後編
大人は日の暮れるあたりから出掛けてゆき、母さんや祖父母も、私に留守を任せて行ってしまった。
いつもより早い夕飯の片付けをしながら、部屋に差し込む夕日を眺めていると、勝手口のドアがコンコンと鳴った。葦平くんだ。招き入れて、テレビを見たり、宿題をしながら夜が更けるのを待った。
「どこの家も、いまはこどもばかりなんだよね。物騒だよね」
「そうかぁ?」
葦平くんは気にする様子もなく、プレッツェルをこりこりかじりながら、算数のドリルの答え合わせをしてくれている。
「田舎のセキュリティって……。私、ちゃんと住めるかな。大丈夫かな」
「何、こっちに引っ越してくんのか」
私のぼんやりした視線と、葦平くんが上げた視線とがかち合い、なんだか気まずいような心持ちになって顔をそらした。
いまの時点では、引っ越しなど、私の願望にすぎないのだ。なのに気分はせっかちで、もうこの家に住み着くつもりでいる。昨日までは、……そう、森に迷うまでは、街が恋しかったはずなのに。
「そんなにここが気に入ったんか?」
ドリルを閉じて返してくれながら、葦平くんは意外そうに首を傾げている。
「そりゃ悪いとこじゃないけどさ。でも店もねぇし人も少ねーし、俺は出ていきてーよ」
葦平くんは、他県の全寮制の高校に進学希望だと言う。通える範囲に学校がないみたい。
「自然という名のついた、単なる未開発だよな」
「でも、素敵だと思うわ。生き物だって、色々棲んでいるんだろうし」
やもりとか、梟とか……。そうつづけようとしたとき、風にのって太鼓の音が聞こえてきた。柱の時計を見ると、すでに九時をまわっていた。
「祭りのクライマックスだ」
言うや否や、葦平くんは立ち上がった。
「トイレ借りるわ。出る準備しようぜ」
「う、うん」
急にドキドキしてきた胸を押さえつつ、帰省の荷物を置いた寝室に移動した。葦平くんに、長ズボンに穿き替えろと言われていたのだ。素足では怪我をしにゆくようなものだ、と。とはいえ、レギンスぐらいしか持ってきてなくて、その上に母さんのレッグウォーマーを着けることにした。長袖のナイロンパーカーを羽織り、勝手口に向かう。
「やたら重装備だなー」
笑う葦平くんは半袖にジーンズのままで、むきだしの腕が向こう見ずな勇気をまとわせている。目立たないけれどすでに傷はいくつもあって、どこか誇らしげに鎮座ましましている。
私たちは足音を忍ばすように、慎重に駆けた。月明かりのために、地面の様子などがよくわかる。つまづくこともなく森の入り口に到達して、ふたり並んで、深呼吸をした。
「覚悟はいいな?」
葦平くんの問いかけに、私は息を止めて、顎を引く。
先導する彼のてのひらから、緊張が感じられた。私のような余所者が森を侵すよりもずっと重大な意味があるのだと、いまさらながらに気がついた。私は葦平くんに、幼い頃から体に、脳にしみこんできた禁忌を破らせているのだ。
「……ごめんなさい」
「何、急に」
「ばれたら、きっと怒られるわ」
葦平くんは行く手の枝を押さえたまま立ち止まり、振り返らずに言った。
「親父たちに目玉を食うのは、どうでもいいんだ。ただ……」
バサバサッと、茂みから何かが飛び立つ音がした。足元を駆け抜けてゆく気配もある。
耳を澄まさなくても聞こえる、感じる、森の営み。
小さな原生林で、私たちはちっぽけな存在だった。得体の知れない力があたりに横たわっているのを感じ、足がすくんだ。
「葦平くん……」
つないだ手に力を込めた。握り返され、ホッとしたのも束の間。
「やっべぇ。怖いわ」
それは、弱音とか、そういうレベルの話ではなく。
「はをりは、平気か」
葦平くんはゆっくりと振り向いた。その顔にはびっしりと畏れが張りついていて、取り除けば取り除こうとするほど色を濃くしてゆくよう。
太鼓の音は近い。祈りの言葉が、人数分にぶれて聞こえる。
でも、なぜだか別世界の感覚があった。大人たちがいるところと、私と葦平くんが立ち尽くしている闇の中と。こちらの声や物音はあちらに届かない、そんな気がする。
私たちは身を寄せあい、張りだした木の根元にしゃがんだ。絶えず迫ってくる森の息吹きに身を縮こまらせながら、これから起こりうる事態を想像した。
不思議は、おとといの夜に体験済みだ。
何が起きても、おかしくはない――
ホゥ、と、くぐもった獣の声がした。どこから聞こえるのだろうか。仰ぎ見ることもできずにいる私たちの頬を、堅い芯の通った羽根が落ちてきてかすめた。
「よくきましたね」
梟が、クルックルッと喉を鳴らしている。
「よきこと、かなしきこと。いつぶりだろうか。ふたりも、いっぺんに」
ふわぁと、顔の上半分が靄に覆われる感じがした。靄は、こどもの浴衣の帯みたいになって、ひらひら、ふわふわと首を一周し、服の首から中へ入ってきて胸を撫でた。
「ここは命の棲処。お還り、お還り……」
梟の鳴き声は魂を鷲掴みにする。じわりと視界ににじみだしてきた、無限の闇を感じさせる大木の、、うろへ、甘くいざなおうとする。
気が遠くなって、葦平くんの手を離しかけて、慌てて両手で握りなおした。必死に体温を伝えようとした。なぜなら、葦平くんは指先まで冷たく、冷たくなろうとしていたから……。
「助けて」
絞りだした声は、はかなく闇に紛れてしまう。
「私だけに、して。葦平くんは、返してあげて」
軽率な好奇心と反抗が、葦平くんを取り返しのつかないことに巻き込んでしまった。
そしていま、私だけが意識をつなぎとめている。これは、罪の意識に苛まれるがいい、ということなのか?
胸元のほわほわした靄を振り払うこともできずに、私は葦平くんを抱きしめた。ひんやりと静かな呼吸が耳たぶに触れる。
どうしたら救える?
私が、どうやって?
「簡単なことだ、身代わりになればいい」
嗄れた声が、わずかに鼓膜を震わせた。
「梟のやつは、いっぺんにふたつの魂を喰らいはしない。ひとつ喰ったら、しばしの間があく。その隙に、俺が坊主を逃がしてやる」
「そんなことをして、あなたは大丈夫なの?」
私は、姿は見えずとも声の主が昨晩のやもりだと気づいていた。やもりは、鼻で笑ったようだった。
「これから死ぬ者が心配することではない」
残酷な言葉だったけれど、響きはひどくやわらかかった。
私は身代わりになる方法を聞き出し、葦平くんの心臓の場所に、Tシャツの上から唇を触れた。羽毛を喉に詰められるような、くすぐったいような暖かな……そんな感じがして、ほんの少しずつ、私は酸素を吸い取られていった。
薄れゆく意識と視界の中に、三人の家族が住む家の姿が浮かんだ。
なつかしく、恋しい、あたたかな食卓。椅子に深く腰かけ、テーブルの下でこっそりと足をぶらぶらさせる小さな女の子が私。
たかだか何年か前の光景なのに、ひどく、遠い――
ぷつりと途切れそうになる生の際で、大きな鳥が羽ばたこうとする音と、湿った空気の揺れが聞こえた。
「――ぶっきらぼうだけど、根はやさしい人だったそうだよ。親父の、おじさんにあたる人」
灼けた顔を木漏れ日に眩しそうに歪めて、葦平くんが言った。
「その昔、葛城のじいさんと、いまは葛城のばあさんを取り合ったんだってさ」
私のおじいちゃんと葦平くんの大おじさんは、肝比べにと、五十年前の祭り日の夜に森へ入った。数えでもまだ十八に満たない少年たちだ。帰還したのは、おじいちゃんだけだった。
「もっと昔は、祭り日に生贄を捧げていたんだ。こどものな。それだけ森は、人にとって恐ろしい存在だったんだ」
――私たちは。
あの満月の夜、贄を欲する森の主に遭い、命をとられかけた。そして、森の鎮守に棲みついた一匹のやもりに助けられたのだった。
「大おじさんがやもりだったとはな。いや、やもりが大おじさんだったのか? あれ?」
葦平くんは歩きながら頭を抱え、答えの出ない問いに悩んでいる。
私は行く先に小さな社を見つけ、駆け足になって近づいた。古いけれど、よく手入れのゆきとどいた鎮守さまだ。
果物とお酒をお供えして、手を合わせ目を閉じた。となりに葦平くんがやってくる前に、ほんの一瞬だけ、やもりの気配を感じた。
「猛禽類に勝てるのかよ? 小せぇ爬虫類が。むしろ餌だろ……しっぽ切って逃げたかな、ちゃんと」
葦平くんはぶつぶつ言っている。
「だって、私たち生きているもの」
私が笑うと、
「死ぬほど怒られたけどな」
葦平くんも笑った。
「散々な田舎の思い出になっただろ」
今日は、私たち家族が街に帰る日だった。
事件を伝え聞いた父さんが、血相を変えてやってきたのは昨晩遅くのこと。駆けつけるなり私を抱きしめた父さんからは、知らない香水の匂いがしたけれど、腕の力強さに思わず泣きそうになった。
「――はをり。また、くるか?」
森からの帰り道、葦平くんがそっぽを向きつつ訊いてきた。
「うん、またくるよ」
招待状だと思った二枚の葉は、いつのまにか消えてなくなっていた。かわりに残ったのは、森への畏怖。怖い思いをしたけれど、どうしようもなく惹かれるのは変わりない。
「私、父さんのこと嫌いだけど、……好きなのかもしれない。少しはね」
「うん?」
我が家の事情を知らない葦平くんは、曖昧に頷いている。
私は彼の前に回り込んで、見上げて言った。
「ここにこのままいたいけど、いったん帰るね。色々みんなで考えて、話をして、それからまたくる。引っ越してくるとかは、別として」
父さんが余所に好きな女の人をつくったことと、私が、田舎の森に恋にも似た感情をもったことは、どこか根っこのほうで同じなのかもしれない――。
昨日、流しの前に母さんと並んで夕飯のあと片づけをしているときに、こういう意味のことを話してみたら、母さんは泡のついた小皿を取り落としてしまった。カチャンと儚い音で二つに割れた小皿は、ステンレスの底で水の流れを変えた。
母さんは唇を引き結び、いままで見せたことのないような意志をかためた表情をして、私にほほえみかけた。そして、泡のついていない手の甲で、そっと私の頬を撫でたのだ。
「……いつになるかわかんないけど。葦平くん、待っててくれる?」
なんだか告白みたいだとドキドキしていると、葦平くんは少し視線を泳がせてから、まっすぐ見おろしてきた。
「待っててやるよ」
そして今度こそいいところを見せてやるよと、恥ずかしそうに笑った。
*おわり*




