前編
迷い込んだのは月夜の森。
慣れない土地に不安だったのはたしかだけど、まさか初日からこんなことになるとは思わなかった。
湿っぽい土を踏みながら、私は生い茂る木々の葉の合間から空を見上げた。まじりけのない紺色が、ぼうっと淡く光っている。先ほど見た月は満月に近くて、とても明るかった。
「もしもし、お嬢さん、あなたはだれ? お年はいくつ? どちらの子?」
ホウ、ホウ、と。梟みたいな声が話しかけてくる。鈍く、オブラートに包まれたみたいな、重なりのある声。……人ではない。こんな深い森には不思議があってもおかしくない。
だから私は、問われたことに対して素直に答えた。
「私は三島はをり。小六で十二歳よ。夏休みだから、葛城のおじいちゃんとこに遊びにきてるの」
「ホゥー。葛城の」
梟は笑ったようだった。
「それで、森にはなんのご用」
「ええと、最初はおじいちゃんを呼びにきて……会えなくて……道がわからなくなって」
恐怖よりも、田舎の祖父母の家は今ごろ大騒ぎだと思うと肝が冷えた。都会人の父さんなんかは真っ青になっていることだろう。不必要に母さんや、たぶん、すでに帰宅しているだろうおじいちゃんを責めてなければいいけど……。
「今日のところは、やもりに送らせましょう。あの者は、人間界に親しいですから」
やわらかかった梟の声が、少しだけ強いものになった気がした。
「そのかわり、満月の晩に、もう一度この森にいらっしゃい。いいですね、はをりさん」
羽ばたきが聞こえて、葉が一枚、二枚、落ちてきて顔にあたった。暗闇に慣れた目で足元を見ると、つるつるした、きっと深緑の葉が二枚、その存在をアピールするかのように僅かな光をかき集めていた。拾い上げると、ぷんと清涼な匂いが鼻をついた。招待状のように思えて、表面をうやうやしく撫でてみる。なくさないよう、ホットパンツのお尻のポケットにしまっておく。
あの梟は、やもりが家まで送ってくれるみたいなことを言っていた。やもり……やっぱり、爬虫類のアレだろうか。やもりは民家に棲んでいるものではなかったのか。
本物に遭遇したことがないので苦手かどうかもわからないけれど、とりあえず、道案内をしてくれるならなんでもよかった。私は、目を凝らして地面を探した。
「おい、葛城の孫」
予想外に、声は上から降ってきた。そうか、やもりは木にも登るんだ。
私は慌てて顔を上げた。でも、目に入ったのはトカゲでもなんでもなく、人間の男の人。だから、かえって体が縮こまってしまった。
「なんだ、人間の娘は俺たちが苦手だろうから姿を変えてやってるのに。まだビビるか」
男の人は呆れたため息をついて、腰に手をあてている。中学生か高校生のお兄さんみたいだ。声は、嗄れたおじさんみたいなのに。
やもりは私に背を向け、歩きだした。足だってちゃんと人の形をしているのに、するする、ぺたぺた……なんて妙な音を立てて進んでゆく。私はついてゆくしかない。人間でなくやもりなら、きっと私を誘拐して悪いことはしないと思って、心を落ち着けた。
森の終わりが見え、いくつもの懐中電灯の光の線と、私を探す声が聞こえると、やもりのお兄さんは足を止めた。
「ここまでだ。……じいさんに、よろしくな」
それだけ言うと、ぱっと消えてしまった。
元の姿に戻ったのかさえわからない。
私は振り返り、真っ暗な奥のほうに向かってお礼を言って、森を出た。
翌朝の食卓に父さんはおらず、私と母さん、祖父母の四人で温かい料理を囲んでいた。座卓は足が痺れるけれど、そんなことは気にならない。おばあちゃんの味は数度しか食べたことないのに懐かしくて、ごはんを三杯もおかわりした。痩せの大食いだとからかわれながら、だし巻きたまごを頬張っていると、
「あの森なら心配ないと思っとった。いい森じゃろう。小さいが、原生林じゃ」
向かいの席でおじいちゃんが言った。まだ七十にもなっていないのに、仙人みたいに髪も長い髭も真っ白だ。禿げた頭頂部をテカらせて、葱のたっぷり入った味噌汁をすすっている。
「今度はじじいと一緒に行こうや。色々説明してやろう。お社の神様も歓迎してくれるじゃろ」
「神様」
箸を止め、私はおじいちゃんを見つめた。梟のことと、やもりの言葉を思い出したのだ。昨夜はそれどころじゃなくて、すっかり伝えそびれていた。
「やもりさんが、おじいちゃんによろしくって言ってたよ」
お母さんとおばあちゃんが目をまるくした。でも、笑いとばすとか眉を顰めるとか、そういうことは一切せずに、うんうんと無言で頷いた。もしかしたら出会ったことがあるんじゃないかと思ったけれど、問う前におじいちゃんが話しはじめた。
私は、皺の谷の底で輝く目に私は視線を据えて、お茶を飲んだ。
「やもりに送ってもらったか、そうか」
おじいちゃんは楽しそうに笑い、
「あいつとは、もう長いこと会っとらんのう……儂は」
淋しそうに、ふっと顔を曇らせた。だから私は、ほとんど衝動的におじいちゃんを誘っていた。
「満月の夜にね、また森に行くことになっているの。おじいちゃんも一緒に行こう」
葉っぱの招待状は二枚ある。
決まりだった。なのに。
「もう森に近づくな。昼前にはここを発つ」
父さんのトゲトゲした言葉が、楽しげにぷかぷか宙に浮いていた気分を突き刺した。心臓の中の、神秘的な期待が液漏れするようだった。
「……父さんだけ帰ればいいじゃない」
「なんだって?」
怒気を含んだ低い声が、お皿から立ちのぼる湯気を吹き飛ばした。沈黙が、お椀の麦ごはんをかたくする。
この時ほど、私は父さんを嫌いだと思ったことはなかった。ふだん、朝にしか顔を見ることのない父さんは、祖父母よりも遠い存在だ。もちろん、家族を養うために遅くまで仕事をしているという名目なのは、心得ている。でも、帰宅の遅い真の理由を私は知っていた。そんな父さんに、夏休みの計画を勝手にねじ曲げられるいわれはない。
父さんはしばらく私の反抗と、萎縮する母さんの肩とを見比べていた。嫌な目。私をダシにして、早く街に帰りたいのだ。……アイジンのもとへ、行きたいのだ。
最初から、ついてこなかったらよかったのに――もう少しで口に出すところだったのを、呵々と、好々爺の笑い声が制止した。
「誰しも生きる土地は違うもの。侵しもせず、引き留めもせず、じゃ」
おじいちゃんの言葉に反論したそうな父さんだったけれど、やがて、あやふやに笑って行ってしまった。
「悪かったの、やい子」
母さんに謝るおじいちゃんは、なんだか本当に仙人みたいだった。母さんは安堵したような、でもまだ怯えたような表情で首を振っていた。
母子で、この家に残れたらいいのにと思う。ここは田舎すぎて、コンビニのかわりによくわからない洞や社や廃屋があるけれど、昨晩の森が味方についた気がして、足の裏から根が伸びはじめたような感じがしていた。私はすっかりこの土地のことが好きになっていた。
車のエンジン音が遠ざかってゆくのを聞きながら、そう遠くない将来に、私の希望は実現するのではないかと思った。学校で仲のいい子たちは私立の中学に進むので、未練はない。
「――で、はをり。満月の夜、じゃったかな」
朝食を再開して、おじいちゃんは味噌汁をすすった。
「森の鎮守の祭り日じゃの」
「お祭り」
私の頭の中で、大きく翼を広げた梟が夜空に舞い、森に住む獣たちが跳ねて躍った。やもりのお兄さんが、ぶつくさ言いながらも私の手を取って祭りの輪に入ってゆく。それはなんて幻想的で、胸の内がさわさわとくすぐったい光景なのだろう。
箸を持ったままうっとりしている私に、
「祭り日に、こどもは森に入ってはいかん」
冷水を浴びせるかのような、おじいちゃんの言葉が降りかかった。強制的に夢から醒まされた私は箸を畳に取り落とし、座卓に手をついて立ち上がった。
「なんでっ? 梟に、呼ばれたのよ」
「だめなんじゃ。また、別の日に連れて行ってやるから。なぁ、はをりはいい子じゃろ」
なだめるおじいちゃんの声を振り切って、私は縁側から裸足のまま飛び降り、森へ向かって駆けた。
せっかくの気分が台無しだ。父さんだけでなく、おじいちゃんまで。
森が、呼んでいるのよ。誘いに応じないなんて、そんなことができる?
森の入り口は、午前の早い時間に見るとまだ暗くて、ほんの先までも視界がきかなかった。夜の気配を残しているのだ。昨日の夕方時分は、昼のあかりをゆっくり消化しているような感じで、やわらかな雰囲気があったのに。いま目の前にあるのは、難しい言葉で表せば静謐のみ。
少し尻込みして、息を潜めていたら、うしろから肩に手を置かれた。息を呑んで振り返ると、昨晩のやもりがしかめっ面で私を見おろしていた。
「地元じゃないやつが入ったら、また迷うぞ。昨日みたいに」
彼は擦り切れたジーンズとTシャツを着ていて、手に虫カゴをさげていた。ぷっくりとしたクワガタのつがいが、土の上でカサコソ音を立てている。
「やもりって、こんなのも食べるんだ……?」
「はあ? こんな立派なの食べねぇよ」
私の疑問を一蹴して、彼は虫カゴを背中に隠した。心なしか、顔が赤いような気がする。私から目をそらし、頭をかいて、
「田舎の中学生はほかにやることがねぇんだよ。悪かったな、ガキで」
ぼそぼそっと言った。声変わりするかしないかの少年の声だ。
「やもりさんじゃないんだ……」
私が落胆すると、
「何、やもりが欲しいのか? 珍しい女だなぁ。探すとこ間違ってるぜ、家の裏とか見てみろよ」
近所、と言っても何百メートルか離れた家のこどもの彼は、少し打ち解けたような笑顔になった。葦平くんという名前で、中学二年だそうだ。昨晩は私の捜索に加わっていてくれたらしい。
「探検なら付き合ってやるよ」
そう言って虫カゴを足元に置き、さっさと森に入ってしまった。手招きする姿が消えてしまわないうちに、私も急いで鬱蒼とした中へ飛び込んだ。葦平くんは手を引いてくれ、でこぼこ道をサポートしてくれた。
「明日は祭り日だかんな。夕方から大人が準備にくるから、見つかったら追い払われちまうぜ」
張り切って脇の茂みに身をねじ込ませ、道なき道を進む葦平くんが言った。
「今年は、うちが当番なんだ。親父がやたら張り切ってるっつうか、なんつうか鬼気迫るっての? おまえが行方不明になった昨日の晩からすごいピリピリしてんだよな。出くわしたら殴られるわ」
本心はどうだかって感じだったけど、葦平くんは親父なんか恐ろしくないぞってふうに肩をすくめてみせた。訊くだけ野暮なような気がしたけど、とりあえず質問してみる。
「やっぱり、お祭りの夜にここにくるわけにはいかないの?」
「決まりだからな」
ふと歩みが止まり、なんだか腕白坊主な顔が私を振り向いた。
「何、祭りを見てみたいのか」
私が思わず頷くと、葦平くんは胸の前で左の拳を右のてのひらに打ちつけ、にやりと笑った。
「よし、忍び込もうぜ」
「え、ええっ」
言い出したのは私なのに、いざ誘われると怖じ気づいてしまう。
「俺も前から気になってたんだよなー。十八になりゃ参加できるんだけど、まだまだ先の話だし。おまえ、覚悟はいいな」
「な、なんの覚悟よ」
「決まってるだろ、掟を破る覚悟だよ」
勇ましく言う葦平くんの口の端が、かすかに震えているのに気づいた。この少年は、私のために一肌脱いでくれようとしているのだ。
頷くべきか悩んだ。きっと、あとで親父さんに叱られることになるだろう……。
「なんだよ、やめるのかよ」
じれったそうな表情が年上とは思えなくて、私はつい噴きだしてしまった。それから、彼の前に手を差し出した。
「よろしく! 葦平くん」
「おう、逃げ出すなよ」
どっちが、などと言い合いながら、私たちは引き返した。
本番は明日、満月の、祭りの夜。




