二十二 北天に捧ぐ決意
金本と占守、早蕨を連れだって飛行隊舎を出た浅間は、わかりきっていた難問にあらためて逢着し、内心で落胆した。
建物はもちろん、滑走路の照明もすべて消された飛行場は、如法闇夜の静謐な闇に包まれていた。
真夏とはおもえない冷ややかな風に頬を撫でられ、汗のしみた飛行服ごと体が震える。
見上げた夜空は、ひしめくように星で満たされ、天頂には蒼々とした銀河が流れている。
地平線ちかくには、赤く発光する雲のような干潟星雲さえ見えた。
思わず息を呑むほど、かくも壮麗な天体の営みであった。
山がちな本土であれば、かならずどこかに稜線が浮かび上がるであろう。
しかしここではいっさいの影に邪魔されることなく、星空が全周の視野をほしいままに占領していた。
見る景色、感じる風に、浅間はしみじみと、自分たちがいま、まぎれもなく北海道の千歳基地にいるのだと痛感させられた。
敷地内をそぞろ歩くそのよそおいは、四人とも、濃緑色の飛行服である。
着の身着のままでのがれてきたため、着替えもない。その気力もなかった。
東京から撤退した浅間たち戦闘機パイロットは、新千歳空港に隣接する千歳基地のやっかいとなった。
敵が油断していたのか、あるいは兵力が足りなかったのか、千歳基地にはまったく被害が及んでいなかったのが、せめてもの救いだった。
くわしい状況もわからないまま、撤退したパイロットたちは空自の戦闘機基地北端のこの地で、不安な一夜をすごしたのだった。
千歳基地にも隊舎はあれども、逃げてきたパイロットは三沢の第3航空団、松島の第4航空団、小松の310飛行隊、築城のF-2戦闘機部隊、それに浅間たちが所属する百里の第7航空団と、百名をかるくこえる。
千歳にも、もともと第2航空団がいるので、これほどの大所帯の部屋はさすがに面倒が見られない。
三畳か四畳ほどしかない、刑務所の独居房に毛が生えたような個室にパイロットたちはすし詰めにされ、入りきれなかったものは戦闘機の格納庫にぺらぺらなマットレスを敷いて寝た。
格納庫に入りきれない戦闘機は、外のエプロンに野ざらしで駐機しておくほかないが、その翼の下で寝っ転がる猛者もいた。
「F-15の主翼は、テニスコートなみに広いからな。屋根がわりにもってこいだ」
きのうの夕暮れどき、駐機させてあるF-15Jの影に布団を敷いているパイロットたちを見て、あいつら戦闘機と同衾する気かと目をみはっていた浅間にそう笑いかけたのは、小松基地所属のパイロットだった。
機体を見上げると、垂直尾翼に、織部焼のような深みのある緑の龍と、でんでん太鼓をもってその龍にまたがる幼子を描いた部隊章が浅間の目に映った。
「あんたがオスカーか」
「顔を見るのははじめてだな。会えてうれしい。うわさはかねがね聞いている」
オスカーは秋霜一等空尉と本名を名乗り、呼び名はTACネームのままでいいと告げながら完璧な敬礼をした。
「いいうわさだといいがな」
「わりぃなオスカー。うちの大将は意外と欲張りなようだ」
金本が横槍をいれると、秋霜一尉が噴き出しそうになって、あわてて真面目な顔にもどる。浅間はすこし傷つく。
唐突に響きだした高らかないびきに、浅間ら四人はぎょっとさせられた。
音源をたどってみれば、パイロットの一団が固いエプロンになにも敷かずに雑魚寝していた。
築城のF-2パイロットたちだ、と舌打ちする秋霜に、浅間たちは苦笑いした。こんな状況で熟眠できる九州男児の神経の図太さにあきれていたのである。
「寝るなら寝るで、きちっと礼儀正しくしろと注意したんだが」
秋霜いわく、F-2パイロットらは威勢よく返事をするばかりで、まったく言うことを聞かなかったのだという。
「べつにあんたが世話焼くことはないだろう」
浅間がいうとおり、秋霜は小松基地、F-2パイロットたちは築城基地の所属である。
秋霜は、そういうわけにはいかない、かれらにもちゃんとしてもらわなければならない、とぷりぷりした。
「千歳の連中からみれば、小松とか築城とかは関係なく、われわれはひとしく客だ。あいつらに勝手なことをされて悪い評判がついたら、こちらまでおなじ目で見られる」
日本人の気質を体現するような言葉だ。
いつもなら笑い飛ばす浅間だが、このときは笑わなかった。
恥を恥と思う日本人の文化的精神が、なぜか尊く、とてもいとおしいものに思えたのだ。
秋霜をねぎらい、礼を交わして別れた。
夜が更けても四人はけっきょく、まんじりともできなかった。
浅間の目が、広大な千歳基地においてもひときわ大きな格納庫に動く。
あのかまぼこ型の格納庫のなかには、日本版エアフォースワンとでもいうべき政府専用機、ボーイング747-400二機が格納されている。
日の丸を背負ったハイテクジャンボは、ふたたび日本の首脳を乗せて大空へ飛び立つことができるだろうか。
もしかしたら、次に飛ぶときは、北朝鮮の国旗に塗り替えられているかもしれない。
そう思うと、浅間はくやしさに鼻の奥が痛くなった。
「自分の家を追んだされて、あとは座して死を待つのみか。悲惨すぎて諸行無常を超えてるな」
金本の他人事のような言葉が沈黙を破った。
「なんか、情けないです」
早蕨の嘆きがあとに続いた。
「遊びで戦闘機乗りになったわけじゃないんすよ、おれ。毎日の訓練だって、へたすりゃ死ぬことだってあるんです。それでも、おれみたいなやつでも日本を護る一翼になれるならと思えば、まったく苦にはならなかった」
夜空と三人が、しずかに若きパイロットの述懐を聞く。
「それなのに、自衛隊がいちばん必要なときに、弾の一発も撃てずに逃げるしかないなんて。しかも戦力差で負けてるならともかく、ちゃんと組織立って戦えば勝てる相手なのに、上からの命令がないから戦えないとか……一億人に聞いたら一億人が納得しないって言いますよ。いまのこの状況を受け入れろだなんて、正気の沙汰じゃない」
「わたしも組織の人間ですからめったなことは言えませんが、正直にいえば、早蕨くんのいうことにも一理あります」
占守が長いまつ毛を伏せながら同意を示した。
いきなり家に刃物をもって押しかけてきた強盗に家族を惨殺されたあげく、家から出ていけ、さもなくばおまえも殺すと脅され、やむなく一時避難。
たのみの警察も「その強盗にたちむかって、われわれに死者が出たらだれが責任とるの」というばかりでだれも助けてくれず、強盗に家を明け渡さざるをえない状況になっている。
いまの日本がまさにそれだ。とうてい容認できることではなかった。
「しかし、国際社会の目もあるだろうに、北朝鮮がここまでトチ狂った真似をするなんてな」
金本がため息とともにいった。
「他力本願かもしれないが、ほかの国から助力を得られないもんかね」
「現状をみるかぎり、むずかしいだろうな」
浅間は両手を腰にあてて答えた。
世界の国々も、一方的な侵略をしかけた北朝鮮に対し非難の声明を出すとか、日本を助けるための軍事介入をおこなうなどといった具体的なアクションは、いまのところ起こしていない。
「やんぬるかな、近年、日本は外交面での失策ばかりが相次いで、海外諸国からの信頼を失墜させている。救いの手をさしのべる国はない」
「困ったときの友人こそ本当の友人というが、日本にはお友だちはいないんだな」
「純粋な友宜でむすばれた国家なんて世界のどこにもないけどな。ようするに、よその国からみて、日本を助ければ得になると思わせるほどのものが、いまの日本にはないってことだ」
たとえ他国が日本を救援しようとしても、総理大臣をはじめ、政府がまるごと逃げ出している。
これでは助けようにもそれを申し入れることができない。
窓口がないのだ。
同時に、こちらから救援要請を出すこともできない。
「それに、世界の関心の的はアメリカと怪獣だ」
広漠たる宇宙そのもののような夜天を浅間は仰いだ。
「あれこそ世紀の一大事だと世界中が注目してる。それにくらべりゃ、極東の事変なんてとるにたらないと思われてもしかたがない」
夏の星座たちがまたたき、無言で笑っていた。
「世界が北京五輪に沸いていたとき、ロシアと、ロシアからの独立を叫ぶグルジアが戦争になった。ロシア軍はグルジアを挑発して先制攻撃させ、報復の名目でグルジアに侵攻、グルジア軍どころか一般市民まで虐殺した」
話題が急旋回した浅間に、金本が細い目をむける。
「だが世界じゅうがオリンピックに夢中で、現地のジャーナリストがいくら惨状を発信しても、グルジア大統領が世界に助けを求めても、だれひとり一顧だにしなかった」
「まさに、いまのおれたちがグルジアってことか」
金本につづき、占守と早蕨の表情にも理解の色がひろがる。
在日米軍もいない。
自衛隊は反撃が許可されない。
日本はアメリカ以外に軍事同盟をむすんでいる国がないため、味方をしてくれる国もない。
星空をながめていると、世界どころか宇宙からも見放され孤立したように思えてくる。
「だが最後にグルジアは独立を勝ち取った。国のために命をかけて戦ったかれらへの、それが運命のあたえた報酬だ。逆にここで日本が負ければ、おれたちのふるさとが消えるだけじゃない、世界がふたたび力による侵略と支配を是とする暴力の時代に逆戻りしてしまう」
浅間の嘆息には、自身でもおどろくほど痛切な響きがともなっていた。
ふいに、夜空に璋子と香寿奈の顔が浮かんだ気がして、浅間は、あ、と叫びかけた。しかしそこには、ただ星のきらめく闇があるばかりで、妻と娘の面差しなど、どこにもなかった。
できることなら、いますぐ家族を救いに飛んでいきたい。
それはきわめて個人的な感情だった。
戦闘機はパイロットの私物ではない。国のものだ。それを私情で飛ばすことはできない。
けれど自分にできるのは戦闘機を操縦することくらいだ。どうすればそんな自分が家族を助けることができるのか。
浅間の脳裡に、ある考えが雷光のようにひらめいた。それはあやしい魅力をもって浅間の内面を照らした。
――いっそのこと、戦闘機を盗んで、おれひとりででも北のやつらに……。
「なにを悩んでいる? まあ、聞かなくてもわかるが」
いきなりの金本の問いにふりむけば、相棒の細い目には刃のような光が宿っていた。
「おまえのことだから、いざとなったら黙ってひとりで出撃するとか考えてんだろ」
浅間は胸を衝かれ、とっさに返事ができかねた。
「図星か。変わんねえな、おまえも」
金本は笑ったが、その目は笑ってはいなかった。
「浅間、おまえはなんで戦闘機パイロットになったんだ」
浅間は自身の精神と見つめあった。自嘲ぎみな笑みがこぼれる。
「理由はたいしたもんじゃない。ただ戦闘機がかっこよかったから乗ってみたいと思った。われながらくだらん理由だな」
「それでいいのさ。きっかけなんてそんなもんだ」
金本が真正面から浅間を見据える。
「じゃあ今はどうだ。なんのためにパイロットなんてやっている?」
金本の問いは、単純であるがゆえに、答えのむずかしいものだった。
「戦闘機のパイロットなんてのは、早蕨のいうとおり、有事でなくても訓練で事故っておっ死ぬこともある。おれだってヤバいと思ったことも何度かあるし、訓練飛行中に仲間が墜落するのも見た。平時でさえ、そうなんだ。有事のときなんざどうなったもんかしれない。命張って、国民のだれもがいらないと思ってるこの国を守らなきゃならない。頭のネジが緩んでなきゃ選択しない仕事だ。飛行服だって、予算がねえから洗いたくても替えがねえしよ。汗だくんなったやつを洗えないままロッカーにぶちこんで、それを次の日も使うありさまだ。汗の塩分が浮いて表面が白っぽくなってるんだぜ。臭いなんか生物化学兵器なみだ」
事実、浅間たちがいま着ている飛行服は例外なくよれよれである。
破れかけたり穴が開いても、針金でむりやり閉じて補修し、だましだまし使っているのが現状だ。
「3Kそろい踏みの仕事だ。しかもこの国じゃ、戦闘機の操縦がうまいからってなにか褒美がもらえるわけでもねえ。おまけにパイロットの技能なんか潰しもきかん。ほかのことにはまるで用をなさない技能だ。まじで難儀な職業だよな。それでもおまえがパイロットを続けている理由はなんだ?」
答えは簡単だ。
守りたいものがある。いや、守らなければならないものがあるからだ。
「おれだって、出撃したい。連中に一矢むくいてやりたい」
浅間の口から、静かな激情がこぼれた。
「だができない。できないんだ、それが」
「なぜだ?」
「おれは自衛官だ。戦闘機を使うならば、自衛官として、命令のもとに動かなければならない」
「おまえは自衛官のまえに浅間一成というひとりの人間だ。人間としてのおまえはなんて言ってる?」
「いますぐ家族のもとへ飛んでいけと言っている」
浅間は素直に吐露した。
「なら、そうすればいい」
「だが、自衛官としてではなく、ひとりの人間として行くなら、戦闘機という組織の力を借りる正当性がない。そんな勝手はゆるされない。行くなら自衛隊を罷めて、自分ひとりの力で行かなければならない」
でなければ理屈が合わない。浅間は絞り出すように口にした。
「浅間。まるでおまえは、なんやかんや理由をつけて、戦いに行きたくないっていってるみたいだな」
嘆息する金本をにらむと、浅間の二番機パイロットは岩のように揺るぎなく受けとめた。
「日本は民主国家だ。国民がすべてを決める。国民が北に降伏するって言ったんなら、おれたちもそれにしたがうしかない。だが、国民がほんとうにそれを望んでいると思うか?」
浅間は首を横に振った。考えるまでもないことである。
「おれたちに聞こえないだけだ。国民はきっと、おれたちが助けにくるのを待ってる。おまえの家族もな」
浅間は腕を組み、沈黙で肯定した。
「聞きに行こうじゃねえか、国民の声を。ほんとうに自衛隊の救いを求めているかもしれないし、あるいはおれたちへの怨嗟かもしれない。どちらであっても、おれたちにはそれを聞く義務がある」
金本は威義をただして、言った。
「おれは階級章の星を増やしたくて空自に入ったんじゃない。ましてや家畜みたいに戦いもせずに殺されたくて自衛隊に入ったんじゃない。たしかに自衛官にとって命令は絶対だ。だが組織への忠誠と盲従はちがう。なにが正しくて、なにがまちがっているのか、それを思考停止してしまったら人間としておしまいだ。おれは納得のいかない命令にはしたがわない。こいつらだってそうだぜ」
早蕨と占守を顎でしゃくる。ふたりとも踵をあわせ、背筋をのばす。
「だれかにちやほやされたくてパイロットになったんじゃないっす」
「わたしは、リーダーの判断を信じています」
浅間の目がうるんだ。
「おまえら……」
浅間は三人を順にながめた。金本、占守、早蕨。いずれも迷いがない。
「相棒、おまえはフライト・リーダーだ。その気になればおれたちに死ねと言うことだってできる」
いくぶん色褪せて瑠璃いろに染まりはじめた空を背景に、金本の唇が炎のごとき言葉を吐き出す。
「なぜ、おれたちに、一緒に死んでくれと命令しない?」
それは託宣となって浅間の胸に迫った。
浅間は天を仰いだ。そうしなければ、熱い滴がこぼれ落ちそうだった。自分は独りではなかったのだ。
「おれはいい部下をもった……」
浅間は三人に向き直った。
「もし、そのときがきたら……おれに命を預けてくれるか」
金本と占守、早蕨が右手を掲げ、敬礼をもって返答した。静かな、それでいて悲壮な覚悟の表明である。
浅間もまた、敬礼で三人の気持ちに報いた。
そのとき、遮るようにして、基地じゅうの拡声装置から声が鳴り響いた。
「緊急事態。F(戦闘機)パイロットは、所属を問わず、総員、ただちに017ブリーフィングルームに集合せよ。……」
四人は白々明けの空に半鐘のようにしみいる声に全身を硬直させた。
放送の内容を理解すると、すぐさま踵をかえし、全力疾走でブリーフィングルームのある建物にむかった。