第001話 奈落に落ちた雑用係
湿った石の匂いと、腐った血の臭気が鼻の奥にへばりついていた。
赤壁砦カルミナの地下、断層迷宮グラン=フォール第五層。灯火石の淡い青が、剥き出しの岩肌と、うずくまる死体の輪郭を冷たく照らしている。
「おい、灰拾い。止まるな」
背中を蹴られて、レンはよろめいた。肩に担いだ荷車の柄が食い込み、骨が軋む。振り返ると、斧槍を担いだガルグ班長が、口の端を吊り上げていた。分厚い顎に刻まれた古傷が、笑うたびに裂け目のように歪む。
「お前の仕事は餌だ。前で光を振れ。魔物が寄ったら俺たちが仕留める」
「……光を振るだけで、寄ってくるのは俺ですけどね」
レンが吐き捨てると、周囲の探索兵がくくっと笑った。すぐにガルグの目線を恐れて黙る。十五になったばかりのレンは、正式な探索兵ですらない。砦の裏で拾われた孤児。魔術適性儀式で授かった紋も、《残響》。使い切られた魔力の痕を薄く感じるだけの、どうしようもないハズレ扱いの魔術だ。
戦えない。治せない。壊せない。
だからこうして、死体から売れそうな牙や爪を剥ぎ、崩れた通路の先に毒ガスが溜まっていないかを嗅がされる。要するに、人間の消耗品だった。
「口だけは達者だな、レン」
隣で低い声がした。白髪混じりの探索兵、ザックが肩を竦める。片目を失った古参で、班の中で唯一レンに人間らしく接してくれる男だ。
「今日は嫌な音がする。足を速めろ。第五層は、静かすぎる」
ザックの言葉に、レンは頷いた。彼にも、僅かだが勘のようなものがある。そしてレンの《残響》も、今は嫌な波を拾っていた。石壁の向こうで、何層も重なった誰かの叫びが、耳ではなく骨に響いてくるような感覚。
通路の先で、空気が急に広がった。
そこは採掘用の大空洞だった。天井の高さは二十メートル以上。地面には古い魔法陣の跡が刻まれ、ところどころで黒い鉱脈が脈打つように光っている。迷宮核の欠片が採れるため、砦が最も欲しがる採掘場だった。
だが、今日は様子が違う。
空洞の中央、砕けた祭壇の上に、煤けた黒い結晶が浮かんでいた。手のひら大。だがその周囲だけ、空気がひどく重い。光が吸い込まれているみたいだった。
「見ろよ、当たりだ」
ガルグが唾を飛ばした。「上にゃ迷宮核の大欠片があるって報告すりゃ、報奨金が跳ねる」
「班長、あれは採取記録にない形だ」ザックが眉をひそめる。「先に司令部へ――」
「黙れ老いぼれ。報告したら、手柄は全部、貴族様と司祭様が持っていく。俺たちが先に押さえるんだよ」
ガルグは二人の部下に顎をしゃくった。部下たちは槍を構え、祭壇へ近づく。レンは無意識に一歩退いた。黒い結晶の周りで、空気に赤い線が走っていたからだ。
線は、レンにしか見えない。
石と石の継ぎ目。魔力の淀み。足を置けば崩れる点。刃が通る軌道。人が死んだ場所に残る、行為の痕跡。それが《残響》で感じ取れるものだ。だが、今見えている赤線は異常だった。まるで、この場でこれから起こることを、先に書き込んでいるように見える。
「待て!」
レンは叫んだ。「そこ、踏むな!」
しかし遅い。部下の一人の足が、黒く変色した石板に乗る。
瞬間、床下で巨大な歯車が噛み合うような音が鳴った。
空洞全体が震える。
「罠だッ!」
ザックが怒鳴り、レンの肩を掴んで後ろへ投げた。次の瞬間、祭壇の周囲の地面が輪状に崩落し、底の見えない縦穴が口を開いた。部下の一人が悲鳴を上げて消える。もう一人は縁にしがみついたが、黒い結晶から伸びた影みたいな触手に脚を掴まれ、静かに引きずり込まれた。
「班長! 引け!」
ザックが叫ぶ。だがガルグは引かなかった。逆に、笑っていた。
「やっぱりな」
その目は、最初から知っていた人間の目だった。
ガルグはレンの胸倉を掴み、崩落の縁へ引き寄せる。「残響持ちのお前が異常を拾った。なら、下にまだ何かあるってことだ。餌役には最後まで働いてもらうぜ」
「最初から……それが狙いか」
「砦の犬っころと老いぼれが死ねば、俺の取り分が増える」
ザックが斬りかかった。ガルグは斧槍で受け、鍔競り合いのまま足元の石を蹴り砕く。ザックの体勢が崩れた。そこへ別の部下が背中から短槍を突き立てる。
「がっ……」
「ザック!」
血が散る。ザックはそれでも倒れず、槍を背に受けたままレンの方へ振り返った。その片目だけが、異様に静かだった。
「走れ、坊主」
「でも」
「いいから、生きろ」
ザックは自分の体ごとガルグたちへぶつかった。三人がもつれ、崩落した床へ寄る。その一瞬で、レンは見た。赤い線が幾重にも重なり、ザックの死と、自分の落下と、その先の深い闇を指し示しているのを。
ガルグが叫ぶ。「逃がすな!」
短剣が飛ぶ。レンは身を捻った。短剣は頬を裂き、熱いものが流れる。足元の床がさらに沈む。レンは縁に爪を立てたが、石ごと砕けた。
世界が反転する。
落ちながら、レンは黒い結晶を見た。祭壇の上に浮かぶそれが、縦穴へ吸い込まれる自分を見下ろしていた。いや、見下ろしていたのは結晶じゃない。
その内側で、文字列のようなものが明滅していた。
《照合開始》
《外部残響、適合率――》
意味は分からない。それでも、どこか懐かしいと感じた。
耳元で風が裂ける。ザックの怒号も、ガルグの罵声も、もう遠い。代わりに、忘れていたはずの別の記憶が瞬いた。
薄暗い通勤路。
突っ込んでくる鉄の塊。
誰かの小さな手を押し返した感触。
前の人生の断片だ、と理解した瞬間、底が来た。
レンは闇の中へ叩きつけられた。背中から肺の空気が全部抜け、骨が悲鳴を上げる。だが運良く、落ちた先は水だった。いや、水と泥と腐肉の溜まり場。鼻と口に黒い液体が入り込み、吐きながら必死に這い上がる。
見上げても、縦穴の上はもう豆粒みたいな光しかない。
助けは来ない。
上ではガルグが、生き残った者の口も封じるだろう。ザックもたぶん、もう――。
レンは泥に膝をついたまま、拳を握り締めた。爪が掌に食い込む。痛みだけが、自分がまだ生きている証拠だった。
静寂の底で、何かが脈打つ。
目の前、泥の下から、あの黒い結晶がゆっくりと浮かび上がってきた。
落ちてきたのではない。待っていたかのように、レンの前へ滑ってきたのだ。赤い線が無数に集まり、その結晶へ繋がっている。迷宮そのものの血管みたいに。
レンが震える手で触れた瞬間、頭蓋の内側で声が弾けた。
《断章を検知》
《第零権限への経路を開放します》
そして、底なしの闇のさらに向こうから、獣の咆哮が響いた。砦で一度も聞いたことのない、階層そのものが目覚めるような、巨大すぎる声だった。




