩いていく。
ルカンは黙って腕輪をはめ直し、ロックをかけた。
エルリックは地図を見たまま、何も言わない。
「次どこ行く?」
「お前が決めるな」
「なんで?」
「懲罰だ。お前はしばらく、俺たちの後ろを歩け」
「え、そんなに怒ってるの?」
「怒ってるわけじゃない」
「怒ってるじゃん」
エルリックが地図をパタンと畳んだ。
「次の街は東だ。日が暮れる前に行くぞ」
「じゃあ東!」
アルが先頭を歩こうとするのを、ルカンが襟首を掴んで後ろに回す。
もはや何度目なのかわからない溜息を吐き、重くなった足取りで街道を歩き始めた。
アルは特に気にした風にでもなく、弾む足取りで、その背中を追っていった。




