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ある日の会話

夕食を終えて部屋に戻ると、エルリックはすぐに上着を取った。


「少し出てくる」


「また調べ物?」


ベッドに飛び込んだアルが、枕に顔を埋めたまま足をパタパタさせて尋ねる。


「また、とは何だ。まだ確認すべき記述が残っているだけだ」


「それを『また』って言うんだよ」


エルリックは何も言わずに、そのまま部屋を出ていった。

バタン、と扉が閉まる。


それを見送ったアルは「よいしょ」と起き上がり、鞄から図鑑とペンを取り出した。


ペンには飾りがついていて、鉢植えから二葉がちょこんと顔を覗かせている可愛らしいものだ。

アルが書き込みをするたびに、二葉が揺れる。


窓際の椅子ではルカンが肘をついて、夜の街を眺めるともなく眺めていた。


しばらくして、ルカンが視線を動かさずに口を開く。


「それ。また余白に書いてるのか」


「うん」


「図鑑に書くなよ。それは植物の記録だろ」


「空いたままにしとくの、なんかもったいない」


「余白はそういうものなんだよ」


「私の図鑑はこれでいいんだもん」


アルは特に気にした様子もなく、ペンを動かしている。


「……何を書いてるんだ」


「水路に生えてた草」


「見せろ」


アルは顔を上げた。


「さっき余白に書くなって言ったじゃん」


「いいから寄こせ。見るだけだから」


アルは少し考えてから、図鑑をルカンに手渡した。

ルカンはページをめくり始める。


最初の方は、丁寧に書かれた草のスケッチが何枚か続いている。

絵の下には、採取した場所と日付。


次のページには、街の見取り図らしきものや、水路の位置、橋の数まで書き込まれていた。


「ずっとこうやって記録してるのか」


「そうだよ。旅を始めてからずっと」


ルカンはページをめくる手を止めた。


見開きの端に、人物らしきものが描いてある。

それも、妙に躍動感のある棒人間だ。

三つの小さな棒人間に左右から引っ張られているような、少し大きな棒人間。


その下に、丁寧な字で一行。


「——ルカン、子供三人に一時間引きずられる。焼き菓子で和解」


ルカンは無言で図鑑を閉じた。


「消せ」


「大事な旅の記録だから」


「今すぐ消せ」


「ペンだから無理」


「じゃあ破れ」


「図鑑だから破れない」


ルカンはアルを凝視したが、アルはこれ以上ないくらいの真顔で返してきた。


「……お前、こういうのを確信犯って言うんだぞ」


「違うって。旅の記録だってば。その時の躍動感を残したかったの」


「そんなもの残さなくていい」


アルは可笑しそうに笑って、図鑑を受け取った。

ルカンは深く溜息をついて、窓の外に目を向ける。


しばらく沈黙が続き、アルがペンを動かしながらルカンに尋ねた。


「ねえルカン、今日の顔も描いといていい?」


「絶対にダメだ」


「じゃあ明日のは?」


「明日もダメだ」


「明後日は?」


「全部ダメだ」


アルは「ちぇっ」と言って、また図鑑に視線を落とした。

ルカンはそれ以上何も言わなかったが、しばらくの間、アルの手元から目を離さなかった。



しばらくして、扉が開いた。

エルリックが戻ってきたのだ。

手には薄い冊子を持っている。


「文献、見つかったの?」


「一冊だけだ。残りは明日、別の場所を当たる」


エルリックはテーブルに冊子を置き、荷物を下ろす。

それから部屋を見回して、ルカンに問いかける。


「……何かあったのか」


「別に」とルカン。


「図鑑にルカンが記録されただけ」とアル。


「消せって言ったけど、無駄だった」とルカンが付け加えた。


アルは図鑑を抱えて涼しい顔をしている。

悪びれた様子は少しもない。


「……聞かなかったことにする」


「賢明な判断だ」とルカンは言い、席を立った。


「水汲んでくる」


それだけ言って、部屋を出ていった。

バタン、と扉が閉まる。


エルリックは椅子を引いて座り、持ってきた冊子を開く。

アルは図鑑を閉じて、ベッドの上に転がった。

無言で冊子を読み進める背中を遠巻きに眺め、唐突に口を開いた。


「ねえ、エルリックって、食べ物の好き嫌いある?」


エルリックの手が止まる。

顔を上げると、銀ぶちの眼鏡がキラリと光った。


「……なぜ今それを聞く」


「なんとなく。エルリックって何でも淡々と食べそうだから」


「ない」


「本当に?じゃあ今日の夕飯の魚、全部食べてた?」


エルリックは少し間を置いた。


「……骨が多かったんだ、あれは」


「食べてないじゃん」


「食べた。ただ、骨が多かった」


「苦手なの?魚」


「骨が多いのが苦手なんだ」


「それ魚が苦手ってことじゃん」


エルリックが顔を上げると、アルは真顔で見返してきた。


「骨の問題だ」


「骨があっての魚だよ」


「……次の話をしろ」


アルは可笑しそうに笑って、図鑑をぱらぱらとめくる。

ベッドの隅に、二葉のついたペンが転がっていった。

「おっと」と言いながらそれをキャッチして、再び口を開く。


「エルリックはさ、寝るとき何か考えてる?」


「何も。寝る時は寝る」


「本当に?すぐ眠れる?」


「ああ」


「何秒で?」


エルリックはアルを見た。

至って真面目な顔だ。


「……数えたことはない」


「ふーん。私はね、わりとすぐ眠れるよ」


「それは見ていればわかる」


「見てたの?」


エルリックは冊子に目を落としながら「昨日、話の途中で寝てた」とだけ言った。

アルは少し考えてから「それは眠かったから」と返した。


微妙な沈黙が続いたあと、先に話し出したのはやはりアルだった。


「エルリックは眠くならないの?ずっと調べ物してる」


「なる。だが、調べるのが先だ」


「……エルリックってすごいね」


「何がだ」


「なんか、ちゃんとしてるなって。骨が多い魚も頑張って食べて、眠くても調べ物して」


「……それは、ちゃんとしているとは言わないと思うが」


「言うんだよ」


「……そうか」


図鑑を眺めるアルを、エルリックはしばらく見ていた。

それから、ゆっくりと冊子のページをめくり出す。


「……魚は、骨がなければ好きだ」


「知ってるよ」


「今初めて言ったが」


「わかるよ、なんとなく」


アルは図鑑を見たまま、変わらず涼しい顔をしていた。

エルリックは一つため息をつき、冊子に視線を戻した。



扉が開いて、ルカンが戻ってきた。

手には水の入った器を持っている。

アルが顔を上げた。


「あ、ちょうどよかった。私も顔洗ってくる」


「今汲んできたこれを使えよ」


「それじゃダメなの」


アルは図鑑を置き、タオルを引っ掴んで部屋を出ていった。

バタン、と扉が閉まる。


静まり返る部屋。

ルカンは器をテーブルに置き、向かいに座るエルリックを見た。

エルリックは冊子を見たまま、特に顔を上げない。


「……何読んでる」


「文献だ」


「面白いのか?」


「面白くはない」


「じゃあなんで読むんだ」


「必要だからだ」


ルカンは腕を組み、エルリックは冊子を読み進めた。


「エルリック」


「なんだ」


「アルの図鑑、本当に見なくていいのか」


エルリックはページをめくる手を止めた。


「……見たのか」


「見た」


「何が描いてあった」


「俺だ」


エルリックは顔を上げ、ルカンをじっと見た。

銀ぶち眼鏡の奥の瞳からは、心情が読み取れない。


「……そうか」


「躍動感のある棒人間だった」


「不運だったな」


エルリックはまた冊子に視線を落とした。

ルカンは窓の外に目をやる。


しばらくして、再びルカンが口を開く。


「……エルリック」


「今度はなんだ」


「お前は描かれなかったのか」


「おそらく、今のところは」


「今のところは、か」


「油断はしない方がいい」


ルカンはエルリックをまじまじと見る。

エルリックは冊子を読みながら、これ以上にないほど、どこまでも真顔だった。


「……お前、意外と面白いな」


「そうでもない」


「今のは面白かった」


「そうか」


ルカンは少し間を置いてから、組んでいた手をほどき、代わりに足を組み直した。


「一応、忠告しておくけど」


「何をだ」


「アルはペンで書く」


「知っている」


「消えないんだ」


「………」


「気をつけろよ」


エルリックはページをめくりながら「善処する」と言い、ルカンは溜息をついた。



しばらくして、扉が開く。

タオルで顔を拭きながら戻ってきたアルは、サッパリとしていた。


「ただいま。何話してたの?」


「何も」とルカン。


「文献の話だ」とエルリック。


アルは二人を見比べてから、「ふーん」と言って、ベッドに腰を下ろす。

そして再び図鑑を開き、ペンを握る。


ルカンとエルリックは、示し合わせたわけでもなく、同時にアルの手元を見た。

そして目が合いそうになると、同時にこれ以上ないほど自然な動作で視線を逸らした。



静かな攻防が繰り広げられていることに、もちろんアルが気づくわけもなく。

鼻歌をうたいながら、新しいページに書き込みをしていった。


ペンの先では、アルのリズムに合わせて、二葉が揺れていた。

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