二十 ヒバクシャ
白い廊下をおびただしい数の負傷者がうめつくしている。
大半はひどい火傷を負った人たちだ。衣服は一様に血と膿にまみれ、ぬらぬらとした赤と黄緑の毒々しい輝きに変じている。
横たわってぴくりとも動かない者も少なくない。
ひとりの白人青年が自分を抱きしめながら歩く。なにかうわ言のように呟いている。
次の瞬間、すさまじい悪臭が空間にたちこめた。
青年のズボンの尻にどす黒い染みが生まれ、急激に広がっていく。布地の吸水性をたやすく超過し、滝のような音をたててこぼれ落ちる。
青年は赤黒い下痢便を垂れ流しながら、なおもぶつぶつと呟いて徘徊を続けた。
血がそのまま肛門から噴きだしているような下痢便が跳ねても、炎天下に置きっぱなしにした生ゴミみたいな臭気に襲われても、だれも気にとめなかった。
やがて青年はなんの前触れもなくぶっ倒れた。下半身は糞でびしょ濡れだった。
そんな屍体も同然の患者たちの合間を、看護師や医師らがせわしなく行き交う。
アランがジェシカとともに逃れてきたコニーアイランド総合病院は、野戦病院となっていた。
「アラン先生、もうお休みになられては。もうずっと働きどおしです」
「寝たくても寝られない患者がいる。わたしが一時間寝ているあいだにどれだけの人間が死ぬと思う? それよりこっちの患者だ。広範囲熱傷による低容量性ショックを起こしている。リンゲルを輸液してくれ」
アランが指示すると、女医のグレースはなにか言いたそうにしながらも従った。
目の前の寝台にうつ伏せになっているのは、後頭部から背中一面、両腕、腰と臀部、太ももの背側が焼け爛れて苦しむ被災者だった。
まるでペンキをぶっかけたみたいな鮮烈な赤。
ところどころが目玉焼きの白身のように白っぽく凝固し、水ぶくれも泡立つかのごとく多数生じている。
にじみ出る体液で肉の赤さが鮮やかさを増す。
マンハッタン島から運びこまれてきた負傷者のひとりだ。
マンハッタンあたりから搬送される負傷者はとくに火傷がひどい。だいたいは熱傷をとおりこして炭化している。内臓が蒸発しているものもあったから、これでもまだ軽いほうだ。
ふしぎに足の脛から下はほとんど火傷していない。この男性は白い靴下に白いスニーカーを履いていたが、それとなにか関係があるのだろうか。
次から次へと負傷者がひっきりなしに運びこまれる。
さっきもトラックで三、四十人がいちどに搬送されてきたばかりだ。下ろすのにアランも手伝ったが、見るに耐えない光景だった。
荷台にこれ以上乗せられないほど、生きているのか死んでいるのかわからない人たちが山となって折り重なっていた。
みな髪は焼けちぢれ、服はぼろ切れ同然。露出した肌は焼けただれて血まみれだった。
全身熱傷で血だるまになり、瞼が溶けて開けられないという少女もいた。
下ろそうと腕をつかんで引っ張ると、血糊やら何かよくわからぬ粘液やらで手がすべる。
力をこめて持ち上げようとしたら、皮がつるりと剥げてしまう。ちょうど靴下を裏返しながら脱がすような感触である。ひとり下ろすだけでもたいへんな苦労がともなった。
つぎの人は若い女性だった。ほとんど全裸で、尻から赤黒い、掃除機のホース状のものが何メートルも噴きだしていた。
脱出した大腸だった。
爆圧によるものか。想像を絶する圧力が一瞬にしてかかったのであろう。それでも息があるのである。
その女を下ろし終えたとき、アランは息を呑んだ。下で赤ん坊が死んでいたのだ。
乗せられるだけ人を乗せたので、ここへくる途中で圧死してしまったにちがいない。小さな体は紫色になっていた。
治療しようもない負傷者たちには、助からないということをあらわす黒い鑑札をつけて、モルヒネを投与するだけにとどめた。
そうこうしているあいだにも患者は増える。
コニーアイランド病院はそれなりに規模の大きい病院だが、ここだけですでに五千人以上の負傷者を収容している。
キャパシティも足りなければ人手も足りなかった。
治療する医師からして被災者なのだ。ひとりでも多くの医者が必要だった。いま休むわけにはいかない。
「先生、でも……奥さまのそばにいてあげたほうが」
アランは苦笑した。
「いまは鎮痛剤で眠ってる。それにもし起きてても、彼女もわたしにこうするよう望むだろう」
むりやりグレースを納得させる。
ふたりとも憔悴しきっている。ひっつめにしたグレースの豊かな金の髪もほつれ、汗で肌に張りついていた。
アランはだれかの視線を感じて首をめぐらした。鏡に映る顔が、暗い目をして睨んでいた。
そこにいたのが自分だと理解するのに時間がかかった。
たった一日で五十年も年老いたかのように衰容がいちじるしく、どくろのような顔貌だった。顔色など、白骨のように蒼白い。
ふと視界に光が走った。
金粉のような微小な光が眼前を舞っている。
目で追いかけるととたんに姿を消す。
また反対側の視界に現れて、アランを嘲弄するように光り、いずこかへ飛んでいく。
目をつむってもこすっても、金粉はアランの目のなかを縦横に泳いだ。
「先生、よろしくお願いします」という老人の声で我にかえる。金粉はいなくなっていた。
向かいに座っていたのは、雪のような白髪の男性だった。
「失礼。どこか痛むところは?」
問診しつつ、ペンライトで瞳孔の動きを確認する。ちゃんと収縮し、光源も追いかけている。脳に異常はないようだ。
「見てのとおりそこまでひどくはないんだが」
樽のような腹をゆすって力なく笑った。
「火傷が気になりましてね」
老人は右の頬を指差した。
右頬は、赤みを帯びた紫色で、焼けた皮膚の残骸が申し訳程度にこびりついているという塩梅だった。化膿して、膿が固まって結晶になったそばから新しい膿汁が出てくるので、頬全体がつよい光沢を放っている。
「どこでやられました?」
「クイーンズのほうでね。わたしは毎朝、キッセナ・パークで仲間とチェスをするのが長年の習慣なんだが、いつものように車に乗ったところで、いきなりピカッ!」
老人は右手を顔の横で開くジェスチャーをした。その強烈な光は、老人からみて右の方向で閃いたらしい。
「ものすごい熱を感じて、次の瞬間には車ごと吹き飛んでいました。なんとか這いずり出てみたら、街が根こそぎなくなってた」
横転した愛車からは蒸気がたち、車体の一部が飴のように溶けていたという。
火傷に気づいたのはそれからだいぶあとで、あてどもなく避難していたところ、通りがかった人に指摘されてはじめてわかった。
さわってみればたしかにぬるりとする。焼けて縮れた皮膚が小さくめくれているのがわかった。
気になるとやめられない。
皮膚の一端を指先でいじくる。それはさながらかさぶたを見つけると剥がしたくなるのとおなじ心理だった。
指の腹でこすると、皮膚は消しゴムのかすみたいに棒状によれて、しまいにはぽろりと頬から離れた。ねじれた皮は灰色だった。
老人はそのようにしてここへ来る道中ずっと皮を剥いでいたのだと言った。
「じゃあ、かなり痛いでしょう」
とアランが聞くと、
「いや、先生、これがふしぎと、まったく痛くないんです」
老体は自分自身に首をかしげて答えた。
「火にかけたフライパンに触っただけでも、ずきずき痛むもんなんですがね。どうもあの火にやられると、神経だかなんだかが麻痺してしまうようです」
つけくわえた老人に、アランもうなる。
「先生は見ませんでしたか、あの悪魔の火を」
「ええ、直接は」
「コニーアイランドからでは、距離がありますからね」
「わたしはここの医者じゃないんです」
老人の口のなかを検診しつつ言った。
「ブルックリンの病院にいたんです。けさ、いろいろあってここに」
破壊された街から決死の思いでジェシカを救いだしたけさのことを思い出す。ほんの十数時間まえのできごとなのに、ずいぶんむかしのことのように思える。
「その大きな爆発があったというときは、マンハッタンにいたのですが」
それを聞いた老人は驚愕に目を見開いた。
「マンハッタンといえば、まさに爆心地ではありませんか。よくも助かったものですな」
「そのときちょうど地下鉄構内にいたので助かりました。いったい、あのとき地上ではなにが?」
湿潤材の役目も果たすパッドを頬に貼る。火傷をした皮膚は免疫機能が全滅しているので、二次感染をふせぐためにも抗生物質を用意する。
「デマや流言蜚語ばかりで、わたしにもたしかなことは」
アランはうなずいて促した。会話そのものが目的なので、真実か否かはどうでもよい。
「あの怪獣のしわざだそうです。怪獣がまるで竜のように火を吐き、一撃でマンハッタンを焼き払ったと。ほんとうなら恐ろしいことです。わたしが見た閃光は、それこそ目の前でカメラのストロボを焚かれたのよりもすさまじかったのですから」
マンハッタンからクイーンズまではだいたい二十キロメートルは離れている。
「そして、あの雲です」
老人は治療を受けつつ、訥々と語った。
「マンハッタンの方向から、巨大な入道雲がもくもくと上がっているのが見えました。ただの雲ではありません。足が一本生えていて、まるでキノコのような雲でした。わたしは最初、とうとう世界が終わったのかと思いました。まさか怪獣とはね」
命に別状のない程度の軽傷だったため、簡単な処置ですんだ。
「きっと車が熱から守ってくれたんでしょうね。ほかに具合が悪いところは?」
老人は首をひねってうなり、
「せいぜい、妙に体がだるいことくらいですな。歳のせいかもわかりませんが」
自嘲するようにほほえんだ。
「倦怠感が?」
「ええ。まるで鉛のように手足が重い」
じぶんもだ、とアランは思った。ここにきてから、四肢に途方もない重りをつけられているかのようにだるいのだ。
疲労感ともまたちがう。睡魔が襲ってくるわけでもない。
地球の重力が何倍にもなったかのように全身が重く、立つことさえ億劫に感じた。
「あなた、例の雨を見ましたか」
アランの表情になにかを見たのか、老人もまた真面目な顔をして言った。
「雨? クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルですか?」
「いいや。黒い雨です」
アランは、ジェシカを求めてマンハッタン島をさまよっているとき降ってきた雨のことを思い出した。
「あの原油みたいに黒い雨には、猛毒がふくまれているそうです」
「まさか」
「どうもそうとしか思えないのです。ひどい火傷を負った人は、みなかならず水を欲しがりますが、あの雨をそれこそバッカスのようにがぶ飲みした者も少なくないのです。黒い雨を飲んだ人たちは、ほとんどが死にました。それも、尋常な死にざまではない。バネみたいに跳ね回って苦しみもがいて、黄色い水をゲエゲエ吐き、血のような下痢をとめどなく漏らして、体が腐りながら死んでいったのです」
「見たんですか、それを」
「わたしの家内です」
アランは全身を強ばらせた。老人は長い息を吐いた。
「家内は体じゅうを火傷していました。庭で洗濯物を干していたときに、閃光を浴びたそうです」
老人の目には、すでに涙すらもなかった。
「黒い雨が降ってきたとき、わたしは本能的に、この雨は危ないと思いました。ただごとじゃないとね。でも家内は頼むから飲ませてくれという。街はぼろぼろだし水道も出ない。ほかに水源がないのです。わたしは家内をとめることができませんでした」
彫刻刀で彫ったようなしわの刻まれた顔は、深い後悔にゆがんでいた。
「四十年、寝食をともにしてきました。あの黒い水が、彼女が最後に口にしたものでした」
老人はみずからの膝に拳を打ちつけた。
「わたしが力づくでも止めていたら。あの火傷ではどのみち助かりはしなかったでしょうが、すくなくともあんなに苦しまなくてもよかったと思うと、やりきれないのです」
アランは言葉も出なかった。
「そして、これは何人かから聞いたことですが」
前置きをしてから、
「飲まなくとも当たっただけで毒にやられるらしいのです」
見てください、と左腕を前に出した。
老人のたくましい腕には、鴉の羽毛より黒いインキのような汚れが筋状に付着していた。
「こすっても洗剤を使っても、まったく落ちない。染料と考えれば大したものですが」
アランも黒い雨の渦中に身を投じた人間だ。他人事とはおもえず、老人の話に聞き入った。
「で、この黒い雨に当たった人間にかぎって、さっき言ったような、五体がばらばらになってしまいそうな気だるさに襲われているのです」
「それで、雨に毒がふくまれていると」
老人は、そうとしか考えられない、といった。
「付着しただけで体に作用する毒です。そんなものを体内に取り込んだら、どんな恐ろしいことになるか。あのときわかっていれば」
アランにはもはや黒い雨のことがただの与太話と思えなくなっていた。
黒い雨が降りだしたとき、地面にできた黒い水溜まりに顔をつっこんでむさぼるように飲んでいた人間たちのことを思い返した。かれらもまた苦しみ抜いて死んでしまったのだろうか。
「いや、すみません。年をとるとどうしても話が長くなってしまって」
手をふって笑いながら老人が立ち上がる。
「奥様のことは、お気の毒です」
なんとか絞り出した言葉は、当たり障りのない無難な定型文だった。
それでも老人は、ありがとう、といった。
「先生には、愛する者はおられるかな」
「妻がいます」
座ったまま答えた。
「わたしのすべてです」
老人は何度もうなずいた。
「守るべきものは時に重荷となるが、それ以上に力になる」
古老の訓戒は身にしみた。
「わたしは守ってやれませんでした。年寄りのわずらわしい頼みごとですが、くれぐれも奥さんをたいせつに」
アランは微笑して、礼を述べた。
老人が診察室をいっぱいの負傷者たちのために往生しながら出ていくとき、冷たい白さの蛍光灯が壁につくるその影の背中に、腰の曲がった老婆の影が続くのが見えた。影だけしか見えないのに、どうしてそれが老婆だとわかるのか。
老人は影をよぶんにひとつ引き連れて、通路のむこうへと消えた。
◇
つけっぱなしにしてある待合室のテレビは、壊れたレコードのように同じ報道番組を放送し続ける。
「けさニューヨークに出現した巨大生物は、ブルックリンやマンハッタンをふくめた全市に甚大な被害をあたえ、なおも侵攻をつづけています。軍による迎撃作戦も失敗におわり、被害はさらに拡大するものと思われます。また市街地で戦闘をおこなった政府に対する批判も相次いでおり、大統領の対応に注目が集まっています」
アナウンサーの顔にも疲弊の色があった。画面が北米大陸の地図に切り替わる。
ニューヨークを基点に、赤い矢印がまっすぐ左へ伸びた。
「怪獣は現在、正確に西の方向へ時速約四十マイルで進んでいます。進路上にお住まいのかたは、すみやかに避難してください。またたいへん危険ですので、身内のかたの安否が心配であっても、被災地への第三者の立ち入りは控えるようにしてください。現時点では怪獣の目的などはいっさい不明ですが、軍がこれまでにない大々的な作戦を展開するという情報もあります」
だれも聞かないニュースは、院内を支配する無数のうめきと悲鳴、泣き声に塗りつぶされていた。
かつてコニーアイランドのことを『光がぎらぎらと至る所を照らし、影はどこにも見当たらぬ。――地獄の作りはまことにお粗末だ』と評したのはマクシム・ゴーリキーだ。
いまのコニーアイランドは、まさにそうであった。
待合室をぬけて病院の外に出たアランとグレースを待っていたのは、漆黒に塗りつぶされた無明の夜空と、病院にさえ入りきらずに駐車場や道路にまではみ出した被災者らが織り成す肉色の海だった。
あらためて見るとおびただしい数だ。地平線のむこうまで被爆者で覆いつくされているのではないかとさえ思えてくる。
歓迎の抱擁を浴びせてくるのは、潮風をはらんだ生ぬるい真夏の夜気と、濃密な死の臭い。
広大なアスファルトは負傷者からにじみ出る血と膿、さらには糞尿や吐瀉物に覆われている。
それらが夜になっても冷えない都市の地熱で腐敗。ひと呼吸しただけで肺が腐りそうな異臭を吐き出していた。
悪臭のなかを掻き分けながら見てまわる。
毛布やシーツも足りないから、ブルーシートや段ボールを下に敷いて寝かせている患者もある。
患者らのあいだを進む靴は、しばしば下痢便や嘔吐物、汚物に群がるゴキブリなどを踏み潰した。
いちど診た負傷者には、手首に怪我の度合いを色で示す鑑札をとりつけてあるから一目でわかる。
ふだんのように予約して診察しているわけでもないので、担ぎ込まれるだけ担ぎ込まれて、あとはほったらかしにされている患者がいる可能性もある。
診察と適切な治療を受けることができれば助かったはずの命を、そんなつまらないことで見落としてしまうことがあってはならない。
アランはグレースを助手としてともない、重金属のような体に鞭打って、鑑札のついていない負傷者をさがして歩いた。
先生、先生、と呼ぶ掠れた声があった。
視線を落とすと、壮年の痩せこけた黒人男性が、どこかの家のものだった玄関のドアを寝台がわりにして寝かされていた。
「足の傷口をなにかが噛んでいるんです。痛くて痛くてたまらない。お願いです、とってください」
男には左足がなかった。膝から下に続くべき部分がなく、断面にはきちんと包帯が巻かれてあった。
アランには執刀したおぼえがないので詳細はわからなかったが、なにがしかの理由で足の切断手術をうけたらしい。
アランは男の訴えを聞いて、幻肢痛の一種ではないかと思った。腕をなくした人間が、ないはずの指先にかゆみを感じたりする現象だ。
ところが男は「ほんとうです。なにかが足をかじっているんです」といって聞かない。
いぶかしんで男の大腿部から下がない左足に顔を近づけた。
アランは息を呑んだ。
膿で汚れた包帯の中から、たしかにぎちぎちという軋むような音が聞こえる。よく見れば包帯が波打つように動いていた。
包帯の下になにかいるのだ。
包帯をみだりに開ければ出血するおそれがある。
ためらっていると、
「痛いよ、痛い、痛い……」
涙ながらに懇願するので、つばきを飲んで、血液と体液と膿汁でべとべとになった包帯のいちばん外側だけをそっと解いた。
背後でグレースが「ひっ……」と悲鳴を呑み込むのが聞こえた。
アランも目をみはった。白い芋虫みたいなのが五、六匹も這っていたのだ。ころころとよく太り、一方の先端が鉤のように鋭く尖っている。
傷口に蛆虫が湧いているのだった。
蛆たちはとつぜん外気にさらされて驚いたのか、太った白い体をくねらせて右往左往し、包帯の隙間のなかへもぞもぞと逃げ込んだ。
憑かれたように包帯を解いていく。包帯の裏にはことごとく白い塊がびっしりとついていた。日本食レストランに出てくる白米のようだ。それがぜんぶ蛆なのだ。
包帯をすべて解く。皮下の脂肪層にぐるりと取り囲まれた赤黒い筋肉の断面があらわになる。
そこにも蛆虫が何十匹といて、表面を蠢きながら肉を食んでいるのだった。蛆がいっせいに動くさまは、白いさざ波のようだった。
蛆はなおも逃避をこころみた。切断面の筋肉のなかへ頭をつっこみ、潜り込む。
アランは人を呼んだ。すぐに看護婦がふたり、空の洗面器と、湯気のたつ湯盥をもってきた。
熱湯でピンセットを消毒する。グレースと看護婦らが黒人男の両手と残った右足をおさえこむ。
男の黒い顔から血の気が引いて、青黒くなった。
アランはピンセットで傷口の蛆を一匹ずつつまんでは洗面器へ投じた。
肉のなかに引っ込んでいる蛆は、先端を突っ込んでつまんで引きずりだす。
ところが切断面の中央、大腿骨を骨付きカルビみたいにしゃぶっている蛆はそろって諦めがわるく、引っ張ってもなかなか離れなかった。
自然とピンセットをつかむ手に力が入る。
男が未開の土着民族のような野太い声で叫ぶ。激痛に体を鋼のように硬直させ、もがいて暴れようとする。それを女たちが全力でおさえつける。
蛆は思いのほか食いつく力が強く、ほじくりだすというより、引きちぎるといったほうが近かった。
あらかたの蛆を除去し終わったとき、男にはもう叫ぶ気力さえなくなっていた。顔は涙と鼻水とよだれでぐちゃぐちゃだが、生きてはいるようだ。
洗面器は蛆の山だ。重さも片手にあまるほどだった。
蛆は憎たらしいほどどれもよく肥え太っていた。ころころとした白い蛆と、衰弱した黒い負傷者とは、戯画のように対照的だった。
医者としていろいろな怪我人を見てきたアランでも、猛烈な生理的嫌悪感に吐き気を禁じえなかった。
グレースや看護婦らは、汗だくになりながらも、断固たる顔で傷口の処置をおこなっていた。男よりも女のほうが、酸鼻きわまる陰惨な情景にむしろ強いらしい。
「生きている人間に蛆が湧くとは」
アランは洗面器からあふれんばかりの蛆虫の大群を見ながらだれにでもなくこぼした。
「いったいわれわれがどのような罪を犯したというのだ。神はわれわれを餌として蛆に売り渡したのか。いったい、森羅万象のなにものが、このようなむごいことをする権利を持つというのか」
独白に、グレースもまた苦悩に美貌をゆがませた。
アランは目の前が暗くなり、両手で頭をかかえた。
ずるり。
ふいにその手が滑った。まるで海水に洗われて苔の生えた岩みたいな滑りかただった。
両手をまじまじと見る。
汗にまみれた茶いろの繊維状のものが、十指に海藻のように絡まっていた。
ふたりとも呼吸を忘れ、愕然とその手を凝視する。
アランはおそるおそる自分の前髪を人差し指と親指でつまみ、引いてみた。
髪はなんの抵抗もなくするすると抜けた。
アランとグレースは、絶望の表情で顔を見合わせた。